第2話 秘密

 姉の部屋の扉を開くと、鼻を刺す酸っぱい臭いが強くなった。

 ベッドのパイプに手錠で片腕を繋がれた姉は、妹の来室に気が付くと、獣のように唸り声を上げて飛びかかってきた。しかし、すぐに鎖に阻まれ、藍にまでは届かない。

 異様に興奮状態なのは、藍が手にした物のせいだろう。藍が運んできたのは、皿に盛り付けられた生肉だった。捌いたばかりで、新鮮な血を滴らせている。


「お姉ちゃん、ご飯だよ」


 藍は噛みつかれないよう注意しながら、皿ごとそれを姉の前に置いた。姉は手も使わずに猛然と肉にかぶりつく。


「美味しい? 良かった。いつもよりちょっと脂身が多かったけど、かえって柔らかくていいのかもね」


 言葉の通じない姉に、一方的に喋りかける藍。

 先程の男に姉のことを話したせいだろうか、食事する姉を眺めていると、不意に感傷が湧き上がった。

 

 ――お姉ちゃん。

 

 あんなにサラサラで綺麗だった長い黒髪が、今ではボサボサの鳥の巣のよう。

 白かった肌もくすんで黒ずみ、理知的で凛とした表情も佇まいも、今ではすっかり見る影も無い。

 

 もう長いことこのままお風呂にも入れていないから、体臭もキツくなってきていた。消臭剤を沢山置いているが、さすがにもう誤魔化せそうにない。壁を隔てた藍の部屋にまで臭いが来てしまい、先程の男にも怪しまれてしまった。

 藍が身体を拭いてあげられればいいのだが、噛まれたらどうなるか分からないので、不用意に近寄ることも出来ない。


「ごめんね、お姉ちゃん。きっと、もう少しの辛抱だから」


 あと少し――きっと、もう少しで、姉は元通りになるのだ。

 

   †


 ある日、突然姉が死んだ。

 前日の深夜、藍が眠っている時間帯に姉から携帯に連絡があった。メッセージアプリで『ごめんね』と、ただ一言。

 翌朝、胸騒ぎを覚えた藍が、姉が一人暮らすマンションへ様子を見に行くと、姉は自室のドアノブで首を吊って亡くなっていた。


 机には藍宛の遺書が残されていた。それを読んで知った事実に、藍は足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。


『藍へ。勝手なことをしてごめんなさい。でも、もう生きていかれないと思ったから。

 私は許されないことをしました。人を殺してしまいました。


 殺したのは、叔父です。秘密にしていたけれど、私は叔父から性的な暴力を受けていました。小さい頃から、ずっと。

 嫌だった。辛かった。でも私が拒むと、叔父の家から追い出される。金銭的な援助が得られなくなる。それに、妹の藍に手を出すと脅されてもいました。


 藍が高校で寮に入って、私が就職して叔父の家を出た後も、私と叔父との関係は続きました。

 叔父は私の写真や動画を持っていて、逆らえませんでした。


 幹人みきとさんのことは藍にも話していたよね。私の恋人。

 藍が高校を卒業して一人前になったら、私は幹人さんと結婚する予定でした。

 だから、叔父との関係を終わりにしたいと、叔父の家に相談に行きました。

 

 だけど、叔父は認めてくれず、幹人さんにバラすと言いました。

 さもなければ、今まで通り関係を続けるか、やっぱり藍を代わりに差し出せと。

 そんなの、絶対に許せなかった。


 揉めて、弾みで私は叔父の生命を奪ってしまいました。

 人殺しになってしまいました。

 こんなんじゃもう、幹人さんの元には行けない。人殺しの姉が居たんじゃ、藍にも迷惑をかけてしまう。

 だから、私は責任を取って死ぬことにしました。

 

 幹人さんには何も言わずに一方的に別れを告げました。出来れば、幹人さんには叔父とのことは知られたくない。

 でも、さすがに無理かな。警察に知られたら、幹人さんにも伝わっちゃうかな。


 ごめんなさい。藍にだけは、全部話しておきたかったの。

 傷付けてしまうかもしれないけど、藍には私のことを知っておいて欲しかった。

 だって、たった一人の家族だから。

 

 許してくれとは言わない。許さなくていい。

 でも、藍にはどうか幸せになって欲しい。それだけが、今の私の望みです』


 手紙の最後は、そう締め括られていた。


 ――知らなかった。

 姉が苦悩していたことを、藍は何も。

 姉がずっと身を挺して藍を守ってくれていただなんて、何も知らず、これまで呑気に暮らしてきたのだ。


 酷く自責の念に駆られた。

 今更真実を知ったところで、もう姉を救うことは出来ない。全て手遅れなのだ。

 

 ――そう思っていたら、信じられないことが起きた。

 死んだはずの姉が、蘇ったのだ。

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