第16話 ダブルエンドバッグ

 ダブルエンドバッグとはゴムで上下を釣ったボールを打つ練習器具だ。サンドバッグと違って軽く打てるが、ゴムで釣られたボールは不規則に帰ってくる。とても打ち返し難い。

 また正確にパンチを当てないと、きちんと手元に戻ってこない。慣れないとやっかいなものだった。

 練習生が杏子にグローブとバンデージを持って来た。

「でも、私・・・」

「話したくなけりゃいい。だけど色々堪ってんじゃないのか?」

 そう言いながら神木は半ば強引に杏子の手にバンデージを巻き出した。

「おい、右手やってくれないか」

 神木が練習生の男に声を掛けた。するとブルドーザー真尾がいつの間にかやってきて、バンデージを取り上げた。

「女性の手を触るなんざ、10年早いわ!」

 真尾は杏子の右手を取ると慣れた手つきでバンデージを巻き付ける。

グローブは女性用の10オンスだ。杏子は8年ぶりにボクシンググローブを付けた。それこそ、高校を卒業して以来だと思う。

 おかしな気分だった。いや、複雑な気分だ。懐かしさはある。だが、苦いものも感じていた。

「よし、やってみろ」

 神木社長に言われてダブルエンドバッグの前に立つ杏子。わずかに膝を緩め、グローブを構えた。

「ほお、良いスタイルだ・・・」

 真尾が呟いた。パンチングボールはよく叩いた。サンドバッグもだ。だが、ダブルエンドバッグは杏子には余り馴染みがない。

 それで、恐る恐るボールを叩いてみる。ボールは一旦後方へ伸びると手元にすぐ帰って来た。それをまた叩く。少し芯がズレるとボールはあらぬ方向へ帰ってくる。それを慌てて追いかけた。

 ただ、杏子は確実にボールを捉えていた。外すことはない。少しばかり叩き続けていると、たちまち慣れてきた。

 杏子は力を込めて叩いてみた。スピードを付けてボールが返ってきた。それを今度はかなり強く叩いた。ボールも強く戻って来た。外せば自分の顔に当たりそうだ。

「そうか、それは避ければいいのか」

 杏子はものの数分でダブルエンドバッグの動きに慣れてしまった。小さく足を動かしながら正確にボールを叩いていく。どんどんスピードが上がっていった。

 練習場に杏子の叩くダブルエンドバッグの音が響いた。小気味のいい音だ。強力なゴムの力で帰ってくるボールが風を切る。

 杏子はだんだんと前に出ていく。ボールはしまいまで戻らずにまた叩かれる。こうして杏子はダブルエンドバッグのボールを叩き続けていた。

 頭の中は真っ白だった。ただ無心にボールを叩く。

「ああ、こういう感覚。懐かしい」

そして気持ちいいと思った。

「素人じゃねえな」

 真尾の呟きに他の練習生たちも目を見張る。杏子は叩き続けた。

「杏子、杏子。もういい。その辺で止めておけ。拳を痛めるぞ」

 見かねた神木社長が杏子を止めに入った。それで、杏子は我に返った。汗が噴き出した。

「デトックス・・・」

 杏子が思った。

 それで、その後事務室でお茶を飲みながら杏子はあの日、川口店であったことを神木に語った。伴志津香とのことも。

 但し、今日の居酒屋でのことは話さない。これはまだ志津香と結論が出ていないことだ、杏子はそう思っていた。

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