FIT BOXER

元之介

第1話 スポーツクラブの女

 ダッフルバッグを振り回しながら女は受付カウンターの前を走り抜けた。そのままSTAFF ONLYの扉を勢いよく開ける。事務室には目もくれず更衣室へと女は向かった。

「おい!杏子きょうこ。遅刻だぞ!」

 後ろから店長の怒声が追ってきた。

「まだ、5分前、いや6分前ですよ」

振り返りながら杏子が言い返す。

「それはレッスンスタートだろうが!」

「ちょっと、お客様待たせるわけにいかないから。後でね」

杏子はそれだけ言うと、女子更衣室のドアを開ける。と同時にルルレモンのバッグをベンチに放り投げていた。

「杏子、いくら社長の知り合いだからって勝手は許さんぞ」

 ドアの外でまだ店長の三反薗みたぞのが声を張っている。すると勢いよくドアが開いて、危うくぶつかりそうになった。

「うわあ、何するんだ!杏子!」

 慌てて飛び退いた三反薗店長を横目に、豹柄レギンス姿の杏子はスタジオへ飛び出していった。

「あの格好で来たのか・・・」

 杏子は黒のタンクトップと豹柄レギンスをスプリングコートの中に着込んでいたのだ。ちなみにシューズの紐はまだ結べていなかった。


「杏子さん、相変わらず切れのいい動きだなあ」

 スタッフの斉藤拓実が杏子のステップを眺めながら呟く。

「でも、受講生が6人じゃ・・・」

同じくスタッフの北原弓子が返した。

「コロナ以降、戻らないね」

と斉藤。

「全体の会員数はほとんど戻ってるじゃない。御子柴さんのボクササイズが戻らないのよ」

「あれ、きついですからね」

と斉藤はあくまで杏子の味方のようだ。

「どうなのかしらね。この前なんて4人でしたよ」

「朝一番ですから、お客さんもまだ少ないし。これからでしょう」

 北原は呆れて両手を広げながら離れていった。館内には20人くらいの会員がウェイトマシンやエアロバイク、トレッドミルを使っている。まだ9時半だということを考えれば、まあまあ入っている方だろう。

 それだけに6人しかいないスタジオは淋しかった。


「ワンツー!ワンツー!」

 杏子の掛け声に6人の受講生が左右の腕を交互に前に出す。スタジオには大音量のダンスミュージックが鳴り響いていた。

「もっと、強く〜!もっと、もっと!」

 杏子はだんだんパンチを繰り出す速度を上げていく。一番端の2人、少々太り気味のオバさんたちはもう息が上がっていた。

「はい。腕を下ろして〜! 足は止めないよ〜!」

 杏子は腕をだらりと下ろすと、足踏みを繰り返した。6人の受講生たちもそれに倣う。オバさんふたりもホッとした顔を見せた。それを確かめたところで、再び杏子はパンチを繰り出した。

「ストレート!ストレート!」

 大きく足を踏み出して右腕を空想の敵顔面に叩きつける。生徒たちも同じように右腕を前に誰かの顔をぶっ飛ばした。

「ほら。嫌なやつの顔を思い浮かべて〜。パンチ!パンチ!」

 受講生たちは動くだけだが、インストラクターは常に声を出していなくてはならない。これはかなりきついことだ。だが、杏子は淡々とこなしていた。

 レッスンはまだ序盤。ボクササイズは60分のコースである。こうして杏子の昨夜の酒は抜けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る