第2話

 訓練を重ねるほど、私は「上手く」なった。


 会社では、上司の冗談に適切なタイミングで笑い、同僚の愚痴に、正しい角度で頷けるようになった。


 だが、身体と感情は、次第に噛み合わなくなっていった。


 嬉しいはずの場面で、胸は動かない。

 何も感じていないのに、口角だけが上がる。


 ある朝、洗面所の鏡を見て、私は手を止めてしまった。


 鏡の中の私は、私が意識する前に、微笑んでいる。


 慌てて表情を戻す。

 遅れて、鏡の中の顔が真顔になる。


 そのズレは、日に日に広がっていった。

 それを確信したのは夢が可笑しくなったから。




 夢の中で、私は知らない人生を生きていた。


 畳の匂い。

 夕暮れの台所。

 「おかえり」という声。


 胸が締めつけられるほど懐かしい。

 だが、その記憶の中に、私自身が存在していない。


「これは、感情だけじゃないですよね」


 訓練後、私はトレーナーの女に尋ねた。


 彼女は、ほんの一瞬だけ沈黙した。


「感情は、記憶と不可分です。文脈のない感情は、再現できない」


「じゃあ、私の記憶は?」


「……不要なものから、上書きされます」


 不要。

 その言葉が、胸の奥で反響した。




 感情トレーニング施設は、単独の施設ではなかった。

 それは、巨大な行政システムの末端に過ぎない。


 感情インフラ庁。

 人々の情動反応を監視・調整し、社会全体の「安定」を維持する組織。


 怒りは犯罪率を上げる。

 悲しみは生産性を下げる。

 過剰な喜びは、秩序を乱す。


 だから、感情は均される。


 水道の水圧のように。

 電力の供給量のように。


 不足すれば補い、過剰なら削る。


 個人の感情は、公共資源の一部だった。

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