フェイズ・イーター
銀雪 華音
第1話「新宿、午前二時の欠落」
深夜二時、新宿。
この街の空気は、使い古された雑巾のように湿って重い。
佐藤健一(さとう・けんいち)は、手にしたレジ袋のビニールが指に食い込む痛みを感じながら、アスファルトの端を歩いていた。
袋の中には、半額シールの貼られたおにぎりと、ぬるくなった缶コーヒー。
三十四歳。独身。バスターズ・ランク――最底辺の「F」。
世間が「魔物」という絶望に慣れ始めてから十年。かつてのパニックは日常へと姿を変え、今やそれは、ただの面倒な災害扱いに成り下がっている。
「……はぁ」
誰に届くでもない溜息が、濁った夜気に溶ける。
ふと、胸ポケットのスマホが小刻みに震えた。画面を覗くと、匿名掲示板『バスターズ・ギルド実況スレ』の通知が、滝のような勢いで流れている。
【緊急】新宿東口、アルタ前。Dランク出現!
【悲報】現場の警察、手も足も出ず。
【速報】付近のバスター、全員飲酒中につき到着絶望。
「Dランク……」
健一は立ち止まり、視線を上げた。
ビル風が不気味に唸り、遠くで悲鳴が響く。本来ならFランクの自分が関わっていい事態ではない。逃げるのが「効率的」な正解だ。
だが、彼は逃げなかった。いや、逃げることを忘れたような顔で、レジ袋を路地の隅、ゴミ箱の上に丁寧に置いた。
「半額とはいえ、食い物を無駄にするのは、この年になるときついからな」
独り言をこぼしながら、上着の内側から「それ」を取り出す。
それは、武器と呼ぶにはあまりに無機質で、不格好な「鉄の塊」だった。
名称、『フェイズ・イーター(位相喰い)』。
現代科学が魔素に対抗するために生み出し、あまりの使い勝手の悪さから試作段階で放棄された、失敗作の残骸。
目の前の曲がり角から、巨体が現れた。
全身を硬質の毛で覆った、醜悪な猪の化け物。Dランク。警官が撃ち込んだ拳銃の弾など、泥遊びの礫(つぶて)ほども効いていない。化け物は、逃げ遅れて腰を抜かした若者を見据え、その巨大な牙を振り上げた。
若者が目を閉じる。
だが、肉を裂く音はしなかった。
代わりに聞こえたのは、――パキィ。
という、薄いガラスを爪で弾いたような、場違いなほどに涼やかな音だった。
「……同期、完了。出力、位相固定(フェイズ・オン)」
健一の声は、驚くほど平坦だった。
彼の一歩は、若者には見えなかった。地面を蹴るのではなく、空間の隙間に滑り込むような、異様な重心移動。
振り抜かれた鉄の塊は、魔物の強靭な皮膚に触れた瞬間、銀色の粒子となって爆ぜた。
斬撃ではない。それは「消失」だった。
鉄の塊から放たれた高周波の位相磁場が、魔物の分子結合を強制的に解除する。
一瞬前までそこにあったはずの、魔物の左肩から上が、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。
血すら流れない。断面は、物理法則を無視した鏡面のように滑らかだ。
魔物は、自分が何をされたのか理解できないまま、残された右半身で数歩よろめき、そして静かに、砂の城が崩れるように霧散した。
後に残ったのは、地面に転がる親指ほどの大きさの「核(コア)」一つ。
「ふぅ……」
健一は、再びただの鉄塊に戻った武器を懐に隠すと、何事もなかったかのように歩き出した。
腰を抜かしていた若者が、掠れた声で問いかける。
「あ……あんた、何者だよ……」
健一は振り返りもしない。
「ただの、賞味期限を気にするオッサンだよ」
再びレジ袋を手に取った健一は、スマホの画面に目を落とした。
掲示板は、さらに異常な熱を帯びていた。
154:名無しのバスター
「おい、今、画面の端を何かが通ったぞ?」
155:名無しのバスター
「俺も見た。黒い影。一瞬でDランクが消えたんだが……」
156:名無しのバスター
「チートか? バグかよ。今のランク1位でもあんなの無理だろ」
157:名無しのバスター
「おい、誰か動画撮ってねーのか!? 新宿の幽霊アタッカーかよ」
健一は、ぬるくなった缶コーヒーのプルタブを、パチンと弾いた。
「……幽霊、か。悪くないな」
深夜の新宿。
ランキング一位の座も、英雄の称号も、今の彼には遠い。
だが、この手の中にある「位相の渇き」が、いつかこの世界を、そしてかつて諦めた自分自身を、根底から切り裂く予感だけが、夜風と共に彼の背中を撫でていった。
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