川で顔を洗っていただけなのに、全裸の太陽神に求婚されました

琴坂伊織

第1話

 木漏れ日が無数に降り注ぐ、まばゆい午後のことだった。


 ルカは両手いっぱいに水を溜めると、勢いよく顔を埋める。バシャリ、と水音を立てて顔を上げれば、勢い余った水飛沫が彼の周囲に散った。


 冷たい水に濡れた長い睫毛が震え、その瞳がゆっくりと開かれる。


 白磁を思わせる陶器のような肌に、張り付いた濡れ髪。ただ顔を洗うという日常の仕草でさえ、彼が行えば、まるで神話の一場面を切り取った宗教画のように完成されていた。


「なんか、暑いな」


 陽光が強まった気がして、ルカは眩しさに目を細めた。気づけば、川の向こう岸に「それ」はいた。


 一糸纏わぬその姿は、大理石の彫像が命を得たかのように雄々しく、羞恥という人間的な概念からは程遠い場所にある。まさに、天から堕ちてきた神の似姿だった。


「見つけた……私の運命」


 男神は、自分が全裸であることを気にする様子はない。その指先は熱く、視線はどこまでも甘い。


「結婚しよう。いや、する。決定事項だ。さあ、天界へ行こうか」


「っえ……」


 突然の求婚に、ルカの思考は、氷のように冷たく加速した。


(……あ、これ詰んだ)


 脳裏をよぎったのは、古い神話の数々だ。求愛を拒んだニンフがどうなったか。ある者は一本の月桂樹に変えられ、ある者は泉の水へと姿を変えられた。


「No」と言えば植物園行き。「Yes」と言えば、飽きられるまでの暇つぶし。どちらに転んでも、人としての尊厳は死ぬ。


 ならば、選ぶべきは第三の道だ。


 ルカは長い睫毛を伏せ、恐怖に震えるふりをして見せた。その内側で、生き残るための猛烈な演算を回しながら。


「恐れ多いことです、偉大なる神よ。ですが、私は定命の人間。今は美しくとも、すぐに衰えます」


「俺のことを抱きたいのなら、その愛が一時のものでないと証明してください。年老いて美しさを失ったとき、捨てられるのが怖いのです」


 ルカの言葉に感激したのか、神は声を張り上げる。


「なんと健気な! よろしい、我が愛が永遠であることを行動で示そう!」


 連日ルカのもとに通う。そう告げると、神の輪郭が端から崩れ、光のような粒子となって空へ舞い上がっていく。


 つむじ風のように現れたかと思えば、ルカが口を開く暇もなく去っていった。張り詰めていた糸が切れたように、肩の力が抜ける。


「……よし。性欲まみれの神に、永遠の証明なんて無理だから、これで諦めてくれるだろ」






 翌日のことだった。


 丑三つ時、突如としてルカの寝室から「夜」という概念が蒸発した。まるで部屋の中に太陽が現れたかのように、白で塗り潰された。


「ルカよ! 今日も私はここに来たぞ! 昨日の今日で心変わりしていないという証明だ!」


「眩しい!! 今、何時だと思ってるんですか!」


 窓枠に収まった太陽神のドアップ。ガラス一枚隔てた向こう側で、神はニカッと歯を見せて笑っている。


「愛に時間は関係ない!」


 コケコッコーと、鶏の鳴く声が聞こえてくる。


 お前のせいで部屋の気温が急速に上がっていく。日焼けしたらどうすんだコラ。


「……偉大なる神よ。会いに来てくれたのは嬉しいのですが、俺は人間の身です。睡眠を取らねばこの美貌も衰えてしまいます」


「それは困るな。では……せめてその寝顔を見せておくれ!」


 昨日会ったばかりの男から一晩中熱い視線を送られ続けて、眠ることのできる人間がいるだろうか?


 体感時間は三億年。


 再び鶏の鳴く声が聞こえたとき、ルカの目の下には、まるで殴られたかのような濃い影が落ちていた。その日から、眠れない夜が続くことになる。


「地上の生活を知りたい」


 夜中の蚊よりも鬱陶しい存在が、また羽を動かしている。


「愛する人がどんな生活を送っているのか、知りたいだろう?」




 その日から、神は村長の家に居座ることになった。


 村人たちの顔は、最初は水を吸い上げたばかりの切り花のように瑞々しかったが、次第に花弁の縁から茶色く変色し、萎れていった。


「頼むルカ、一発だけでいいから抱かれてくれ!このままでは村が破産する!」


 一週間は経った頃、村長がルカにとんでもないことを頼んできた。


 偉大なる神は人間サイズの食事では満足できず、一食で牛3頭とワイン樽5本を消費していたのだ。


「惚れられたのはお前なんだろ?神の愛に応えないなど不敬だ!」


 ……誰かを好きになるのは自由だが、相手がこちらを好きになるかどうかも自由だ。俺のせいだと言われるのもおかしな話だと思う。


 ルカは重たげな瞼を無理やり持ち上げると同時に、苛立ちを隠そうともせず、あからさまに太い息を吐いた。






「ルカよ、この一月ひとつき、毎日会いに来ている!愛の証明もできただろう?」


 神の腰元には、頼りない白布がふわりと巻き付いている。喉の奥が焼けるほど甘い熱を孕んだ視線を注ぎながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。


 ルカは愛想笑いを作ろうとしたが、頬の筋肉が痙攣したように引きつるだけで、能面のような冷たさが張り付く。


「そろそろ、契りを交わそうか」


 吐息が耳元を撫でる。ルカを仰向けにしようと、神の指先がルカの肩先に触れた、その瞬間。


 プツン、と耳の奥で何かが弾ける音がした。




「いい加減にしろよ!」




 喉が裂けても構わない。そう思えるほどの絶叫が、ビリビリと室内の空気を震わせた。


「 毎晩毎晩見つめられて寝られないし、ウチの村の備蓄食料は空っぽだ! あんたの愛は『証明』じゃなくてただの『災害』だ!」


 一度口を開くと、もう止まらなかった。腹の底に溜まっていたどす黒いおりを、神の顔面に吐きかけるように怒鳴った。


「だいたい、そんな自己満足な愛を押し付ける相手となんて、死んでも寝るもんか! 帰れ駄神!!」


 燃えるような顔で神を睨みつけながら、ガクと膝をつき、肩を大きく上下させた。手は震え、目尻からは涙が溢れている。


 神は一瞬、何を言われたのかわからないという顔で瞬きをした。だが、罵倒の意味が脳に浸透するにつれ、その頬がみるみる朱に染まっていく。


 全身を紙やすりで擦られるような、乾いた熱風が肌を打った。ルカの涙は蒸発し、白い塩の跡だけが残る。


「私が、これほどへりくだって尽くしてやったというのに……。ただの人間風情が、神を『災害』呼ばわりか?」


 空気が物理的な重圧となり、ルカの肺から酸素を奪う。窓が内側からひび割れ、観葉植物は少し触れれば粉々に砕け散る無残な残骸へと成り果てた。


「ああ……」


 日時計の影を無理やり引き戻そうとするような、無意味で滑稽な思考が頭を巡り続ける。


 喉まで出かかった懺悔の言葉は、神の煮えくり返るような視線の前に溶けて消えていく。


 最初から、神の愛玩動物となっていればよかった。心は白旗を振っているのに、脳だけが戦いをやめようとしない。


 そして、その往生際の悪さが、針の穴を通すような奇跡をこじ開けた。




「……あなたは、芸術の神でしょう?……なら、最も美しい愛を知っているはずです」


 喉の奥で小刻みに震える空気が、かろうじて意味を成して零れ落ちる。


「……ほう?」


 激昂に赤く染まっていた神の顔から、怒りが引いていく。


「報われない恋。触れられないからこそ、永遠に輝く想いです」


 その一言が、奔流のようだった空気を、硬い沈黙へと変えた。長い、長い夜が明け、神は沈黙の果てに口を開いた。


「確かに。……詩になるな」


 噛み締めるように、ゆっくりと深く頷いた。神の顔から険が抜け、真理を得たりと、その瞳はどこまでも透き通っていた。






 以降、人に告白しては失恋を繰り返し、名作を生み出す迷惑な神が現れたという。


「もう二度と川で顔を洗わない」

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川で顔を洗っていただけなのに、全裸の太陽神に求婚されました 琴坂伊織 @iori_k20

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