第2話 成長を止められた体と地図の空白地帯

 魔王になると宣言した俺の手を引き、イリスお姉さんは上機嫌で部屋の奥へと進んでいく。

 連れてこられたのは、豪奢な装飾が施された大きな鏡の前だった。


 「さ、鏡を見てごらんなさい。自分の姿をきちんと確認するのも大事よ?」


 促されて、俺は鏡の中を覗き込んだ。

 そこに立っていたのは、透き通るような銀髪をした少女だった。

 瞳は琥珀色で、光が当たるたびに黄金のように揺らめく。

 肌は白く、陶磁器のようになめらかだ。

 背中からは小さな黒い翼がちょこんと生え、腰からはしなやかな尻尾が伸びている。


 「……これが、俺……」


 絶句した。

 前世の俺とは似ても似つかない。

 客観的に見て、とんでもなく可愛い。

 深窓の令嬢か、あるいは国を傾ける魔性の存在か。


 「どう? 気に入った?」


 背後から、お姉さんが顔を覗き込んでくる。

 俺は無意識に、鏡の中の自分と目を合わせながら、少し首を傾けてみた。

 さらり、と銀髪が流れる。

 その仕草だけで絵になってしまう。


 「……悪くない、かも」


 思わず本音が漏れた。

 男としてそれはどうなのかと自分でも思うが、美しいものは美しいのだから仕方がない。

 試しに、背中の翼に意識を向けてみる。


 パタパタ。


 まるで手足のように自然に動いた。

 尻尾も、感情に合わせてゆらりと揺れる。


 「はは……本当に、人間じゃなくなったんだな」


 鏡の中にいる異形の美少女。それが自分であるという事実が、不思議としっくりきてしまう。

 サキュバスとしての本能が、この体を肯定しているのかもしれない。

 少しだけ、頬が緩みそうになった時。


 「ふふ、気に入ってくれて嬉しいわ。何十年もかけて調整した甲斐があったもの」


 お姉さんは、俺の髪を愛おしそうに梳きながら、とんでもない爆弾を投下した。


 「その可愛い姿のまま、成長しないように固定しておいたから、安心してね♡」


 俺の思考は停止した。

 鏡の中の可憐な少女も、目を見開いて固まっている。


 「……はい?」

 「だっておかしいでしょう? せっかく完璧なバランスで作ったのに、成長して崩れちゃったら」

 「いやいや、待て待て」


 俺は背筋が凍る思いで振り返った。


 「固定って、どういうことだ。俺はずっとこのままなのか? 背が伸びたり、大人になったりしないのか?」

 「ええ。十五歳くらいの、その儚い姿のままよ。大怪我とかしない限り、ずっと生き続けられるわ」


 お姉さんはうっとりと頬を染め、俺を抱きしめた。


 「なんでそんなこと……」

 「だって、ミアが大きくなっちゃったら……この腕の中に、すっぽり収まらなくなっちゃうじゃない」


 ──狂気だ。

 この人は、自分の腕に収めるためだけに、俺の時間すら止めたのだ。

 サキュバスの生態としてどうなのか、なんて議論は無意味だ。

 この人がそうしたいと思えば、それがこの世界のルールになる。そう感じずにはいられない。


 「……お姉さんの愛、重すぎないか?」

 「あら、足りないかしら?」

 「もう致死量だよ」


 俺は乾いた笑いしか出なかった。

 逆らえない。

 俺の肉体そのものが、彼女の作品なのだから。


 「……なあ、お姉さん」


 このままでは胃に穴が開く。

 俺は少しでも主導権を取り戻そうと、恐る恐る核心に触れることにした。


 「お姉さんって、結局何者なんだ? 魔王軍にはいたのか? その……どれくらい強かったりするんだ?」


 先代魔王を策略により消したが、そう簡単にできることじゃない。

 勇者からの信用に関してはどうにでもなる。

 一番の問題は、魔王の弱点を知っているという部分。魔王軍の中でも、かなりの側近でないとわからないはずだ。

 お姉さんは、ふと動きを止めた。

 人差し指を唇に当て、妖艶に微笑む。


 「昔の話よ。結構……偉かった気もするけど、今はただの《ミアのお姉ちゃん》だもの」


 目が笑っていない。

 それ以上聞くなという無言の圧力が、肌を刺すように伝わってくる。

 これ以上踏み込めば、地雷を踏む。


 「そ、そうか! 過去は振り返らない主義なんだな! 素晴らしい!」


 生存本能が警報を鳴らすので、全力で話題を逸らすことにした。


 「それよりさ、これから魔王をやるにあたって、魔界の情勢とか知っておきたいなー、なんて!」

 「ええ、いい心がけね。ミアは勉強熱心で偉いわ」


 お姉さんは瞬時に機嫌を直し、俺の手を引いて歩き出した。

 助かった。寿命が縮む思いだ。

 連れていかれたのは、執務室のような場所だった。

 部屋の中央に鎮座する重厚な机の上に、お姉さんが古びた巻物を広げる。

 表面を魔力が走り、どこかの大陸の地図が鮮やかに浮かび上がった。


 「これが今の魔界──正確には、大陸全体ね」


 ほう……意外と広い。

 地形も細かく書き込まれているし、街道や都市らしき印や絵もある。

 それなりの文明レベルがありそうだ。

 お姉さんは地図の上をなぞるように指を動かした。


 「勢いがある勢力は二つ。一つは旧魔王軍の残党。先代魔王がいなくなって乱世になったけど、幹部の一人にカリスマ性がそれなりにあったから、なんとか再編してまとまってるの。大変よね~」

 「……元凶となった人がそれを言うのか」


 他人事のように言うが、その状況を作ったのは目の前の美女だ。

 まず、地図中央を流れる大河を挟んだ、北側の領域に指が置かれる。

 一番広くて豊かそうな土地だ。


 「もう一つは竜族。頭がよろしくて、力も強い。しかも寿命が長いから積み重ねが違うのよ」


 次は、東の険しい山脈地帯へと指が移動する。

 ここを攻めるのはかなり苦労しそうだ。


 「北の旧魔王軍に東の竜族。両方とも勢力拡大してたけど、隣り合ってからはずっと睨み合いね。手を出すと消耗するから、お互いに攻めきれない。だけど、相手を無視して他へ拡大するのも難しい。だから……」


 お姉さんは、とても楽しそうに瞳を細めた。

 まるで邪悪な魔王のような笑み。


 「私たちが伸びるチャンスなのよ」


 ……なんだか嫌な予感がした。

 二大勢力が睨み合っている隙に、漁夫の利を得ようというのか。

 理屈はわかるが、俺たちには兵力がない。あるのは俺とお姉さんだけだ。


 「え、えっと。じゃ、じゃあ俺たちはどこに……?」


 尋ねると、お姉さんの指は大陸の端──さらに端──もっと端へと動いていく。

 方角は南西。位置的には左下。

 え、そこ書き込みすらないんだけど。

 地図の外枠ギリギリだぞ?


 「ここよ♡」


 指が止まった先は──余白。

 地図の端の、色もない広大な空白地帯。


 「……ここ、文明あるのか?」

 「ないわ♡」


 なんでそんなに嬉しそうなんだ。

 その疑問はすぐ解決する。


 「人どころか、魔物もまばらな荒野よ。誰の目も届かない、私たちだけの楽園」


 お姉さんはうっとりと言うが、俺の頭には不毛の大地という言葉しか浮かばない。

 ここから魔王になれと?

 難易度設定がおかしくないか。


 「実際に見たほうが早いわね。ミア、お散歩しましょう?」


 散歩という言葉は甘いけれど、絶対この屋敷の外は過酷なんだろうなぁと察してしまう。

 でも、拒否権はない。

 どんな異世界に放り込まれたのか、自分の目で確認するしかないのだ。


 「……わかった。行く」


 お姉さんが手を握ってくる。柔らかくて温かい。

 このスキンシップにいちいち反応してしまう自分が腹立たしいが、握り返さないと機嫌を損ねそうで怖い。

 重い扉が開き、外の光が差し込む。

 そして、目に飛び込んできた景色に、俺は言葉を失った。


 「…………え?」


 荒野。

 果てしない荒野だった。

 草もまばら、建物はゼロ、遠くに黒い岩山がごつごつ突き立ち、風がひゅうと鳴り、砂埃が舞い上がる。

 どこをどう見ても、魔王として勢力を築き上げられるような場所じゃない。


 「ここから魔王になれとか……マジかよ」


 俺の乾いた呟きを聞き、お姉さんはにっこりと微笑んだ。


 「ええ、もちろんよ♡ 私の可愛い妹ちゃんなんだから、できるわ」


 できるわ、じゃない。

 やらなきゃいけないのだ。

 もしここで無理と言えば、俺は屋敷に閉じ込められ、成長しない体のまま、永遠に愛玩動物として生きることになる。

 膝から崩れ落ちそうになる俺の肩を、お姉さんが優しく撫でた。


 「安心して。ミアにはお姉ちゃんがついてるんだから♡」


 それが一番安心できない要素なんだよ。

 だが、頼るしかない。

 こうして、俺の絶望的な魔王ライフが幕を開けた。

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