「痴漢だ!」冤罪で俺を社会的に抹殺した妻と娘、それを仕組んだ間男。真実が暴かれ泥水をすする君たちを尻目に、俺は更なる高みへ登りつめる
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第一話 崩壊の朝、嘲笑う妻
朝六時。アラームが鳴る一分前に目を覚ますのが、俺、神崎透(かんざき とおる)の長年の習慣だ。
四十二歳。大手総合商社の部長職。世間から見れば、俺は成功者と呼ばれる部類に入るのだろう。分譲マンションの最上階、専業主婦の妻、私立高校に通う娘。絵に描いたような「理想の家庭」を守るため、俺は身を粉にして働いてきた。それが男の甲斐性であり、責任だと信じて疑わなかったからだ。
ベッドから抜け出し、リビングへと向かう。妻の玲子と娘の美奈はまだ夢の中だろう。俺は静かにキッチンに立ち、家族のための朝食作りを始める。玲子は朝が苦手だ。だから、結婚してから十五年、朝食を作るのは俺の役割になっている。
「今日は野菜と果物を多めにするか。美奈が最近、肌荒れを気にしていたからな」
冷蔵庫から新鮮な食材を取り出し、手際よく包丁を入れる。俺は完璧主義だ。仕事でも家庭でも、妥協は許さない。栄養バランスの計算された食事、塵一つ落ちていないフローリング、完璧にプレスされたワイシャツ。全てが整然としていることに安らぎを感じるし、家族にもその快適さを提供している自負があった。
七時過ぎ。香ばしいコーヒーの香りが部屋に充満する頃、玲子と美奈が起きてきた。
「……おはよ」
「おはよう」
二人の挨拶は気だるげで、俺と目を合わせようともしない。いつものことだ。思春期の娘と、倦怠期の妻。父親なんて、ATMくらいにしか思われていないのかもしれない。だが、それでもいい。俺が家族を守っているという事実は揺るがないのだから。
「美奈、今日は部活か?」
「うん。帰りは遅くなる」
「そうか。あまり遅くなるなら駅まで迎えに行くから連絡しなさい」
「いいよ、ウザいし。友達と帰るから」
美奈はスマホを見ながらトーストを口に運ぶ。玲子もまた、黙々とサラダを突っついているだけだ。俺が作ったスムージーには手を付けようともしない。
「玲子、今日の夕飯だが、接待が入ったから要らない」
「はい、分かりました」
玲子の返事は事務的で、まるで部下が上司に報告するような冷たさを含んでいた。ふと、彼女の視線が俺のネクタイに向けられる。
「……そのネクタイ、派手じゃない?」
「そうか? 今日は大事なプレゼンがあるから、少し気合を入れたんだが」
「ふーん。若作りしてるみたいで、なんか痛々しいけど」
鼻で笑うようなその態度に、胸の奥がチクリと痛む。だが、俺は表情を変えずにコーヒーを飲み干した。俺が家族を支えている。その自負がある限り、多少の棘など気にする必要はない。
「行ってきます」
玄関で声をかけても、返事はなかった。
重厚なドアが閉まる音だけが、虚しく響いた。
最寄り駅から都心へ向かう通勤電車は、今日も地獄のような混雑だった。
押し合いへし合い、他人の体温と脂の臭いが充満する密室。俺はこの時間が何よりも嫌いだった。潔癖な俺にとって、不特定多数の人間と密着することは拷問に近い。吊り革を握る手にも力が入り、眉間に皺が寄る。
車両の中程まで押し込まれた時だった。
背中から誰かに強く押され、俺の体勢が崩れた。
「っ……!」
バランスを崩し、前の女性客にぶつかりそうになる。とっさに体勢を立て直そうとしたが、満員電車特有の圧力で身動きが取れない。俺の右手は、鞄を持ったまま胸の位置で固定されていた。
その時だ。
「キャアアアアッ!」
耳をつんざくような女性の悲鳴が、車内の空気を切り裂いた。
周囲の視線が一斉に突き刺さる。何が起きたのか理解できず、俺は周囲を見回した。
「痴漢! 痴漢よ! この人、今私のお尻を触った!」
目の前にいた若い女性が、顔を真っ赤にして俺を指差していた。
は? 何を言っているんだ?
俺の両手は鞄と吊り革にある。触れるはずがない。
「ち、違います! 私は何も……」
「俺は見たぞ!!」
否定しようとした俺の言葉を遮るように、野太い怒号が轟いた。
声の主を見て、俺は息を呑んだ。
そこには、見知った顔があったからだ。
「ご、豪田……?」
大学時代の同期であり、同じ会社で万年係長をしている豪田猛(ごうだ たける)。出世コースに乗った俺とは対照的に、窓際族として燻っている男だ。なぜ彼がここに? いつもはもっと遅い時間の電車のはずなのに。
豪田は正義感に燃える英雄のような顔つきで、俺の手首を乱暴に掴み上げた。
「俺はこの目でハッキリ見た! 神崎、お前がこの女性のスカートの中に手を入れるのをな!」
「なっ……何を言ってるんだ豪田! 俺は鞄を持っていた! 手なんて空いてない!」
「往生際が悪いぞ! このエリート崩れが! 普段から真面目ぶってる奴ほど、裏ではこういう変態行為をしてるんだよ!」
豪田の大きな声に煽られ、周囲の乗客たちの目が軽蔑の色に染まっていく。「最低」「やっぱり見た目じゃ分からないわね」「警察突き出せ」という囁きが、波のように押し寄せてくる。
「違う! 離せ! これは誤解だ!」
「うるさい! 逃げる気か!」
豪田に羽交い締めにされ、俺は床に押し付けられた。スーツが汚れ、綺麗に磨いた革靴が誰かに踏まれる。
被害者を名乗る女性は泣き崩れ、周囲の男たちが俺を取り囲む。
「駅員を呼べ! 警察だ!」
違う。俺はやっていない。
叫びたいのに、喉が引きつって声が出ない。
床に這いつくばらされながら見上げた豪田の顔。正義の味方を演じるその男の口元が、一瞬だけ、歪に吊り上がって笑ったように見えた。
◇
警察署での時間は、屈辱以外の何物でもなかった。
取調室の冷たいパイプ椅子。高圧的な刑事の言葉。
「神崎さん、目撃者もいるんですよ。素直に認めたらどうですか?」
「やっていないと言っているだろう! あれは言いがかりだ!」
「往生際が悪いなぁ。エリート商社マンだからって、罪が消えるわけじゃないんですよ。被害者の女性は傷ついているんです」
やっていないことの証明は、悪魔の証明だ。
俺の指から繊維片が出なかったこと、そして弁護士を呼ぶと主張し続けたことで、その日の夜には一旦釈放された。だが、それは無罪放免を意味しない。「在宅捜査」という名の、地獄の入り口に過ぎなかった。
スマホの電源を入れると、会社からの着信履歴が画面を埋め尽くしていた。
人事部長からのメッセージ。『報道が出る前に事情を説明しろ。当面の間、出勤停止を命ずる』。
終わった。
二十年間、血の滲むような努力で築き上げてきたキャリアが、たった一つの嘘で崩れ去った。
俺は重い足取りで帰路についた。
憔悴しきった体を引きずるようにして、自宅マンションのエレベーターに乗る。
せめて、家族だけは。
玲子と美奈だけは、俺を信じてくれるはずだ。俺の潔癖な性格を、誰よりも知っているのだから。
「ただいま……」
玄関のドアを開ける。
いつもなら静まり返っている時間だが、リビングには明かりがついていた。
玲子と美奈がソファに座っている。その重苦しい雰囲気に、俺は靴を脱ぐのも忘れて立ち尽くした。
「……玲子、美奈。聞いてくれ。あれは間違いなんだ。俺は何もしていない」
懇願するように言葉を紡ぐ。
しかし、玲子はゆっくりと立ち上がり、俺を見据えた。その瞳には、かつてないほどの冷ややかな光が宿っていた。
「ニュース、見たわよ。ネットでももう名前が出てる」
「あれは誤報だ! 豪田が……あいつが勘違いをして……」
「豪田さんは、勇気を出して証言してくれたのよ! あなたが同僚だからって庇うこともできたのに、正義のために動いてくれたの!」
玲子の鋭い声が飛んでくる。
何を言っているんだ? 豪田が正義? あいつは俺を陥れようとして……。
「パパ、信じらんない」
ソファで膝を抱えていた美奈が、ポツリと言った。
その視線は、汚物を見るような嫌悪感に満ちていた。
「クラスのLINEグループ、もうパパの話で持ちきりだよ。『美奈のパパ、痴漢なんだって』『キモい』って……私、もう学校行けないじゃん」
「美奈、違うんだ。パパはやっていない。信じてくれ」
一歩近づこうとすると、美奈は「来ないで!」と悲鳴を上げた。
「触らないでよ! 痴漢の手で私に触らないで! キモチワルイ!」
「ッ……!」
娘からの拒絶。それは、警察での取り調べよりも遥かに深く、俺の心を抉った。
最愛の娘に「キモチワルイ」と言われた。その事実は、俺の精神を支えていた最後の柱をへし折るのに十分だった。
「神崎さん」
玲子がテーブルの上に一枚の紙を置いた。
見慣れた緑色の紙。離婚届だった。
既に玲子の署名と捺印がされている。
「え……?」
「もう無理よ。こんな不祥事を起こした人と一緒にいられるわけがない。美奈への影響も考えて。私たちは実家に帰ります」
「待ってくれ玲子! まだ何も決まっていない! 冤罪なんだ! 俺の話を聞いてくれ!」
「言い訳なんて聞きたくない!!」
玲子がヒステリックに叫んだ。
「あなたはいつもそう! 自分は正しい、自分は完璧だって顔をして、私たちのことなんて見下してたじゃない! 完璧な夫を演じてたけど、裏ではそんな汚いことをしてたのね。やっと本性が現れたって感じだわ!」
「見下してなんて……俺は家族のために……」
「その『家族のために』が重いのよ! 息が詰まるの! あなたの作った料理も、掃除も、全部が『俺はこれだけやってやってる』っていう押し付けだったのよ! ……さあ、美奈、行きましょう」
玲子は既にまとめてあった旅行鞄を手に取った。
美奈も無言で立ち上がり、俺の横を通り過ぎていく。
「パパなんて、死ねばいいのに」
すれ違いざま、美奈が吐き捨てた言葉。
それは呪詛のように俺の耳にこびりついた。
二人が出て行った後の静寂。
俺は暗いリビングの真ん中で、一人膝から崩れ落ちた。
俺の人生は、何だったんだ?
会社のために尽くし、家族のために尽くし。
完璧であるために、自分を律し続けてきた。
それなのに、なぜ。
なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないんだ。
手のひらに残る、床の冷たい感触だけが現実だった。
俺は、全てを失ったのだ。
◇
その頃、街の喧騒から少し離れたホテルのバーで、玲子はグラスを傾けていた。
向かいに座っているのは、豪田猛だ。
「……ふふっ、あんな顔、初めて見たわ」
玲子がカクテルを一口飲み、思い出し笑いをする。
先ほどまでのヒステリックな様子はどこへやら、その表情には晴れやかな残酷さが浮かんでいた。
「だろ? 俺も最高にスカッとしたよ。あの澄ました神崎が、床に這いつくばって『やってない』って泣き言を喚くんだからな」
豪田が下卑た笑みを浮かべながら、ウィスキーのロックを煽る。
「本当に上手くいったわね、タケちゃん。あのサクラの女、大丈夫なんでしょうね?」
「ああ、抜かりはない。金は弾んでおいたし、あの女も借金で首が回らないからな。絶対に口は割らないさ。それに、大衆ってのは『エリートの転落』が大好物なんだ。一度ついた痴漢のレッテルは、真実がどうあれ一生消えない」
豪田は満足げに氷を鳴らした。
長年、同期でありながら出世頭の神崎に対し、煮えたぎるような劣等感を抱いていた。その神崎を社会的に抹殺し、さらにその妻である玲子とこうして酒を飲んでいる。これ以上の優越感はなかった。
「あーあ、せいせいした。あの家、息が詰まりそうだったのよ。綺麗好きで、細かくて、説教臭くて……。これでやっと自由になれるわ」
「慰謝料もしっかりふんだくってやるさ。神崎の資産なら、玲子ちゃんと美奈ちゃんが一生遊んで暮らせるくらいはあるだろうしな」
「頼りにしてるわよ、私のヒーローさん」
玲子が艶めかしい手つきで豪田の手に自分の手を重ねる。
二人は見つめ合い、歪んだ笑みを交わした。
「さあ、祝杯と行こうか。完璧超人・神崎透の破滅を祝って」
「乾杯」
グラスが触れ合う軽やかな音が、夜の闇に溶けていく。
彼らは知らなかった。
全てを失い、絶望の底に叩き落とされた男が、その底で何を見つけるのかを。
そして、その「完璧主義」が復讐へと向けられた時、どれほど恐ろしい怪物が生まれるのかを。
今はまだ、誰も知らない。
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