他人の顔で笑えない
その日は、事前に告知されていた。
【重要】
本日午前九時三十分より、感情配給システムの定期点検を実施します。
点検中、一部感情供給が停止・変動する可能性があります。
落ち着いて行動してください。
誰も騒がなかった。
感情はインフラであり、停止は工事と同じだった。
午前九時三十分。
駅のホームは、いつも通り整然としていた。
電車は定刻通りに到着し、人々は適切な距離で並ぶ。
安心指数は「適正」。
共感指数も「適正」。
問題は、九時三十一分に起きた。
誰かが、突然泣き出した。
若い男だった。
理由もなく、声を上げて泣いていた。
周囲の人間は、戸惑いながらも、正しい反応を探そうとした。
だが、身体が動かない。
共感が、来ない。
「……どうすればいい?」
誰かが呟いた瞬間、別の女が笑い出した。
高らかで、抑制のない笑いだった。
不謹慎だと理解できても、止められない。
街のモニターが一斉に切り替わる。
《感情指数:測定不能》
初めて見る表示だった。
怒りが溢れた。
これまで削減され、抑制され、配給されてきた感情。
行き場を失ったそれらが、個人の内部から噴き出した。
殴り合いが始まり、抱き合う者が現れ、理由もなく叫ぶ者がいた。
恐怖だけが、異様に鮮明だった。
——死にたくない。
——失いたくない。
——独りになりたくない。
誰も、その感情に慣れていなかった。
感情インフラ庁は、緊急放送を流す。
落ち着いてください
これは一時的な障害です
感情はすぐに回復します
しかし、「落ち着く」という方法を、誰も知らなかった。
白い部屋では、トレーナーが立ち尽くしていた。
新しい訓練生たちが、泣き、怒り、怯えている。
正解の笑顔は、もう役に立たない。
トレーナーは、初めて理解する。
——これが、本来の感情なのだと。
だが、それを処理する器は、彼女の中には残っていなかった。
情報過多のように、感情が流れ込み、彼女の意識は、静かに焼き切れた。
午後四時。
配給は復旧した。
安心が戻り、共感が配られ、悲しみは再び抑制された。
街は、何事もなかったように整った。
怪我人は「事故」として処理され、死者は「例外的事象」として統計に収められる。
人々は、思い出せない。
泣いた理由も、
笑った理由も、
恐怖の正体も。
ただ、胸の奥に、説明できない空白だけが残った。
翌日、掲示板に新しい告知が貼られる。
【お知らせ】
昨日の例外日は無事終了しました。
ご協力ありがとうございました。
今後、同様の事態が起きぬよう、感情配給の最適化を進めます。
誰も立ち止まらない。
誰も疑問を持たない。
ただ一人、白い部屋の鏡の前で、新しいトレーナーが微笑み方を練習している。
口角は七ミリ。左右差は一ミリ以内。
目輪筋をわずかに収縮させ、呼吸は浅く、心拍は一定に。
——例外は、もう許されない。
他人の顔で笑う Towa @To_wa0103
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