月夜の宝石は泥中ごときには染まらない―冷遇された公爵令嬢が、隣国の至宝として輝くまで―
@jnkjnk
第1話:凍てつく夜の断罪
冬の夜空に浮かぶ月は、凍りついたように冷たく、そして鋭く地上を照らしていた。王都の空気が張り詰める中、王宮の大広間では煌びやかなシャンデリアの下、貴族たちが集う夜会が催されている。グラスが触れ合う軽やかな音、絹擦れの音、そして甘い香水の匂い。誰もが笑顔を浮かべ、享楽的な時間に身を委ねていた。
その華やかな喧騒から弾き出されるように、エリーゼ・フォン・ヴァルデックは壁際の柱の陰にひとり佇んでいた。
彼女が纏っているのは、流行遅れの濃紺のドレスだ。公爵令嬢という高位の身分にありながら、装飾は最小限に抑えられ、首元を飾る宝石も小ぶりな真珠が一粒あるだけ。だが、その質素な装いですら、彼女の生まれ持った美貌を損なうことはできていなかった。亡き母から譲り受けた流れるような銀髪と、理知的で深い紫紺の瞳。背筋をすっと伸ばして立つ姿は、まるで冬の湖に咲く一輪の氷花のようで、周囲の令嬢たちが放つ派手な華やかさとは一線を画す、静謐な気品を漂わせていた。
「あら、見て。あそこの壁の花」
「ヴァルデック公爵家の御長女ね。今日もまた、あんな古臭いドレスで」
「妹君のソフィア様はあんなにも可憐でいらっしゃるのに。まるで使用人のようだわ」
扇で口元を隠した貴婦人たちの囁き声が、さざ波のようにエリーゼの耳に届く。彼女は表情ひとつ変えず、ただ静かにその嘲笑を受け流した。慣れていたからだ。実母が亡くなり、父が後妻としてマーガレットを、そしてその連れ子であるソフィアを迎え入れてからというもの、エリーゼの世界は一変した。
家の中での居場所は奪われ、公爵家令嬢としての予算はすべて継母と義妹の贅沢に消えた。それだけならまだしも、領地経営の実務や屋敷の管理といった面倒な仕事はすべて、「長女としての務め」という名目でエリーゼに押し付けられたのだ。書類仕事に追われて寝不足の目をこすりながら、それでも彼女は文句ひとつ言わずに耐えてきた。それが亡き母の愛した公爵家を守る唯一の方法だと信じていたから。
(今夜も、カイル様はいらっしゃらないのかしら……)
エリーゼは広間を見渡し、婚約者であるカイル・バーンスタイン伯爵令息の姿を探した。カイルとは政略結婚の婚約者同士だが、幼い頃から交流があり、互いに支え合っていける関係だと信じていた。冷遇される家庭環境の中で、彼との結婚だけが、この家を出て穏やかに暮らすための唯一の希望だったのだ。
その時、会場の入り口がにわかに騒がしくなった。
楽団の演奏が一瞬止まり、人々の視線が一斉に注がれる。そこに現れたのは、探していたカイルだった。だが、彼の腕には、本来そこにいるべきエリーゼではなく、別の女性がしがみついていた。
淡いピンク色の、たっぷりとレースを使った豪奢なドレスを纏った少女。ふわふわとした金髪を揺らし、愛らしい瞳を潤ませているのは、義妹のソフィアだ。
エリーゼの心臓が早鐘を打つ。嫌な予感が、背筋を冷たい指でなぞるように這い上がってきた。
カイルはソフィアを伴って、大広間の中央へと進み出た。周囲の貴族たちが道を開ける。エリーゼもまた、吸い寄せられるようにその輪の方へと歩みを進めた。
「カイル様、それにソフィア……。遅かったのですね」
努めて冷静に、エリーゼは声をかけた。しかし、カイルはエリーゼを一瞥すると、まるで汚いものでも見るかのような軽蔑の眼差しを向けた。かつて優しく微笑んでくれたその顔は、今は憎悪に歪んでいる。
「エリーゼ! よくもぬけぬけと私の前に顔を出せたものだな!」
カイルの怒号が広間に響き渡った。ざわめきが波のように広がり、好奇の視線が突き刺さる。
「……どういうことでしょうか。私はただ、婚約者としてあなたをお待ちしていただけです」
「黙れ! その澄ました顔の下で、どれほど恐ろしいことを考えていたのかと思うと反吐が出る!」
カイルはソフィアの肩を抱き寄せ、彼女を庇うように一歩前に出た。ソフィアは怯えた小動物のように体を震わせ、カイルの胸に顔を埋めている。
「皆様、聞いていただきたい! 私、カイル・バーンスタインは、このエリーゼ・フォン・ヴァルデックとの婚約を、今この場をもって破棄することを宣言する!」
婚約破棄。その言葉が重く、冷たく響いた。エリーゼは息を呑んだ。公衆の面前での婚約破棄宣言など、貴族社会においては前代未聞の醜聞だ。家の名誉に関わる重大事を、よりによって王宮の夜会で行うなど、正気の沙汰ではない。
「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
動揺を押し殺し、エリーゼは静かに問うた。感情的になって泣き叫べば、それこそ彼らの思う壺だ。彼女に残された武器は、母から受け継いだ矜持と理性だけだった。
「理由だと? 自分の胸に聞いてみるがいい! お前がこの清らかなソフィアに対して行ってきた、数々の非道な行いを!」
カイルは弾劾するように指を突きつけた。
「ソフィアの大切にしていたドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとし、さらには彼女の持ち物を盗んで使用人のせいにしたそうだな! 家の中では『お前のような平民上がりの娘は公爵家に相応しくない』と罵り、食事さえ満足に与えていないと聞いたぞ!」
身に覚えのない罪状の数々に、エリーゼは目を見開いた。ドレスを切り裂いた? むしろエリーゼのドレスを汚したのはソフィアの方だ。食事を与えない? 領地の帳簿整理で食事を抜いていたのはエリーゼの方ではないか。
「それは誤解です、カイル様。私はそのようなことを一度も……」
「まだ白を切るつもりか! ソフィアは泣きながら私に相談してくれたのだぞ。お姉様が怖い、でも家族だから仲良くしたいと、健気にもお前を庇いながらな!」
カイルの腕の中で、ソフィアがちらりと顔を上げ、エリーゼを見た。その瞳の奥には、怯えなど微塵もなく、優越感に浸る昏い笑みが浮かんでいた。
「お姉様……ごめんなさい。私、もう耐えられなくて……。カイル様にお話ししてしまったの」
ソフィアの鈴のような愛らしい声が、周囲の同情を誘う。
「なんて可哀想な」
「やはり噂は本当だったのね。あの冷たい目つき、最初から気に入らなかったのよ」
「継母と義妹をいじめるなんて、悪女の極みだわ」
周囲の貴族たちは、完全にカイルとソフィアの劇場型演技に飲み込まれていた。彼らにとって真実などどうでもいいのだ。退屈な夜会に提供された、最高のゴシップという名の生贄がいればそれでいい。
「お待ちくださいませ!」
そこへ、悲痛な叫び声を上げて一人の女性が飛び出してきた。派手な真紅のドレスに身を包んだ、継母のマーガレットだ。彼女はカイルの前に跪き、大袈裟に涙を拭った。
「カイル様、どうか娘のエリーゼをお許しください! 全ては、私の教育が至らなかったせいなのです。あの子は、亡くなった前妻様のことを思うあまり、私が産んだわけではないソフィアや、後から入った私を受け入れられず……心が歪んでしまったのですわ!」
「お母様……!」
「ああ、マーガレット夫人。あなたはなんて慈悲深いのだ。これほどの仕打ちを受けてなお、この悪女を庇うとは」
カイルは感極まったようにマーガレットの手を取った。
なんという茶番だろうか。エリーゼは冷ややかな目でその光景を見ていた。心が歪んでいるのは誰なのか。公爵家の財産を食い潰し、エリーゼに全てを押し付けて贅沢三昧をしているのは誰なのか。
「義母様、いいえ、マーガレット様。貴女はよくご存じのはずです。私が領地経営の仕事に追われ、誰かをいじめる暇などなかったことを。そして、ソフィアのドレス代のために、私の母の形見の宝石を勝手に売り払ったのが誰であったかを」
エリーゼの声は凛としていた。その場にいた何人かが、彼女の言葉の重みに気圧されたように口を閉ざす。だが、マーガレットは一瞬顔を引きつらせた後、さらに声を張り上げて泣き崩れた。
「酷い! 酷すぎますわ! 盗人猛々しいとはこのこと! 皆様、聞いてくださいまし、あの子は家でもこうやって私を精神的に追い詰めるのです!」
「貴様、まだ夫人を侮辱する気か!」
カイルが激昂し、エリーゼに詰め寄ろうとする。その時、人垣が割れ、重々しい足音が響いた。
「騒がしいぞ。何事だ」
現れたのは、エリーゼの実父、ヴァルデック公爵だった。初老の彼は、困惑と苛立ちの入り混じった表情で騒ぎの中心を見回した。
「お父様……」
エリーゼは縋るような思いで父を見た。父ならば知っているはずだ。エリーゼがどれほど家のために尽くしてきたかを。ソフィアたちの浪費を埋め合わせるために、どれほど奔走してきたかを。彼が少しでも娘としての愛情を持っていれば、この理不尽な状況を止めてくれるはずだと、心のどこかで期待していた。
「あなた! ちょうど良いところに! エリーゼが、またソフィアをいじめたのです! しかもカイル様にまで嘘をついて……私、もう怖くてこの家にはいられませんわ!」
マーガレットが公爵の腕にしなだれかかり、あざとく訴える。公爵はチラリとエリーゼを見た。その目は、娘を見る父親の目ではなかった。面倒な問題を直視したくない、事なかれ主義者の目だった。
彼はため息をつき、エリーゼに向かって冷たく言い放った。
「……エリーゼ。お前には失望した」
その一言で、エリーゼの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
「お父様、私の話を聞いてください。私は何も……」
「黙りなさい! これ以上、恥を晒すな。カイル殿やマーガレット、ソフィアがこれほど言っているのだ。火のない所に煙は立たぬと言うだろう」
父は事実を確認しようともしなかった。ただ、目の前の騒ぎを収め、愛する後妻の機嫌を取ることを選んだのだ。亡き母が愛し、守ろうとした公爵家の当主である父は、とっくの昔に死んでいたのかもしれない。
「カイル殿。娘の非礼を詫びよう。婚約破棄の件、承認する」
「賢明なご判断です、公爵閣下」
「そしてエリーゼ。お前は今日限り、この家から出て行きなさい」
「……え?」
「北の国境近くにある修道院へ入れ。そこで一生、罪を償いながら神に祈って過ごすがいい。二度と、私の前に顔を見せるな」
修道院行き。それは貴族令嬢にとって、社会的な死を意味する。しかも北の国境といえば、極寒の地だ。着の身着のままで追い出されれば、生きて辿り着けるかどうかも怪しい。これは事実上の追放であり、死刑宣告に等しかった。
「……本気で、おっしゃっているのですか」
「くどい! 衛兵! この女を連れ出せ! 直ちに馬車に乗せ、北へ送るのだ!」
父の命令に応じ、王宮の衛兵たちがエリーゼの細い腕を乱暴に掴んだ。
痛みはない。ただ、心が凍りついていく感覚だけがあった。
ソフィアはカイルの影で、音もなく笑っていた。「ざまぁみろ」と口の形だけで動かして。
マーガレットは勝ち誇った顔で公爵に寄り添い、周囲の貴族たちは哀れみと蔑みの視線を送っている。
誰も、エリーゼを助けようとはしない。
(ああ、そうか。もういいんだわ)
ふと、エリーゼの胸に不思議な感情が湧き上がった。それは絶望よりも深く、しかしどこか透明な「諦め」だった。
今まで必死に守ってきたもの。父の愛、家の名誉、母との約束。それらはすべて、泥の中に沈んでしまった。これ以上、この泥沼の中で足掻く必要はないのだ。
もう、誰の期待にも応えなくていい。
もう、誰も愛さなくていい。
「……承知いたしました」
エリーゼは抵抗するのをやめ、静かに頭を下げた。その声は驚くほど落ち着いており、会場の喧騒を一瞬にして鎮めるほどの冷徹な響きを持っていた。
「私の言葉など、誰の耳にも届かないようですから。これ以上の弁明はいたしません。ただ」
彼女はゆっくりと顔を上げ、かつての家族たちを見据えた。その紫紺の瞳は、涙ひとつ浮かべておらず、宝石のように硬質な輝きを放っている。
「公爵家の経営が、私なしで成り立つとお思いなら、どうぞお好きになさってください。後悔なさらぬよう」
「なっ……! 負け惜しみを!」
カイルが何か叫んだが、エリーゼはもう彼を見なかった。彼女は衛兵に促されるまま、毅然と背を向け、大広間の出口へと歩き出した。
その背中は、罵声を浴びせられ、全てを奪われた者とは思えないほど、気高く美しかった。
大広間の扉が重々しい音を立てて閉ざされる。
閉ざされた扉の向こうから、再び音楽と笑い声が聞こえ始めた。まるで、邪魔者が消えて清々したと言わんばかりに。
エリーゼは衛兵たちに連れられ、裏門へと回された。そこには、みすぼらしい無蓋の馬車が一台、ぽつんと待っていた。
「さあ、乗れ。道中の水とパンくらいは用意してある」
衛兵に突き飛ばされるようにして、エリーゼは固い荷台に乗り込んだ。
御者が鞭を振るい、馬車が動き出す。石畳を車輪が削る音が、夜の闇に吸い込まれていく。
王都の光が遠ざかっていく。
見上げれば、空からは白いものが舞い落ちてきていた。雪だ。
薄いドレス一枚の体には、夜風が刃のように突き刺さる。
寒さが感覚を奪っていく中で、エリーゼは強く唇を噛み締めた。
涙は流さない。あの人たちのために流す涙など、一滴たりとも持ち合わせてはいない。
「さようなら。愚かな人たち」
小さく呟いた言葉は、白い息となって虚空に消えた。
こうして、公爵令嬢エリーゼ・フォン・ヴァルデックの名は、王都の社交界から永遠に消え去ることとなった。
だが、この時の彼らはまだ知らない。
自分たちが捨てたものが、ただの石ころではなく、磨けば国さえも傾けるほどの至宝であったことを。
そして、その宝石を拾い上げる者が、すぐ近くまで迫っていることを。
雪は降り続き、世界を白く染め上げていく。
それは終わりではなく、新たな物語の始まりを告げる、静かなる幕開けだった。
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