小さな貝がらの音楽
初等部一年の秋、ピアノを弾き始めて四年が経った。
ピアノを習い始めた頃、汐見先生が一冊の曲集を下さった。三善晃の『海の日記帳』。
「蒼流は海の町でもあるから、颯ちゃんにぴったりよ」
先生は母よりも年上の、優しい女性だった。いつも楓ちゃんと私のために、色々な曲を選んでくれた。
この曲集は教本とは違う、不思議な和音や響きがあった。でも、風の丘から見える蒼流湾を思い浮かべると、その響きがとても自然に感じられた。海をテーマにした二十八曲。波の音、魚たちの動き、光の揺らめき。一曲一曲が、私の知っている海の色々な表情を映していた。
教本の練習の合間に、私は少しずつその曲集を練習していった。優しい曲、元気な曲、はじける曲、可愛い曲。色々な海の生き物や情景を映した写真集の様だった。
ある日、その中に『シシリー島の小さな貝がら』という曲を見つけた。
シチリア島の浜辺に落ちている小さな貝殻。手のひらに載せて眺めたり、耳に当てて遠い波の音を聴いたり。二つの貝殻が、少し寂しい夜の浜辺で密やかに会話している、そんな曲。楓ちゃんが気に入ってくれそうだと思った。
その日の放課後、私の家のピアノ室で、楓ちゃんにその曲を弾いて聴かせることにした。
「かえでちゃん、新しい曲弾くね」
「うん、楽しみ」
楓ちゃんは大きなソファーに座った。そこは、演奏する私の横顔を見るための定位置だった。私がピアノを弾く時、楓ちゃんはいつもそこに座って、私をじっと見ていてくれる。
深呼吸をして、鍵盤に指を置いた。
静かな二つの旋律が響く。淡く移ろう響き。派手なところはない。浜辺で見つけた二つの小さな貝殻が、波の音に耳を傾けながら静かにお話ししている様子を想像しながら、私は丁寧に音を紡いだ。
波が揺れる。時々、小さく弾ける。
旋律が密やかに歌う。少し寂しいけれど、二つの貝殻は一緒にいるから、寂しくない。
最後の音が、波が引くように静かに消えていった。
楓ちゃんが拍手をした。
「颯ちゃん、すごい!」
「ありがとう」
ピアノから立ち上がり、ソファーに座ると、楓ちゃんがすぐに寄り添ってきた。温もりが伝わってくる。
「ね、さやちゃん」
「何?」
「今の曲、二つの貝殻がお話ししてるみたいだった」
楓ちゃんが私の目を見つめる。
「夜の浜辺で、二人だけ。波の音、聴いてるの。ずっと一緒にいるの」
私は少し驚いた。楓ちゃんは、曲の情景を、私が想像したのと同じように感じ取ってくれていた。
「そうなの。かえでちゃん、わかってくれたんだ」
「うん。だって、颯ちゃんの音楽、いつも綺麗に見えるもん」
楓ちゃんが頬を寄せてきた。温かく柔らかい感触だった。
「ピアノ弾いてる颯ちゃん、本当に綺麗」
楓ちゃんの声が、少し恥ずかしそうだった。
「颯ちゃんを見るのが好き。音を聴きながら、颯ちゃんを見るの。指が動くところも、真剣な顔も、全部好き」
私は少し照れて、楓ちゃんを抱きしめた。楓ちゃんも抱きしめ返してくれた。
「かえでちゃんがいるから、頑張れるの」
「私も、颯ちゃんの音楽があるから、お話が書けるの」
しばらく抱き合っていた。
楓ちゃんの髪から、シャンプーの匂いがした。外から聞こえる風の音と、楓ちゃんの温もり。
このまま、ずっとこうしていたい。
楓ちゃんが小さく呟いた。
「シシリー島の貝殻……遠い、遠い海の貝殻」
「かえでちゃん?」
「ううん、なんでもない」
楓ちゃんが私の手を握った。
「でもね、颯ちゃん。私たち、いつかシシリー島の本当の音楽も一緒に聴けたらいいね」
「本当の音楽?」
「うん。もっともっと素敵な、シチリアの音楽。大人になったら、颯ちゃんが弾いてくれる?」
「うん。約束だよ」
楓ちゃんが微笑んだ。その笑顔は、いつもより少しだけ、大人びて見えた。
楓ちゃんがそっと呟いた。
「さやちゃんの音楽、大好き」
「私も、かえでちゃんの言葉、大好き」
窓の外、蒼流湾を秋の夕陽が優しく照らしていた。
楓ちゃんが窓辺に立ち、空を見つめた。
「シシリー島も、こんな夕陽が見えるのかな」
「きっとね」
「いつか、颯ちゃんと一緒に見てみたいな」
浜辺には、きっと小さな貝殻が、たくさん落ちているだろう。二つずつ、寄り添うように。
私たちも、二つの貝殻みたいに、これからもずっと一緒にいる。そう思った。
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