噛む音がする

瑞ノ星

噛む音がする

昨日までは、何もおかしくなかった。

トマリという女は、そう思い込むことにした。


二十五歳。実家暮らし。躁と鬱を行き来する生活にも、もう慣れた。


調子がいい日は世界が妙に鮮やかで、頭の回転も早い。悪い日は、息をするだけで精一杯になる。それだけの違いのはずだった。


週三に一回、精神科に通う。昼前に帰宅したトマリは、玄関を開ける。二階の奥の部屋、自室に向かって一直線に歩こうとした。しかし、台所から漂う甘い香りに足を止める。母親がケーキを焼いていた。


ケーキを見て思い出す。今日は数少ない友達の誕生日で、家に遊びに来るのだ。親ぐるみで仲がいいから、親が張り切っている。鼻歌を歌いながら、ケーキにホイップを乗せている。


トマリが違和感に気づいたのは、その時だった。ソファに、化け物が座っている。


人の形をしている。けれど、輪郭が定まらない。視線を合わせようとすると、頭の奥が拒絶する。何故かトマリは、その存在に強い殺意を抱いた。


__まだ、いたのか。


トマリは戸惑った。昨日までは、この存在を家族として受け入れていたはずなのに。今日ははっきりとおかしいと分かる。躁の時に訪れる、あの過剰な明瞭さだった。


午後、トマリの友達がやって来た。

奥の部屋の、誰も使っていない部屋で、二人でケーキを食べよう、という話になっている。


部屋に入ると、すでに化け物が座っていた。テーブルの前。まるで最初からそこにいるかのように。


心臓が強く脈打つ。呼吸が浅くなる。殺意が湧く。友達は気にも留めず椅子に座った。


「どうしたの?」

不意に、友達がトマリに声を掛けた。


「…あれ、誰?」

声が震えた。友達は不思議そうに首をかしげる。


「誰って、家族じゃないの?」


違う。

あれは、家族じゃない。


そう確信した瞬間、同時に疑念が押し寄せる。また自分が見誤ってるだけかもしれない。病気のせいで、現実を歪めているのかもしれない。そう考えると、友達の顔もぼやけてきた。よく考えれば、躁鬱の自分に友達はいない。なら親は、誰のためにケーキを焼いていた?そもそも、ここにケーキはあるのか?


スマホを握る。絶対に化け物のせいだ。殺さなければ。どうにかしなければ、と思うのに、指が動かない。


ふと、視界の隅で何かが動いた。


化け物が、友達の方へ身を傾けている。口元が歪み、影が重なる。


ぐちゃり。


友達が、化け物に食われている。


ケーキの甘い匂いが、急に重たく感じられる。友達の声は聞こえない。トマリの喉は締めつけられ、叫びは出なかった。


化け物は、ゆっくりとこちらを見た。

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噛む音がする 瑞ノ星 @mizunose_k

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