痰壺
小狸
掌編
人生は退屈だ――という人の気持ちが、私は全く分からない。
想像するに、それはきっと恵まれた者側の意見なのだろうと思う。恵まれているから、満たされているから、望まれて生まれてきたから、そんな「人生においてできることは全部やり尽くしてもう飽きた」「人生で起きることは大体体験してきましたから」みたいな分かったような口調で物事を捉えることができるのだ。
例えば物語の主人公が、「退屈な人生」とか「つまらない人生」とか、そんなことを
私の人生は、生まれた時から壊れていた。
両親の仲が良かったところを、明瞭な記憶力を獲得してからというものの一度として見たことがない。同じ空間、同じ場所にいると、いつもお互いにどこか嫌な物言いを言い、そこから喧嘩が始まるのである。幼少期に家族旅行というものも行ったけれど、その度に宿で口喧嘩をしていたりして、良い思い出というものがまるでないのである。
父は、片方との不仲の不満を私に暴力でぶつけて。
母は、片方との不仲の不満を私に暴言でぶつけた。
私はあの家庭では、痰壺くらいの意味しかなかった。
そんな中で育ったものだから、私の人生はもう曲がる、どころでは済まされなかった。他責思考と誹りを受けるかもしれないけれど、親を変えることは、基本的にも根本的にもできない。血が繋がっているのである。つまり、私にも、この暴力父と暴言母と同じ血が流れているのだ。反吐が出た――と同時に、それを理解したのが丁度小学校5年生の辺りだったから、私は家庭を作ること、子どもを作ること、結婚することを諦めた。私は愛の受け取り方を知らない。そんな人間が、親になる資格はないだろう。愛されなかった人間が、人に愛されて愛し方を知っていく、なんて、昨今の小説の題材にすらならない、夢物語である。愛されなかった者は、一生誰からも愛されないし、誰の愛も受け取ることができずに生きてゆくしかないのだ。私が、そうであるように。
小学校といえば、一番衝撃を受けたのが、道徳の授業だった。
家族を大切にしましょう。
なんて、副読本を読まされながら、そんなことを教え、説かれるのである。
大切に?
あんなものを?
自分を大切にしてくれない人たちを、私は大切に思わなければいけないのか?
その授業を受けた頃は、私は結構本気で、「成人したら親をどうやって殺すか」を画策していたので、私にとっては青天の
私はそこで、理解した。
ああ――そうか、そういうことか。
それが、世の中の「普通」なのか。
普通の家庭では、皆幸せに、大事に生かされているのか。
だから、か。
だから皆は、「普通」に笑顔ができているのか。
友達に溶け込むことに必死で、皆と同じようになることに一生懸命にならずに、自然体に、笑うことができるのか、と。
そこでようやっと、理解することができた。
そこから先は、もうひどいものだった。高校受験の当日も大学受験の当日も、両親は喧嘩もストレス解消も止めなかった。だったら離婚すれば良いのに、と思うけれど、その選択はしないのである。どちらも、俺は私は、可哀想なんだ、と切実に言いたげであった。そして可哀想な立場を手放したくないから離婚していないとか、どうせそんな理由なのだろう。それを一番身近な人間――つまり私に、分かってほしいかのような、そんな物言いで、殴り、蹴り、
きっと両親は、子どもだったのだろうと思う。
いや、駄目だろう。子どもが子どもを作っちゃ。
それから私は、奇跡的に第二志望の大学に進学し、奇跡的に卒業して、奇跡的に仕事にありつくことができた――のだが。
その辺りで、私の限界が来た。
無理と無茶が祟った――とは言わない。両親からの明確な虐待の反動が、ここで来たのである。職場はホワイトだったし、良い人ばかりだったし、できれば行きたかったけれど、通院の末、精神科の病棟にしばらく入院することになって、結果辞職することになった。精神が擦り減りに擦り減り切っていて、もう何も頑張ろうとすら思うことができなかった。一生分の精神力を、私は既にあの家で消費してしまったのである。もう私には、何も残っていなかった。医療制度、市と県と国のものについては、十二分に頼った。
発狂しないで生きてきたのが不思議なくらいの人生――というのが。
私の専属のカウンセラーが、私の人生を表現した言葉である。
数か月前に退院し、今では一人暮らし先で、一人で生きている。週に一度の訪問看護と、通院と、二週に一度のカウンセリングをしながら、生きているのか死んでいるのか分からないような人生を歩んでいる。
全く。
いつ始まるんだろうな。
私の人生は。
(「痰壺」――了)
痰壺 小狸 @segen_gen
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