『『わたしの名前はSILK』』
志乃原七海
第1話:紅蓮の幕開け
小説版『FRENZY』
第1話:女王の崩御
六本木東、路地裏。
『フレンドリー』という名の地下へ続く階段は、生き物の食道のようだった。
脂と安香水の粒子が浮遊するその空間で、私は呼吸するだけの「什器(じゅうき)」になっていた。
壁際の定位置。グラスの水垢を拭い、客の革靴を視線で避け、灰皿の死骸を交換する。
誰も私を見ない。認識されない。
ここにある色彩、熱量、欲望のすべては、ホールの中央に鎮座する、たった一つの有機物へと注ぎ込まれていた。
SILK。
この腐った培養槽で肥大化した、美しき捕食者。
真紅のラメが埋め込まれた皮膚のようなドレス。
人工照明を飲み込み、増幅して反射する瞳。
彼女の喉からこぼれる笑い声は、訓練された楽器のように鼓膜を震わせ、男たちの理性を蕩けさせる周波数を放っていた。
私の客を奪い、路上へ蹴り出し、この掃き溜めの最底辺へと私を突き落とした女。
それでもなお、聖女の皮を被り、完璧なエナメルの仮面で慈愛を振り撒く。
視界が、軋んだ。
「SILKさん、バースデーおめでとうございます!」
ウェイターの掛け声は、処刑のファンファーレ。
私の両手から離れた「花束」が、うやうやしく運ばれていく。
カサブランカと深紅のバラ。過剰なまでの装飾で膨れ上がったその蕾(つぼみ)の奥には、無機質な種子が眠っている。
私が飢餓と屈辱で眠れぬ夜を過ごす間、丁寧に組み上げた、この世で最も残酷な愛の結晶。
「わぁー、すごーい! 誰からかしら?」
SILKは睫毛を伏せ、少女のような無防備さで花束に顔を埋める。
そのむせ返るような死の芳香(パフューム)を、肺いっぱいに吸い込むがいい。
コートのポケットで、指先が冷たい突起に触れる。
ためらいはない。あるのは、数式を解く時のような静謐(せいひつ)だけ。
私の胃の腑で、どろりと重いコールタールが気化する。
さようなら、SILK。
私の太陽。私の癌細胞。
カチリ、と。
指先で、因果を断ち切った。
瞬間。
視覚という機能がオーバーロードする。
炸裂。
音は遅れてやってくる。
先に届いたのは、空間そのものを平手打ちするような衝撃波だった。
女王の赤い装甲も、完璧に計算された表情筋も、驕り昂(たか)ぶった魂も。
白い閃光の顎(あご)が、一瞬で噛み砕いた。
スローモーションの混沌。
中空を舞うシャンパングラスの破片が、流星群のように煌めく。
そして、かつて彼女の一部だった白くしなやかな曲線——おそらくは、男たちを弄んだあの左手首が——主を失った彫像のように、放物線を描いて床へ崩れ落ちた。
絶叫。破壊音。
網膜を焦がす極彩色の地獄。
誰も「什器」の私など見ない。
彼らの眼球は、粉砕された玉座と、そこから立ち上る黒煙に固着されている。
私は滑らかに踵(きびす)を返した。
悲鳴をBGMに、瓦礫をピンヒールで跨ぎ越える。
崩壊したかつての支配者に背を向け、私は出口へと、ランウェイを歩くように進んだ。
自動ドアが開く。
外の冷気が、火照った皮膚を舐める。
ああ、なんて鮮度が高いんだろう。
西の空が、溶け落ちている。
群衆はあれを黄昏(たそがれ)と呼ぶだろう。美しい夕映えだと。
だが、フィルターの外れた私の瞳には、あれは都市が流す祝杯の鮮血にしか見えない。
世界が、新たな主演女優(わたし)のために、緋色の絨毯を敷き詰めている。
まとわりついていた鎖は、あの熱風と共に気化した。
奪われ、怯え、陰湿な場所で爪を噛んでいた「サナ」は、もういない。
ポケットの中で、熱を持った送信機を指で転がす。
それは、私の新しい鼓動。私だけが握る、暴力へのパスポート。
遠くから近づくサイレン。
あれは、墜ちた女王への鎮魂歌か。
それとも、解き放たれた獣へのファンファーレか。
路地裏で明滅する看板。
『F-renzy』。
狂乱。
いい響きだ。空っぽになった玉座には、常軌を逸した女がお似合いだ。
唇の端に残る鉄の味を、舌先で愛(め)でる。
それは、かつての私が流した涙の味ではない。
蜜のように甘い、復讐と、新生の味だ。
私の、狂い咲く夜が、今ここから始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます