異世界で魔王を倒したら ち◯こに時限爆弾つけられたんだが〜献身ギャルから幸薄人妻まで、彼女たちの絶望を愛で塗り替える現代勇者の無双録〜

大気圏

第1話 帰還、そしてブラック企業からの脱出

「ぐっ……ぁ……!」


強烈な痛みが、心臓を鷲掴みにした。

目の前が真っ白になり、呼吸ができない。鉛のような倦怠感が全身を押し潰していく。


(ああ、死ぬ……。今度こそ、本当に……)


それは、生々しく、もっと現実的な、「過労死」寸前の肉体の悲鳴だった。

反射的に、俺の魂が叫んだ。


(――ヒール!)


瞬間。

身体の内側から温かい光が溢れ出す感覚があった。

締め付けられるような胸の苦しみが、嘘のようにスゥーッと消えていく。

泥のように淀んでいた血液が浄化され、細胞の一つ一つが瑞々しく蘇るような、圧倒的な全快感を感じた。


……

…………

…………………

俺は意識を覚醒させた。


「……はぁ、はぁ……助かった、のか?」


俺は荒い息を整え、ゆっくりと顔を上げた。

視界が揺らぐ。魔王城の玉座ではない。焦げ臭い戦場でもない。

そこにあったのは、無機質で薄汚れたグレーのデスクだった。


「……え?」


耳に入ってきたのは、ジーーッという古びた蛍光灯が発する不快なノイズと、遠くで響くキーボードを叩く乾いた音。

鼻をつくのは、酸化した安物のインスタントコーヒーと、染み付いたタバコのヤニ、そして埃っぽいカーペットの臭い。


10年間、夢にまで見て、そして最も忌み嫌っていた場所の匂いだ。


俺は恐る恐る、目の前のモニターを見た。

作りかけのエクセルファイル。膨大な数字の羅列。

そして、右下のタスクバーに表示された日付。

2024年4月8日(月)


「……嘘だろ」


声が震えた。

間違いない。俺が異世界に召喚された、あの日だ。

20連勤目の昼休み前。過労と睡眠不足で意識が飛び、そのまま異世界へ連れ去られた運命の日。


「帰って……きた?」


魔王を倒し、あの黒い闇に包まれた後、俺は時間を遡り、元の世界に戻ってきたのか?

状況を理解しようと頭がフル回転するが、混乱が勝る。


俺はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、逃げるようにトイレへと駆け込んだ。


洗面台の鏡を見る。

そこに映っていたのは、ボサボサ髪で死んだ目をした、27歳の俺――仲出健二(なかでけんじ)だった。


「……細い。」


異世界で10年剣を振り続け、鋼のように鍛え上げた筋肉は見る影もない。

手には剣ダコもなく、ただの貧弱なサラリーマンの手だ。


だが、違和感があった。

記憶にあるこの頃の俺は、肌荒れが酷く、顔色も土気色だったはずだ。

なのに、鏡の中の俺の肌は、まるで剥きたてのゆで卵のように白く、瑞々しい透明感を放っている。頬を触ると、驚くほどモチモチとしていた。

髪もボサボサながら、色艶が良い。


「なんだこれ……? 肌とか、赤ちゃんみたいになってるけど……?」


まだ状況は飲み込めない。だが、これだけは確かだ。

俺は帰ってきた。あの地獄のような異世界での奴隷労働から、この地獄のようなブラック企業へ。



その時だった。


「おいコラァアアア!! 仲出ェ!! どこでサボってやがる!!」


トイレのドア越しに、怒声が響き渡った。

無駄にデカい、聞き覚えのある不快な声。

一気に現実に引き戻される。


そうだ、あいつだ。ハラスメントの総合商社、佐藤課長だ。


「……うるさいのが来たな」


俺は深呼吸を一つして、トイレを出た。

廊下に出ると、脂ぎった顔を真っ赤にした佐藤が、仁王立ちで待ち構えていた。

10年前と1ミリも変わっていない。突き出た腹、テカテカの額、そして人を不快にさせる威圧的な態度。


「てめえ、最近はちょっと目を離せばすぐ便所に逃げ込みやがって! 俺が若い頃はな、クソする暇も惜しんで働いたもんだぞ! お前みたいなゴミは会社に来るだけで空気が汚れるんだよ!」


唾を飛ばしながら喚く佐藤の後ろで、オフィスに戻る。


フロアの空気は死んでいた。

同僚たちは誰も顔を上げない。佐藤の怒号が自分に飛び火しないよう、身を固くしてキーボードを叩くふりをしている。

オフィスの気温が数度下がったような、陰湿な空気が漂っていた。


佐藤は俺のデスクの前までついてきて、さらに顔を近づけてきた。距離10センチ。

腐った生ゴミとタバコが混じったような強烈な口臭が、俺の顔面を直撃する。


「おい、聞いてんのか!? お前みたいな無能はどこ行っても通用しねえんだよ! 女にも一生モテねえ童貞野郎がよ!? 一生俺の下で這いずり回って、感謝して働けよクソが!!」


かつての俺なら、胃がキリキリと痛み、震えながら

「すいません、すいません」と謝っていただろう。

だが、今は違う。


(……うるさいな)


目の前で喚き散らす小太りの中年男を見ても、何の恐怖も感じない。

異世界で対峙した、全長100メートルを超えるドラゴンや、絶望的な魔力を放つ魔王の威圧感に比べれば、こんなものは子犬がキャンキャン鳴いているのと変わらない。

むしろ、その必死さが滑稽にさえ思える。


佐藤は俺が怯えていないことに気づき、さらにヒートアップした。


「なんだその目は! 反省してねえのか!? ほら、いつもみたいにここで土下座しろ! 土下座して俺の靴を舐めて許しを請え! 早くしろクソが!」


オフィスに緊張が走る。

佐藤はニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべ、俺を見下ろしている。


プツン。


俺の中で、何かが切れた。

もういい。異世界でも奴隷、こっちでも奴隷なんて、真っ平ごめんだ。


「……はぁ?」


俺は低く、冷たい声を出した。

佐藤の笑みが凍りつく。


「な……なんだ?」


「頭、沸いてんのかコラ?なんで俺が、テメーなんかに土下座しなきゃいけねぇんだよ」


シン、とオフィスが静まり返った。

キーボードを叩く音すら止まる。

佐藤は顔を真っ赤にして、わなわなと震え出した。


「て、てめえだと?……おい! この俺に向かって、今なんて言った……!?」


「聞こえなかったのか? 頭だけじゃなく、耳まで耄碌したのか?」


俺は淡々と、しかしハッキリと言葉を紡いだ。

腹の底から湧き上がる怒りを、ため息ひとつついて落ち着け、冷静な言葉の弾丸に変えて撃ち込む。


「課長、あんたのやったこと、全部覚えてますよ。限度を超える連勤の強要。サービス残業の強要。女子社員の身体をベタベタ触るセクハラ行為。俺への暴言、人格否定。これ、全部犯罪だってわかってます?」


「なっ、な……!?」


「証拠ならありますよ。あんたの暴言、全部スマホで録音してありますから」


俺はポケットからスマホを取り出し、チラつかせた。

もちろん、録音なんてしていない。だが、コイツのことだ。心当たりがありすぎて、勝手に狼狽えるはずだ。


「ふ、ふざけんな! 嘘つくんじゃねえ!」


「嘘か本当か、弁護士と労基署に判断してもらいましょうか。これだけの材料があれば、あんたの社会的地位なんて一発で吹き飛びますよ。

良くて懲戒案件。悪けりゃ逮捕されて犯罪者でしょうね。」


佐藤の顔色が、赤から青、そして土気色へと変わっていく。

図星なのだ。自分が積み重ねてきた悪行が、いつか自分に返ってくることを、心のどこかで恐れていたのだ。


「う……うう……」


佐藤は言葉に詰まり、視線を泳がせた。

だが、プライドだけは高いこの男は、すぐに逆ギレという手段に出た。


「だ、黙れ黙れ黙れぇぇぇ!! 俺に舐めた口ききやがって! この会社にいられなくしてやるぞ! 業界中に悪評流してやる!」


「ああ、そうですか。どうぞご自由に」


「てめえぇぇぇ!!」


佐藤が激昂し、右の拳を振り上げた。

大振りの、素人丸出しのパンチが俺の顔面めがけて飛んでくる。


(遅い)


勇者時代の身体能力はない。今の俺はただのひ弱なサラリーマンだ。

だが、10年間の死闘で培った「経験」と「動体視力」は、脳裏に焼き付いている。

魔王の超高速の斬撃に比べれば、この拳は止まって見えるほどだ。

俺は最小限の動きで、半歩だけ身体を横に逸らした。


ブォンッ!

佐藤の拳が空を切る。


「あっ……?」


勢い余った佐藤の身体が、前のめりにつんのめる。

俺は避けたついでに、しれっと足を出し、佐藤の足首に引っかけた。


ドッガシャアアアアン!!


盛大な音が響き渡り、佐藤は顔面から床に突っ込み、デスクの引き出しに腹を強打して転がった。


勢いでズボンのお尻部分が裂け、汚れたグレーのパンツが丸見えになる。


「ぶべっ……!?」


無様に床を這いつくばる佐藤。

その哀れな姿を、俺は冷ややかな目で見下ろした。


「みっともねえな。自分で転んで怪我ですか? 労災は降りませんよ」


「う……うぅ……クビだ……クビにしてやるぅ……!」


床で芋虫のように悶えながら喚く負け犬の遠吠えをBGMに、俺は自分の鞄を手に取った。

机の上にある私物を適当に放り込む。


「こんな会社、こっちから願い下げだ。退職届はあとで郵送しますよ」


俺は踵を返し、出口へと向かった。

同僚たちが、信じられないものを見るような目で俺を見ている。その中には、微かに賞賛の色が混じっているようにも見えた。


エレベーターホールに出て、ボタンを押す。

すぐに到着した箱に乗り込み、振り返る。

廊下の向こうでは、まだ佐藤が何か喚いているが、もう関係ない。


「……終わった」


エレベーターのドアが静かに閉まる。

完全に閉ざされた空間で、俺は大きく息を吐いた。


自由だ。

勇者の使命からも、社畜の鎖からも、俺はようやく解放されたんだ。

これからは、俺の人生を生きる。

そう思った。


閉ざされた扉の鏡に映る、少し晴れやかな顔をした自分自身の顔を見つめながら、これからの生活や、やりたい事などに思いを馳せた。

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