現代日本に来た勇者が、あまりにも「壊れて」いた件
ちんこ良い肉(ジンベエザメ)
第1話
日本ダンジョン機構の冷ややかな空調音が響く、無機質な取り調べ室。
マジックミラーの向こう側から注がれる監視の視線も、分厚い鉄の扉も、目の前に座る「彼女」には何の意味もなさないだろうことは、事前の資料だけで十分に理解できていた。
異世界からの来訪者。
識別名『セイヴァー(勇者)』。
その戦闘能力は測定不能。だが、日本ダンジョン機構が彼女を収容し、私がこうして対面している理由は彼女の武力ではない。彼女がもたらす、異常なまでの「癒やし」と、極めて特異な「献身」の精神性にある。
今日は彼女の定期メンタルチェックおよび、能力評価の更新。……のはずだったが、予定よりも少し時間が押している。
私は手元の端末を置き、目の前の女性──輝くような金髪と、慈愛に満ちた瞳を持つ、20歳前後の美しい女性に向き合った。
「……お待たせしてすまない。少し手間取ってしまった」
私が謝罪を口にすると、彼女はふわりと、花が咲くような笑顔を浮かべた。そこには一切の陰りも、拘束されていることへの不満も見当たらない。まるで、昼下がりのカフェで友人を待っていたかのような自然さだ。
「いいえ、謝らないでください、局長さん。私の方こそ、お忙しいのにお時間をいただいてしまって申し訳ありません。……ふふ、それに私、待っている時間も嫌いじゃないんですよ? こうして静かに、平和な時間を噛み締めていられますから」
彼女の声は鈴を転がすように澄んでいて、耳に心地よい。
『完璧な聖人』。
局内の誰もが彼女をそう評する。探索者特有の精神的汚染や狂気、あるいは暴力的な衝動が、彼女からは一切感じられない。彼女の瞳は、私の疲れ切った顔を心配そうに覗き込んでいる。
「それより局長さん、顔色が優れませんよ? 目の下に隈が……。激務が続いているんですね。私でよければ、その『お疲れ』、取って差し上げましょうか? ほんの少し、手を触れるだけでいいんです」
彼女は拘束具のつけられた手を、自然な動作で差し出そうとする。
彼女の探索者としての異能は「聖剣」と呼ばれる未知の力による、超広範囲かつ即効性の治癒と鎮静。
怪我はおろか、精神的な摩耗や疲労すらも一瞬で拭い去ると報告されている。実際に彼女の協力を得てから、探索者の死亡件数は激減し、負傷者の回復速度は劇的に向上した。
「……ありがとう。だが、今は取り調べ中だ。それに、この後予定もあるから大丈夫だ」
私がやんわりと断ると、彼女はきょとんとした後、すぐに「ああ!」と何かに気づいたように手を叩いた。
「そうでした! 礼二さんたちが話しているのを小耳に挟んだんです。今日はこれから、S級探索者グループ、黄金の剣の皆さんたちとカラオケに行くんですよね? ふふっ、素敵です! 皆さん、局長さんとお出かけできるのを凄く楽しみにしていましたよ。特に鎖織さんなんて、新しい服を選んだりして……あ、これは内緒でしたっけ?」
彼女は悪戯っぽく舌を出して笑う。その仕草は、どこにでもいる年相応の女性そのものだ。
情報の把握が早い。そして、他者の幸福を我が事のように喜んでいる。そこには嫉妬も、疎外感も感じられない。自分がその輪に入れないことを嘆く様子すらない。
「いいなぁ、カラオケ。私、元の世界では歌う余裕なんてあまり無かったですから。……この世界の歌は、平和で、自由で、愛に溢れていて大好きです。局長さんがどんな歌を歌うのか、ちょっと聴いてみたかったりして」
「……君も、行きたかったか?」
意地悪な質問だったかもしれない。現在、異邦人として自由を奪われた彼女に対して、外の楽しみを見せびらかすような問い。だが、彼女の反応は私の予想を遥かに超えて「聖人」だった。
「いえ! とんでもないです! 私が一緒に行ったら、皆さんが気を使ってしまうかもしれませんし、それに……私はここで、皆さんが楽しんできてくれるのを想像しているだけで、胸がいっぱいになるくらい幸せなんです。本当に。嘘じゃありませんよ?」
彼女は真剣な眼差しで私を見つめる。
その瞳の奥には、一点の曇りもない善意があるように見える。
資料にある『自己犠牲的傾向』という言葉が頭をよぎるが、彼女の振る舞いはあまりにも自然で、自己犠牲を「犠牲」とすら感じていないように見えた。
「あ、そうだ。これ、局長さんに渡したくて」
彼女はポケットから(本来なら持ち込み禁止のはずだが、彼女には特例で許可されている)小さな折り紙を取り出した。不器用なりに一生懸命折られたであろう、カブトムシの形をした折り紙だ。
「前に、本で見たんです。この世界の子供たちが好きな虫だって。……なんか、強そうでかっこいいじゃないですか。これを持っていると、勇気が湧いてくる気がして。だから、局長さんのお守り代わりにどうかなって。……あはは、子供っぽいですかね?」
彼女は照れくさそうに頬を掻く。
死線をくぐり抜けてきた戦士とは思えない、幼い愛嬌。
私はその折り紙を受け取り、ポケットにしまった。
「ありがとう。大切にするよ」
「はい! ……あぁ、よかった。局長さんが笑ってくれて。貴方が笑っていると、世界が少しだけ明るくなった気がします。さあ、局長さん。難しい顔をしてないで、早く行ってあげてください。皆さんが首を長くして待ってますよ? 取り調べなら、またいつでも受けますから。私は逃げも隠れもしませんし、ここで大人しく、皆さんの帰りを待っています」
彼女は私を急かすように、出口の方を手で示した。
その笑顔は、慈愛そのものだ。
自分を置いて楽しんでこいと、心からの祝福を送っている。
あまりにも、できすぎている。
完璧な協調性。完璧な善性。
まるで「人間」の形をした、優しさの結晶のようだ。
だが、その完璧さが、私の背筋に冷たいものを走らせる。
「……わかった。今日はここで切り上げよう。戻ったら、また話を聞かせてくれ」
「はい、もちろんです! いってらっしゃいませ、局長さん。どうか、楽しんできてくださいね! 貴方の今日という日が、最高に幸せな一日になりますように!」
私が部屋を出て扉を閉めるその瞬間まで、彼女は満面の笑みで手を振り続けていた。
扉が閉まり、重い金属音が響く。
廊下に出た私は、ふと手の中の折り紙を握りしめた。
彼女の笑顔。
それは確かに美しいものだったが、なぜだろうか。
あの笑顔の裏に、底知れない何かが潜んでいるような──そんな違和感が、どうしても拭いきれなかった。
鉄の扉が再び重苦しい音を立てて開く。
私は廊下へ踏み出した足を止め、踵を返して取り調べ室へと戻った。
背後で閉まる扉の音が、まるで退路を断つ号砲のように響く。
私は再び椅子の背に深く体を預け、目の前の「聖人」を見据えた。
「……あれ? 局長さん? 忘れ物ですか? もう、おっちょこちょいなんですから。円さんたちが待ちくたびれちゃいますよ?」
彼女はきょとんとした顔で小首をかしげる。その仕草、声色、表情、すべてが完璧だ。
あまりにも完璧すぎる。
「人間」として成立するためのパーツを、顕微鏡単位で精査して組み上げたような不自然なまでの自然さ。
先ほどの違和感の正体が、脳内で急速に言語化されていく。
あれは「善意」ではない。
あれは「聖人」などという生温いものではない。
あれは、濃縮された地獄だ。
地獄そのものが、人の皮を被って、愛想笑いを浮かべている。
「……予定は変更だ。君の話を最後まで聞くまでは、ここを出るつもりはない」
私が告げると、彼女は一瞬だけ困ったように眉を下げ、それから諦めたように、しかし慈愛に満ちた微笑みを深めた。
「そうですか……。局長さんがそう仰るなら、私はいつまでもお付き合いしますよ。でも、私の話なんて退屈なだけですけれど」
「君がいた世界の話を聞かせてくれ。魔王を倒した時のこと、そしてその後の世界のことを」
私は単刀直入に切り込んだ。
資料によれば、彼女は魔王軍と人類軍が拮抗する泥沼の戦争を終わらせた英雄だ。
「魔王……ああ、あの方のことですね。……悲しいことでした。あの方もまた、一人の生きる命でしたから。彼らには彼らの正義があり、守りたいものがあった。私たちと同じ、ただ生きようとしていただけなんです」
彼女は目を伏せ、心から痛ましそうに語る。
「でも、どちらかが滅びなければ、もっと多くの血が流れてしまう。最大多数の最大幸福……そう、より多くの笑顔を守るためには、悲しいけれど、あの方には消えていただくしかなかった。それは戦いというより、不幸な事故……コラテラルダメージのようなものです。私に、彼らを救うだけの力が足りなかったから……殺すという選択肢しか取れなかった。私の無能さが招いた悲劇です」
魔王殺しを「自分の無能」と切り捨てるその論理。
そして私は続けて問う。
「その後、君の世界は80年間、争いのない平和が続いたそうだな。どうやってそれを実現した?」
「ふふ、それですか? それは本当に、ただの運が良かっただけなんですよ」
彼女は事もなげに言った。
「魔王がいなくなった後、みんなが急に『仲良くしよう』って思い立ったみたいで。私は何もしていません。ただ、世界中の人たちが賢くて、優しくて、平和を愛していた。それだけの幸運な偶然が重なっただけです。私が介入するまでもなく、世界は勝手に楽園になったんです。……素敵なことですよね?」
嘘だ。
人の業、国家の対立、種族間の確執。それらが魔王一人の死で綺麗サッパリ消えるはずがない。80年もの間、完全な平和が続くなど、強烈な「強制力」が働かない限りあり得ない。
「運」や「偶然」という言葉で、彼女は何かを隠蔽している。
私は机の下で拳を握りしめ、異能【精神共感】の力を発動させた。
探索者の精神深層とリンクし、その感情の濁流を直接知覚する。
視界が歪む。
清潔な取り調べ室の風景が、ノイズ混じりの赤黒い闇へと反転していく。
そこにあったのは、穏やかな聖女の心象風景ではない。
『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!』
鼓膜を、いや、脳髄を直接揺さぶるような、幼い子供の絶叫。
それは慟哭であり、呪詛であり、終わりのない懺悔だった。
(違う! 違う! 私が殺した! あいつらを殺した! 殺したくなかった! 魔王も! 兵士も! みんなみんなみんなみんな、家に帰りたがっていたのに! 家族がいたのに! 私が奪った! 私の手が、私の細胞が、彼らの未来を全部食い散らかしたんだ!!!!)
目の前のセイヴァーは、変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
「紅茶でも入れましょうか?」とでも言い出しそうな平穏な表情。
だが、【精神共感】を通じて流れ込んでくるのは、どす黒い罪悪感のヘドロだ。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! なんで私なんかが生きているの!? なんであんなに沢山の人たちが死ななきゃいけなかったの!?)
彼女の心の奥底に、幼い少女がうずくまっているのが見える。
金髪の、鼻水を垂らした、どこにでもいるアホで優しい少女。
だがその少女は、血の海の中で、無数の死体に埋もれて泣き叫んでいる。
(奪われていい命なんてひとつもなかった!! 悪党なんていなかった!! みんな必死に生きてただけなのに!! 私が殺した!! 「仕方なかった」なんて嘘だ!! 私が弱かったから、私が無能だったから、殺して解決するしかなかったんだ!!)
表層の彼女が語る「最大多数の幸福」というロジック。
それは信念などではない。
自分が犯した虐殺から目を背けないための、自分自身への拷問器具だ。
(村のみんな……お父さん、お母さん、みんな……! どうして私を選んだの!? どうして私に注射を打ったの!? 私なんかより、パン屋のおじちゃんの方が立派だった! 先生の方が賢かった! 私なんて、カブトムシしか追いかけてないバカだったのに!!)
少女の絶叫は、やがて一つの願いへと収束していく。
それは生存本能を凌駕する、魂の悲鳴。
(死にたかった……!! 私も一緒に死にたかったよぉ……!! みんなと一緒に、あの時死んでいればよかった!! 一人生き残って、みんなの命を吸って生き延びるなんて嫌だ!! 痛いよ、苦しいよ、誰か私を殺して!! 私を裁いて!! お願いだから、これ以上私を生かさないで!!!!)
現実の彼女が口を開く。
その声は、相変わらず春の日差しのように暖かい。
「……局長さん? どうされました? そんなに怖い顔をして。どこか痛むなら、すぐに治して差し上げますよ? 貴方の痛みは、私が全部引き受けますから」
彼女は微笑む。
内側で、血の涙を流して「殺してくれ」と絶叫する子供を、分厚い「聖人」の皮で押し包んで。
彼女は自分の精神が悲鳴を上げていることすら、表には一切出さない。
その乖離。その歪み。
私は息を呑む。
これは、ただの二重人格ではない。
一人の人間の中で、「死にたい」と願う魂の慟哭と、「死ぬのは許されない」と願う細胞の暴走と、永遠に殺し合いを続けている。
それが、勇者という名の無限地獄だった。
【精神共感】の接続が強制的に途切れる。
赤黒い視界が急速に収束し、再び無機質な取り調べ室の白い光景が戻ってくる。
だが、私の網膜には、あの強烈すぎる「最期」の光景が焼き付いて離れなかった。
それは、彼女の記憶の最深部にあった光景。
平和になった世界で、80年という永き時を生き、誰にも看取られず孤独に死んだ老婆の姿。
かつて英雄と呼ばれた面影は見る影もなく、肉は落ち、骨と皮だけになった枯れ木のような遺体。
だが、何よりも悍ましかったのは、その死に顔だ。
苦痛に歪んでいるのではない。悲嘆に暮れているのでもない。
その老婆は、顔の筋肉が千切れんばかりに吊り上がった、底知れない歓喜の笑みを浮かべていた。
まるで「やっと終わった」「やっと許された」「やっと死ねた」と、この世の全ての苦痛から解放されたことへの、狂気的なまでの感謝と喜び。
それは人間の尊厳ある死に顔ではない。壊れた玩具が廃棄処分される瞬間の、歪な安らぎだった。
目の前の勇者は、変わらず20歳の若く美しい姿で、小首をかしげている。
「……局長さん? どうされました? 急に黙り込んでしまって。もしかして、【精神共感】で私の心の中をご覧になったんですか? ふふ、お恥ずかしい。私ってば、カブトムシのこととか、今日の夕食のこととか、くだらないことばかり考えていましたでしょう?」
彼女は完璧な演技で、朗らかに笑う。
私が何を見たのか、察しているはずなのに、あえて「平和な心」を装っている。
「……枯れ木のような、老婆を見た」
私が告げると、彼女の動きがピタリと止まった。
ほんの数秒の沈黙。だがその数秒の間に、部屋の空気が凍りついたように重くなる。
彼女は視線を逸らし、頬に手を当てて誤魔化そうとする。
「老婆……ですか? 変ですねぇ。ここには私と局長さんしかいませんし……もしかして、幽霊か何かでしょうか? ここには怪談話もあるって聞きますし、局長さん、お疲れで幻覚を──」
「誤魔化すな。あれは君だ。君の未来の、成れの果てだ」
私は彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、逃がさない。
彼女の笑顔の仮面が、少しずつ、パラパラと音を立てて剥がれ落ちていく感覚がある。
慈愛に満ちた聖人の瞳の奥から、底のない深淵が覗く。
彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、私の方へ向き直った。
「それは」
その美しい顔の筋肉が、不自然に、奇妙に蠢く。
唇の両端が極限まで吊り上がり、目は笑っていないのに口元だけが三日月のように裂ける。
それは、先ほど幻視した老婆の死に顔──あの不気味でグロテスクな歓喜の表情の、完璧な再現だった
「──こんな、顔でしたか?」
背筋が凍るような声色。
美しい顔立ちであるはずなのに、そこには人間的な感情が欠落し、ただ「死への渇望」だけが張り付いている。
直後、彼女はふっと表情を緩め、いつもの困ったような、申し訳なさそうな笑顔に戻った。
「……あーあ。バレちゃいましたか」
彼女は小さく溜息をつき、深く頭を下げた。
「お見苦しいものをお見せして、大変申し訳ありません。……あんな醜い老婆の、あんな気色の悪い死に顔なんて、局長さんの目に入れるべきではありませんでした。不快な思いをさせてしまいましたね。本当に、ごめんなさい」
彼女が謝罪しているのは「隠していたこと」ではない。「醜いものを見せて相手を不快にさせたこと」に対してだ。どこまでも、その思考回路は異常なまでの他者配慮──いや、自己卑下に貫かれている。
「……あの死に顔はなんだ。そして、君のその『癒やし』の能力の正体はなんだ」
私が問いただすと、彼女は観念したように、しかし淡々と語り始めた。
「癒やし……いえ、そんな立派なものではありません。皆さんは私の力を『治癒』や『回復』と呼んでくださいますが、正確には違います。私の【聖剣】の真の能力は、『肩代わり』……他者の負傷、病魔、苦痛、疲労、精神的摩耗、その全てを私の肉体と精神に転移させ、引き受ける機能です」
肩代わり。
その言葉の意味を理解した瞬間、戦慄が走った。
彼女がこれまで日本で行ってきた数々の「治療」。
瀕死の重傷者を即座に回復させ、メンタルをやられた国民の精神汚染を取り除き、私の疲労さえも拭い去ろうとしたあの行為。
それは、傷を治していたのではない。
他人の傷を、自分の体へ移動させていただけだったのだ。
「誰も傷つかない世界を作る。誰も痛くない世界を作る。そのためには、誰かがその『痛み』のゴミ箱にならなければなりません。……私には、殺す能力しかありませんでしたから。せめてその罪滅ぼしに、世界の痛みを引き受けるくらいしか、生きている価値がないんです」
彼女は自分の腕をさする。
その滑らかな肌の下には、世界中から吸い上げた、想像を絶する量の激痛と絶望が蓄積されているのだろうか。
「痛いのは、私だけでいい。苦しいのも、辛いのも、全部私が持っていけば、みんなは笑顔になれる。最大多数の最大幸福のためには、それが最も合理的で、最も効率的なリソース配分でしょう?」
合理的。
彼女はそう言ったが、それは狂気的な自己犠牲を正当化するための言葉に過ぎない。
「あの老婆の顔……あれは、私の80年の旅の終わりの顔です。世界中のあらゆる痛み、病、絶望をこの身に吸い続けて、最後の最後に、誰にも知られずボロ雑巾のように死んだ時の顔です。……笑っていたでしょう?」
彼女は遠くを見るような目をした。
「嬉しかったんです。やっと終わる。やっと死ねる。もう痛くない。もう苦しまなくていい。罪は償いきれないけれど、これ以上誰も殺さなくていい。……あの瞬間、私は間違いなく、世界で一番幸せでした」
そして、彼女は視線を私に戻し、寂しげに微笑んだ。
「なのに……目が覚めたら、ここにいました。神様は、まだ私を許してはくださらないようです。まだ足りない、もっと苦しめ、もっと罪を償えと仰る。……だから私は、ここでも『勇者』として振る舞っているんです。完璧な聖人を演じて、痛みなんて感じていないふりをして。だって、私が痛がったら、治してもらった人が罪悪感を感じてしまうでしょう? それでは『幸福』の総量が減ってしまいますから」
彼女は平然と言う。
痛みを肩代わりしていることを隠し、涼しい顔で他者を救い続けること。
それは彼女にとって、呼吸をするように当たり前の「義務」であり、終わりのない「刑罰」なのだ。
「……局長さん。このことは、他の方には内緒にしてくださいね? 円さんや鎖織さんが知ったら、きっと悲しみます。私は、皆さんの笑顔が見たいだけなんです。そのためなら、私の体が壊れることなんて、些細なコストに過ぎませんから」
取り調べ室の空調の音すら、今は不快なノイズのように耳に障る。
目の前の「聖人」は、まるで世間話のついでに天気の話でもするかのような軽さで、自身の存在が「他者の苦痛を啜る濾過装置」であることを認めた。
私は彼女から視線を外せないまま、乾いた喉から声を絞り出す。
「……君は、日本に来てから何人の探索者や民を『治療』した? 何十人……いや、何百回能力を使った?」
「さあ……数は覚えていません。いちいち呼吸の回数を数える人がいないのと同じです。怪我をしている人がいれば治す。苦しんでいる人がいれば楽にする。それは私が息をする理由そのものですから」
彼女は事もなげに言う。だが、私の脳裏には、彼女が笑顔で治療を施したその直後、誰も見ていない影で一瞬だけ見せたかもしれない、苦悶の表情がフラッシュバックする。いや、彼女のことだ。その苦悶すらも、完璧な演技力と精神制御で押し殺し、微塵も表に出さなかったのだろう。
「その全ての痛み、全ての傷、全ての絶望を、君は今もその身に抱えているのか?」
「『抱えている』という表現は少し大袈裟ですね。消化している、と言ったほうが正しいでしょうか。私の細胞は、普通の人間よりも少しだけ頑丈にできています。どんなに骨を砕かれても、どんなに肉を焼かれても、死ぬことは許されない……あ、いえ、死なないように出来ていますから。痛みには慣れています。それが私の日常であり、人生構成要素の大半は『殺戮』と『肩代わり』で出来ていますので」
彼女は自身の胸元に手を当て、淡く微笑む。
「それに、考えてもみてください、局長さん。私が痛みを引き受けるだけで、優秀な探索者がすぐに戦線復帰できる。無辜の民がトラウマに潰されずに済む。私一人が少し我慢するだけで、全体の幸福は維持され、より多くの人々が守られる。コストパフォーマンスとしては最高じゃないですか。これこそが、最大多数の最大幸福です」
合理的。あまりにも冷徹で、そしてあまりにも狂った献身。
彼女は自分自身を「人間」の数に入れていない。幸福の計算式において、彼女の係数は常にゼロ、いやマイナスだ。
「……そして、その果てにあれがあったのか。あの、死に顔が」
私が再びあの老婆の幻影について触れると、セイヴァーの瞳からふと、聖人の光が消えた。
そこにあるのは、深淵のような暗い憧憬。
「……はい。あれは、私の最高の瞬間でした」
彼女は夢見るように語りだす。
「80年。長かったです。本当に、気の遠くなるような時間でした。平和になった世界で、私は人々の感謝と称賛を受けながら、裏では世界中から吸い上げた病魔と激痛に毎晩のたうち回っていました。誰も殺さなくていい世界は素晴らしいけれど、生きていることそのものが、私にとっては終わらない拷問でした」
彼女の声が少しだけ震える。それは恐怖ではなく、過ぎ去った「救い」への執着ゆえに。
「老いて、体が動かなくなって、ようやく『寿命』という絶対的な許可証が下りた時……私は、生まれて初めて心からの喜びを知りました。もう、誰も殺さなくていい。もう、誰の痛みも吸わなくていい。もう、罪を償うために息をし続けなくていい。……あの笑顔は、私の人生で唯一、心からの幸福を感じた瞬間の顔なんです。不気味でしょう? 悍ましいでしょう? でも、あれが私の本性なんです。『みんなのために』なんて言いながら、私はただ、自分が楽になりたくて、死にたくて、その瞬間を80年間、一日千秋の思いで待ち焦がれていた、ただの身勝手な女なんです」
彼女は自嘲気味に笑う。
美しく整った今の顔に、あの枯れ木の死に顔が重なって見える。
「死」こそが彼女にとっての唯一の「救済(セイヴァー)」。皮肉にも、彼女の名が示す救いは、世界に向けたものではなく、彼女自身の死に向けられていたのだ。
「……なのに」
彼女の声が、急に低く、冷たく沈む。
「目が覚めたら、また若い体に戻っていました。見知らぬ天井、見知らぬ世界。……絶望しましたよ。神様はどこまで残酷なんだろうって。あれだけ働いて、あれだけ痛みに耐えて、ようやく手に入れた安息のゴールテープを切ったと思ったら、スタートラインに強制的に戻されていたんですから」
彼女は両手で顔を覆う。指の隙間から、壊れた笑い声が漏れる。
「あはは……笑っちゃいますよね。ここは地獄の続きですか? それとも、まだ私の贖罪は足りませんか? あと何人救えばいいんですか? あと何万回、骨を折られ、内臓を腐らせる痛みを味わえば、私は許されるんですか? ねえ、局長さん。貴方ならわかるでしょう? この世界には『枷』なんていう便利なものがある。私を繋いで、命令してくださいよ。『死ぬまで働け』って。そうしたら私も諦めがつきますから」
「セイヴァー……」
「大丈夫です」
彼女は声を荒げもしない
「私を人間扱いしないで良いのです。心配しないで良いのですよ。痛みを分かち合おうとしないで良いのです。 私は『道具』でいい、『機構』でいいんです。 あなたは優しいから、それも難しいのでしょうけれど。忘れてほしいと願っても忘れられないのでしょうけど。」
僅かに彼女は憐れむ様な目を見せた
だが、その変化は一瞬だった。
彼女はハッと息を呑み、瞬きの間に表情筋を総動員して「聖人」の仮面を再構築する。
呼吸を整え、机から手を離し、膝の上で揃える。
「……失礼しました。大きな声を出してしまって。……今の、忘れてください。私は大丈夫です。少し、昔の夢を見て取り乱しただけです」
彼女は完璧な笑顔を貼り付けた。
だが、その瞳はもう笑っていない。ただ、拒絶している。
これ以上踏み込むな。これ以上私の「地獄」に触れるな。
触れれば、貴方まで引きずり込んでしまうから。
「さあ、局長さん。私の話はもう十分でしょう? そろそろ時間も押しています。……あの方たちとのカラオケ、楽しんできてください。私のことは気にせず、私のことは『便利な回復薬』だとでも思ってくだされば、それが私にとっても一番の幸せですから」
彼女は話を強制的に終わらせようとしている。
自分が地獄の底にいることを認めながら、その地獄の蓋を自ら閉め、私を外の世界へ追い出そうとする。
最大多数の幸福のために、自分という「不純物」を視界から消そうとする、あまりにも悲しい配慮。
私は立ち上がることもできず、ただ、その痛々しいまでの「完璧な笑顔」を見つめ続けることしかできなかった。
彼女の闇は、私が想像していたよりも遥かに深く、そして救いようがないほどに完成されていた。
重苦しい空気が漂う取り調べ室で、私はあえて話題を彼女の「根源」へと向けた。
あの歪な自己犠牲の精神、そして「最大多数の最大幸福」という呪い。それがどこで生まれたのか。
「……君の子供の頃の話を聞かせてくれ。どんな子供だったんだ?」
私の問いに、セイヴァーは一瞬きょとんとして、それから「ふっ」と吹き出した。緊張感のない、本当に懐かしむような笑い声だった。
「私の……子供の頃、ですか? ふふ、局長さん、それは止めておいた方がいいですよ。本当に、聞いて呆れるくらいの『おバカさん』でしたから。幻滅してしまいますよ?」
「構わない。知りたいんだ」
彼女は少し照れくさそうに視線を彷徨わせ、語り始めた。
「……本当に、アホな子でした。勉強なんてこれっぽっちも出来なくて。将来の夢を聞かれて、みんなが『お花屋さん』とか『勇者様』とか答える中で、私だけ真顔で『カブトムシになりたい』って答えてましたから」
「……カブトムシ博士、じゃなくて?」
「はい、カブトムシ『そのもの』です。あの黒光りする背中、立派な角、そして何より強そうじゃないですか! 当時の私にとって、カブトムシこそが生命の頂点だったんです。だから毎日森に入って、木にしがみついて樹液を吸う真似をしたり……あはは、思い出すと顔から火が出そうです」
その語り口は、どこにでもいる女性が黒歴史を語るような微笑ましさに満ちている。だが、その内容は常軌を逸した「純粋すぎるバカ」のエピソードだ。
「味覚も壊滅的でしたねぇ。私の村のご馳走といえば、カレーとラーメンとハンバーグだったんですけど。私、それが大好きすぎて……『全部混ぜれば3倍美味しいはずだ!』って、ドンブリの中で全部グチャグチャに混ぜて食べてたんです。見た目は最悪な茶色いドロドロでしたけど、当時の私は本気でそれが世界一のご馳走だと信じて疑いませんでした」
「……お腹は壊さなかったのか?」
「壊しましたよ? でも『これはカブトムシになるための試練だ!』って、トイレにこもりながら叫んでました。……本当に、救いようのないバカでしょう?」
彼女は楽しそうに笑う。
だが、次のエピソードで私の表情は凍りついた。
「極めつけは『聖剣』ですね。私、棒切れを拾ってきては『エクスカリバー!』って振り回してたんです。ある時、森ですっごく立派な形の枝を見つけて。嬉しくて一日中振り回して、村のみんなに見せびらかして、家に持ち帰って……母に悲鳴を上げられました。その枝、先端に野犬か何かの……その、乾燥したウンチが突き刺さっていたんです」
彼女は「うわぁ」と自分の顔を覆う。
「ウンチ付きの棒を『聖剣』と崇めて、大事に抱えて寝ようとしてたんですよ? 当然、母にはものすごく怒られましたし、父には大笑いされました。村のみんなも『お前は本当にアホだなぁ』って、頭を撫でてくれました。……そんな、平和な村でした」
ふと、彼女の声のトーンが落ちる。
「平和な村」。その言葉が、過去形で語られたことに胸がざわつく。
「……私は、村のみんなが大好きでした。ウンチのついた棒を振り回すような、鼻水を垂らしたどうしようもないバカな私を、みんなは『元気があっていい』って笑って許してくれた。誰一人、私を馬鹿にしたり、仲間はずれにしたりしませんでした。貧しいけれど、温かくて、優しくて……世界で一番大好きな場所でした」
彼女は膝の上で手を組む。その指先が白くなるほど強く握りしめられている。
「でも、ある日。村に『流行り病』が来ました。感染すれば確実に死に至る、恐ろしい病気です。村は隔離され、外部からの支援も絶たれ……私たちはゆっくりと死を待つしかありませんでした」
彼女の表情から笑顔が消える。
代わりに張り付いたのは、無機質で静かな「説明」の顔だ。
「そんな中、偶然にも村の診療所に、一本だけ特効薬が見つかったんです。たった一本。打てば助かる、唯一の命綱。……村人は全部で100人。助かるのは1人だけ」
100分の1の生存確率。
当然、争いが起きるはずだ。誰が生き残るか、誰が死ぬか。
「村長さんが言いました。『多数決で決めよう』と。誰に薬を打つべきか、全員で投票して決めようと。……私は、村で一番賢いお医者様か、村をまとめてくれる村長さんが選ばれるのだと思っていました。あるいは、これから子供を産む若いお姉さんとか。私はママかパパか幼馴染が選ばれて欲しいと思っていました。私みたいな何の役にも立たない、カブトムシになりたいバカな子供なんて、真っ先に候補から外れると思っていました」
彼女は虚空を見つめる。その瞳には、当時の光景が鮮明に映し出されているのだろう。
「でも……開票の結果は、満場一致でした」
彼女は震える声で告げた。
「99票。……自分以外の全員が、私の名前を書いたんです」
私は息を呑む。
それは、あまりにも残酷な「愛」だった。
「信じられませんでした。みんな、どうかしてると思いました。だって、そうでしょう? 私はハンバーグとラーメンを混ぜて食べるようなバカですよ? ウンチ付きの棒を振り回すような子供ですよ? 生き残る価値なんて、生産性なんて、これっぽっちも無い! もっと立派な人が、もっと世界に必要な人が生き残るべきだったのに!」
彼女の声が悲鳴のように響く。
「なのに、みんなは笑って言ったんです。『お前は元気だから』『お前には未来があるから』『お前は村の宝物だから』って……! 私を押さえつけて、泣き叫ぶ私に無理やり注射を打って……! そして、みんな死んでいきました。私一人が助かるために、大好きだった99人が、苦しみながら、血を吐きながら、それでも最期まで私に『生きて、幸せになってくれ』と微笑んで死んでいったんです!!」
彼女はガタリと椅子を鳴らして立ち上がりかけたが、すぐにハッとして座り直した。
呼吸が荒い。完璧な擬態が、過去の重みに耐えきれず綻びかけている。
「……あの日、私は死にました。カブトムシになりたかったバカな私は、大好きだったみんなと一緒に死んだんです。……生き残ったのは、99人分の命を食らい尽くして生き永らえた、罪深い怪物だけ。……だから、証明しなきゃいけないんです」
彼女は、まるで自分自身に言い聞かせるように、呪文のように呟く
「私が生き残ったことには意味があったんだと。あの99人の選択は間違っていなかったんだと。私という一人の命には、あの素晴らしい99人の命よりも重い価値があるんだと、世界に証明し続けなければならないんです。……例え、それがどれだけ苦しくても。彼らがくれた命で、彼らが望んだ『幸福』を、世界中にばら撒かなければならないんです」
日本ダンジョン機構の、異世界人取り調べ室、その空気は鉛のように重く沈殿していた。
99人の村人の命を糧に生き残った少女。その後の話を聞くことは、彼女の「歪み」の完成過程をなぞることに他ならない。
「……生き残った君は、どうしたんだ?」
私の問いに、セイヴァーは遠くを見るような目で、淡々と、しかしどこか熱を帯びた口調で語り始めた。
「隣の村に住む、親戚の叔父様の家に引き取られました。……そこもまた、貧しいけれど、呆れるほどに『善人』しかいない場所でした。あんなことがあった後で、目が死んでいた私を……不気味がることもなく、家族として愛してくれたんです。本当に、私は人に恵まれすぎていました」
彼女は自身のこめかみを指先でトントンと叩く。
「そこで私は誓いました。『医者になろう』と。もう二度と、薬が足りないなんて理由で誰かを見殺しにしないために。私が特効薬を作れるようになれば、あんな悲劇は起きないはずだと」
「……君は、勉強が苦手だったと言っていたな
「苦手、なんてレベルじゃありません。九九も言えない、1の段すら覚えるのに3時間かかる文字も満足に読めない、頭の中身はカブトムシ以下の10歳児でしたから。医学書なんて、異国の暗号文に見えました」
彼女は微笑むが、その瞳には狂気的な光が宿っている
「だから、『命令』したんです。自分の脳みそに」
「……命令?」
「はい。『理解しろ』『覚えろ』『進化しろ』って。99人の命を貰っておいて、『頭が悪いから出来ません』なんて甘えは許されませんから。毎日、毎秒、頭が割れるほど念じました。知恵熱で40度の高熱が出ても、鼻血が止まらなくなっても、吐き気がしても、決して本を閉じませんでした」
それは学習ではない。自身の肉体に対する拷問であり、強制的な改造手術だ。
「痛かったですよ。脳の血管が何本か切れて、シナプスが無理やり繋ぎ変えられるような、頭の中に焼きごてを突っ込まれているような激痛でした。……でも、不思議なことに。必死に、死ぬ気で、狂ったように『治れ! 賢くなれ!』と叫び続けていたら……ある日、バチン! と何かが弾けて、全部がスルスルと頭に入ってくるようになったんです」
根性論による自己進化。
ただの少女が、強すぎる意思の力だけで、自身の脳細胞の構造を変異させた瞬間だった。
「ああ、これでみんなを救える。そう思った矢先でした。……運命というのは、本当に意地悪です」
彼女の声が、スッと冷えた。
「盗賊が、村を襲いました。凶作が続いて、飢えた武装集団が食料を求めて雪崩れ込んできたんです。……叔父様も、叔母様も、私に優しくしてくれた新しい村のみんなも、私の目の前で……あっけなく」
二度目の全滅。
愛してくれた人々が、またしても理不尽に奪われた。
「その時、私の中で何かが完全に『壊れた』音がしました。……気づいたら、私は鍬を持って立っていました。武術なんて習ったこともない、ただの10歳の子供が……数十人の大人の男たちを、全員殺し尽くしていました」
彼女は自分の掌を見つめる。
「初めての殺人でした。でも、必死に考えたんです。そして急所がどこか、どうすれば一番効率よく息の根を止められるか、体が知っていた。……勉強の時と同じです。『殺せ』と必死で願ったら、体が勝手に殺戮機構に変異していたんです」
震える声。だが、本当の地獄はそこではなかった。
「全員殺した後……私は彼らの荷物を見ました。そこには、わずかな食料と、手紙がありました。『必ず食い物を持ち帰る』『待っていてくれ』……そんな、家族を想う言葉が書かれた手紙が」
彼女は泣き笑いのような表情を浮かべる。
「彼らもまた、被害者だったんです。遠くの村で待つ、飢えた子供や妻を救うために……自分たちの良心を押し殺して、泣きながら鬼になった『お父さん』たちだったんです」
(悪党なんて、どこにもいなかった)
彼女の心の声が、私の脳内に直接響くような錯覚を覚える
「彼らだって、平和な時なら良い人だったはずなんです。誰かを愛し、誰かに愛される、かけがえのない命だった。……私は、そんな人たちを『悪』と決めつけて、ゴミのように掃除してしまった」
「……それが、君の『最大多数』の思想の原点か」
「はい。この世界は、席が足りないんです。全員が座れる椅子がないから、善良な人同士が殺し合って奪い合う。……盗賊が悪くないなら、殺された私の家族はなおさら悪くない。世界中の誰も悪くないのに、システムが狂っているせいで、地獄が生まれる」
彼女は、聖人の仮面を被り直すように、深く息を吸った。
「だから、誰かがやらなきゃいけないんです。誰よりも強く、誰よりも苦痛無く、そして誰よりも残酷に数を計算できる『機械』が。……100人を救うために、涙を飲んで1人を殺す。それを『可哀想』だとか『非道』だとか言って躊躇えば、共倒れで101人が死ぬ。そんな甘っちょろい感情は、あの血の海に捨ててきました」
彼女は私を真っ直ぐに見つめる。その瞳は、深淵のように暗く、そして悲しいほどに澄んでいた。
「私は誓ったんです。二つの村、数百人の命。そして私が殺した盗賊たちの命。その全てを背負って、彼らが生きるはずだった未来の何千倍、何万倍もの『幸福』を世界に叩き出してやると。……それが、バケモノになってしまった私への、唯一の復讐ですから」
冷え切った取り調べ室の空気は、彼女の言葉一つ一つによって、さらに重く、粘り気を帯びたものへと変質していくようだった。
10歳で「壊れた」少女が、いかにして世界を救う「英雄」となり、そして「最強」と呼ばれるに至ったのか。
その過程は、冒険譚などではない。ただの虐殺の記録だ。
「……14歳。それが、私が『人類最強』と呼ばれるようになった年齢です」
セイヴァーは遠い昔の、ありふれた思い出話でもするように語りだした。
「あの後、私は止まりませんでした。盗賊だけではありません。人攫いの組織、悪政を敷く領主、街道に出る魔物……人々の平穏を脅かすありとあらゆる『障害』を、私は排除して回りました。来る日も来る日も、斬って、殴って、焼いて、潰して。……私の手は、常に誰かの血で濡れていました」
「……その全ての名前を、覚えているのか?」
私が問うと、彼女は薄く笑い、自身のこめかみを指差した。
「ええ、全員です。最初に殺した盗賊の頭から、最後に殺した魔王軍の雑兵まで。何万、何十万、何百万、何千万という命の名前、顔、家族構成、最期の言葉……全て、この脳内の墓標に記録されています。忘れることなんて許されませんから」
殊勝な心がけに聞こえる。だが、彼女は即座にそれを否定した。
吐き捨てるように、冷ややかな声で。
「……でも、こんなのただの自慰行為ですよね」
聖人の口から飛び出した、あまりにも卑俗で自虐的な言葉。
「名前を覚えているから何だと言うんです? 私が彼らを忘れないことで、彼らが生き返るわけでもない。遺族の涙が止まるわけでもない。ただ、『私は彼らの命を軽んじていない』と、私自身が安心したいだけの、気持ちの悪い自己満足です。罪悪感に浸って、自分は誠実な人間だと思い込みたいだけの、安っぽいポーズに過ぎません」
彼女の瞳の奥が、暗く濁る。
「殺していい命なんて、この世に一つもありませんでした。どんな凶悪犯にも、どんな恐ろしい魔物にも、親がいて、愛する人がいて、生きたいという願いがあった。……私はそれを、『最大多数』という定規で測って、切り捨てただけ。私が殺したのは『悪』ではなく、『数の少ない方の正義』でした」
「……その罪悪感が、君を強くしたのか?」
「はい。皮肉な話ですよね。人を殺せば殺すほど、私は強くなりました。罪悪感で発狂しそうになるたびに、細胞が叫ぶんです。『この死を無駄にするな』と。『これだけの命を奪っておいて、お前ごときが弱いままなんて許されると思うな』と、言わばレベルアップ」
彼女は両手を広げる。その姿は、十字架に張り付けられた罪人のようにも見えた。
「強くなるしかなかった。100人の命を奪ったら、1000人を救える強さを。1000人を殺したら、1万人を救える力を。……そうやって、罪の重さがそのまま筋肉になり、魔力になり、反射神経になりました。限界なんてありません。私の罪に天井がないのと同じです。言わば、RPGのレベルアップですね」
「……死にかけたことは?」
「何度もありますよ。心臓を貫かれたことも、首を跳ね飛ばされたことも、毒でドロドロに溶かされたことも、魂を砕かれた事もあります。……でも、死ねませんでした」
彼女は淡々と言う。生物学的な死すらも、彼女の「執念」の前には無力だったのだと。
「死んで楽になろうとするたびに、殺してきた何十万の亡霊が私を引きずり戻すんです。『まだだ』『逃げるな』『我々を殺して、お前だけ地獄へ逃げる気か』と。……そうすると、理屈も物理法則も無視して、体が勝手に再生する。死因となった攻撃への完全耐性とその攻撃能力を獲得し、以前より遥かに強く、凶悪な暴力装置として蘇る。……私の意思ではありません。あれは『呪い』です」
そして、話題は世界を二分した大戦、「対魔族戦争」へと移る。
人類と魔族。二つの種族による総力戦。
「魔族は……恐ろしい『悪の軍団』なんかじゃありませんでした」
彼女は悲しげに首を横に振る。
「彼らは私たちと同じでした。家族を愛し、歌を歌い、平和を願っていた。ただ、住む場所と食料が足りなかっただけ。彼らもまた、滅びゆく故郷を捨てて、生きるために豊かな土地──人間の領土を求めただけなんです。……正当性は五分と五分。数もほぼ同数。どちらも、生きるために必死な『善』でした」
「……なら、なぜ君は人類側についた? なぜ、魔族を根絶やしにする選択をした?」
私の問いに、彼女は極めて事務的な、氷のような無表情で答えた。
「数です」
「……数?」
「はい。両方の総人口を推計しました。そして比べたんです。……そうしたら、人類の方が、たった百人だけ多かった」
「人類の総数が僅かに多かった。……だから、魔族を殺しました。最大多数の最大幸福。50対50なら悩みますが、51対50なら、迷わず50を切り捨てるのが私の機能ですから」
たった百人。
その誤差レベルの数字のために、彼女は一つの種族を虐殺した。
その判断を下した時の彼女の絶望は、計り知れない。
「……地獄でしたよ。戦場は。殺しても殺しても、向こうからは『家族を守るんだ!』という悲痛な叫びが聞こえてくる。私は泣きながら、謝りながら、生体電流を変化させた雷撃で彼らを炭に変え続けました。……でも、局長さん。信じてもらえますか?」
彼女はふと、夢見るような、恍惚とした表情を浮かべた。
それは、この取り調べの中で最も不気味で、最も純粋な「笑顔」だった。
「あの村が焼けてからの私の人生の中で、一番『幸せ』だった時間のことを」
「……それは、いつだ?」
嫌な予感がした。
勇者と言われた日でも称賛を浴びた日でも無いだろう
「魔王様との戦いです」
彼女は恋人を想う乙女のように語る。
「強かった……。本当に、強かったんです。あの方だけは、理不尽な復活を繰り返す私を、何度も何度も殺してくれた。私の計算を超える速度、私の再生を超える火力、私の心をへし折る覇気……! 全知全能の神のような、圧倒的な暴力でした」
彼女の声が弾む。
「戦っている間だけは、忘れられたんです。罪悪感も、後悔も、背負った命の重さも、全部! ただ必死に、0.00000001秒先の生存を掴み取るために、全神経を研ぎ澄まさなければ即死する。……考える余裕なんてなかった。『ごめんなさい』なんて思う暇もなかった! ただ、殺し合うだけの純粋な獣になれた!」
それは、思考停止による救済。
あまりにも強大な敵を前にして初めて、彼女の脳内を埋め尽くす「亡霊たちの呪詛」がかき消されたのだ。
「嬉しかった。楽しかった。あんなに心が軽かったのは初めてでした。余計なノイズがない。義務もない。ただ目の前の最強を殺すことだけに全てを費やせる。……ああ、あの時間だけが、私の本当の青春でした」
聖人の皮を被った怪物は、頬を紅潮させて言った。
世界を救うための決戦が、彼女にとっては唯一、罪悪感という拷問から解放される「麻薬」のような時間だったのだと。
熱っぽく語られていた「青春」の終わりは、あまりにも唐突で、そして静寂に満ちていたに違いない。
取り調べ室の彼女の表情から、先程までの紅潮が急速に引いていく。
残ったのは、燃え尽きた灰のような、どこまでも虚無的な白い顔だった。
「……でも、終わってしまいました」
セイヴァーは、祈るように両手を組んだまま、ポツリと漏らす。
「私が勝ちました。……勝ってしまったんです。あの方の放った、大陸すら砕くような一撃を浴びて、私の体は一度素粒子レベルまで分解されました。これで終わりだ、やっと死ねると、薄れゆく意識の中で私は歓喜しました。……なのに」
彼女は唇を噛む。血が滲むほど強く。
「『まだだ』と。私の細胞が、魂が、勝手に再構成を始めたんです。あの方の最強の攻撃を『学習』し、『耐性』を獲得し、その攻撃をラーニングして……気がついたら、私の聖剣はあの方の心臓を貫いていました」
最強の魔王ですら、彼女の「死ねない呪い」と「殺す義務」の前には無力だった。
彼女は自分の意思を超えた、自動的な殺戮防衛システムとして、世界最強の存在を屠ってしまったのだ。
「あの方の最期の顔を覚えています。『見事だ』と……満足そうに笑っていました。…満足そうに笑っていました。……ズルいですよね。自分だけ、戦士として全力を出し切って、満足して死んでいくなんて。残された私が、その死体の上でどんな気持ちで立ち尽くすかも知らないで」
彼女は深く息を吐き出す。その吐息すらも、冷たい冬の風のように感じられた。
「その時、理解してしまったんです。……ああ、もうこの世界に、私を殺せるものは何も無いんだと。どんな魔術も、どんな兵器も、どんな運命の強制力でさえも、私のこの汚らわしい生存本能を止めることはできない。私は、『死ぬことすら許されない最強の怪物』になってしまったのだと」
「……それが、君の80及ぶ『地獄』の始まりか」
「はい。魔王がいなくなり、魔族は散り散りになり……世界は平和になりました。私の仕事は終わったはずでした。でも、私の体は『機能』を停止してはくれませんでした」
彼女は自分の体を忌々しげに見下ろす。
「戦いが終わっても、私は眠ることができませんでした。目を閉じれば、殺した人々の顔が浮かぶから? いいえ、違います。物理的に、脳が睡眠を拒否するんです。『寝ている暇があるなら、世界中のどこかで泣いている子供を探せ』と。『お前がのうのうと休んでいる数時間の間に、救える命が失われたらどうするんだ』と。……細胞が私を叩き起こし続けるんです」
睡眠の欠落。それは生物にとって最も根源的な拷問だ。それを彼女は80年間、一日も欠かさず続けてきたと言うのか。
「食事も、喉を通らなくなりました。……何かを食べようとすると、吐き気がするんです。だって、食事とは他の命を殺して取り込む行為でしょう? 植物であれ動物であれ、生きるために殺す。……私はもう、一生分以上の命を奪いました。これ以上、私ごときが生きていくために、新たな命を犠牲にすることは、私の良心回路が……そして肉体そのものが拒絶するんです」
彼女はコップの水を指差す。
「何も食わなくとも、80年寝ずとも私は活動できます。……便利でしょう? 燃費のいい掃除機です。維持費もかかりません。性欲? あるわけがありません。誰かを愛して、快楽を得て、幸せを感じる? ……そんな機能、とっくの昔に自分で焼き切りました。私にあるのは、痛みへの耐性と、敵を殺す技術と、誰かの苦痛を肩代わりする機能だけ」
彼女の語る「平和な生活」の実態。
それは、人間らしい営みを一切削ぎ落とし、ただひたすらに「世界平和」というタスクを処理し続ける、生きたマシンの稼働記録だった。
「私、それから80年間。苦痛を吸い上げるゴミ箱と成りました……休みなく、一秒も止まらず。だって、そうしないと、あの方々に申し訳が立たないから」
「……あの方々?」
「私を生かすために死んでくれた、村のみんなです。次の村の方々です。私が殺した盗賊たちです。私が滅ぼした魔族たちです。……彼ら全員が、私の背後でずっと見ているんです。『おい、休むなよ』『俺たちの命を使っておいて、サボる気か』『もっと働け、もっと救え、もっと幸福を生み出せ』……」
彼女は幻覚を見ているのではない。
彼女自身の強迫観念が、彼女を追い立てる看守となって、片時も離れなかったのだ。
「私は勇者(セイヴァー)と呼ばれ、崇められました。神殿が建ち、肖像画が飾られ、人々は私に祈りを捧げました。……滑稽ですよね。中身は、悪性で腐り落ちそうな、ただの殺人鬼なのに。みんなの笑顔を見るたびに、私は心の中で土下座をしていました。『騙してごめんなさい』『私は貴方たちが思うような綺麗なものじゃありません』って」
彼女の顔に、再びあの時の──老婆の死に顔に通じる、歪な笑みが浮かび上がる。
「だから、死んだ時は本当に嬉しかった。老衰という、誰にも文句を言われない理由で機能停止できることが、何よりの『報酬』でした。……やっと、許されたと思ったのに」
彼女はガタリと椅子を鳴らして、身を乗り出した。
その瞳が、すがるように私を見つめる。
「……いえ、なんでもありません。忘れてください。私はセイヴァー。貴方たちの便利な盾であり、剣であり、回復薬です。それ以上でも以下でもありません」
彼女はスッと背筋を伸ばし、完璧な「聖人の微笑み」を顔面に再装着した。
その早業は、見ていて痛々しいほどに鮮やかだった。
「さあ、お話はこれくらいにしましょう。昔話ばかりしていても、生産性がありませんから。 ああそうだ、どんな過酷な実験でも構いませんよ。体を切り刻んでも、毒を盛っても、私は平気ですから。遠慮なく、データを取ってくださいね」
彼女は明るく言う。
まるで、自分の体がただの実験材料であることを喜ぶかのように。
そこに「自分」という存在への愛着は、欠片も残されていなかった。
日本ダンジョン機構の取り調べ室。
冷ややかな蛍光灯の下、彼女と私の間には、言葉では埋めきれない絶望的な断絶が横たわっていた。
彼女は「実験材料にしてくれ」と笑った。
その笑顔は、かつて彼女を生かすために死んでいった99人の村人への、最大の冒涜であることに彼女自身だけが気づいていないふりをしている。
「……君は、村人たちの願いを踏みにじっているな」
私が静かに、しかし鋭く告げると、彼女の完璧な仮面が一瞬だけピクリと引きつった。
「……踏みにじっている? 私が? まさか。私は彼らの願いを、彼らが託してくれた命を、一秒たりとも無駄にしないために、こうして全てを捧げているんですよ?」
「彼らは何と言って死んでいった? 『世界を救え』か? 『魔王を倒せ』か? 違うだろう。『幸せになってくれ』だ。君が笑顔で生きることを、彼らは望んだはずだ」
彼女は息を呑む。その瞳が揺れる。
痛いところを突かれた、という反応ではない。理解できない言語を聞かされたような、困惑と拒絶の反応だ。
「……幸せ、ですか。ええ、そうです。彼らはそう言いました。でも、局長さん。よく考えてください。99人の命を犠牲にして生き残った人間が、のうのうと美味しいものを食べて、暖かいベッドで寝て、恋をして笑う……そんなこと、許されると思いますか? それが『幸せ』だと言うなら、私はそんなもの、吐き気がして飲み込めません」
「それが彼らの願いだとしてもか?」
「彼らは優しすぎたんです! だから判断を間違えたんです! 価値のない私なんかに投資してしまう人達ですよ! だから私は、その『赤字』を埋め合わせなきゃいけないんです! 私が個人的に幸せになることは、彼らの死を『私一人のための踏み台』にすることです。それは横領です、泥棒です! 彼らの命はもっと公共的な、世界全体のために使われるべきリソースなんです!」
彼女は叫ぶ。
愛を、罪悪感で塗り潰している。
「あなたに生きていてほしい」という純粋な愛を、「お前は生きるに値する成果を出せ」という業務命令に脳内で変換している。
「……普通の神経なら、とっくに発狂して死んでいますよ」
彼女は冷ややかに自嘲する。
「10歳で親を殺され、数十人を虐殺し、数千万人の命を奪った……まともな善人なら、もう首を吊るか、心が壊れて廃人になっています。でも、私は壊れなかった。いいえ、『壊れ方』が違ったんです。悲しみで機能停止するのではなく、悲しみで出力が上がるバグった回路に焼き切れてしまった。……狂うことさえ許されなかったんです」
彼女は自分の胸を強く叩く。
「ここにあるのは心じゃありません。罪悪感を燃料にして回るエンジンです。だから、局長さん。貴方のことも、私は大好きですが……時々、怖くなるんです」
彼女は寂しげな目で私を見る。その視線は、親愛なる隣人を見る目であると同時に、精密機械が部品をスキャンするような冷徹さを含んでいた。
「貴方が『局長』という、世界を安定させるために不可欠な『パーツ』に見えてしまう瞬間があるんです。貴方の優しさも、貴方の【精神共感】も、世界平和という計算式において、非常に係数の高い『数字』に見えてしまう。……もし、貴方を殺せば世界が救われるという状況になったら、私はきっと、泣きながら、迷わず貴方の心臓を貫くでしょう」
「……私の命も、君にとっては計算対象か」
「……ごめんなさい。ごめんなさい。でも、そうしないと、私が殺してきた人たちに顔向けできないんです。貴方一人を特別扱いして、多数を犠牲にすることは……私というシステムが許さない」
「……君は、救った人のことを見ようとしないな」
私は指摘する。
彼女は80年間、数え切れないほどの人々を救ってきたはずだ。その笑顔を、感謝の言葉を、無数に受け取ってきたはずだ。
「救った人? …彼らは大丈夫です。生きていますから。放っておいても聖剣使って苦痛吸い上げていれば勝手に幸せになります。幸せがデフォルトで無ければ理不尽でしょう。私は彼らを普通の状態に戻しただけ」
「私が見ているのは、常に『救えなかったもの』だけです。戦場で私の指の間から零れ落ちた命。間に合わずに焼かれた村。病魔に勝てずに冷たくなった手。……白い紙の上に落ちた、黒いインクの染みだけが、拡大されて私の視界を覆い尽くしているんです」
「その白い紙の余白には、君が救った何億という命があるんだぞ」
「関係ありません!!」
彼女は机を叩く。
「1億人を救おうが、100億人を救おうが、あの日死んだ父と母は帰ってこない! あの日選別された99人は生き返らない! 私が殺した魔族は戻らない! プラスがいくら増えても、マイナスは消えないんです! 私の墓標に書かれた名前は、一人たりとも消えやしないんです!!」
彼女の論理は破綻している。だが、感情においては鉄壁だ。
彼女は「成功」をカウントしない。「失敗」だけを永遠にカウントし続け、その重みで自分を押し潰そうとしている。
「だから……私に『幸せになれ』なんて言わないでください。それは私にとって『過去を忘れろ』と言うのと同じです。『人殺しの罪を忘れろ』と言うのと同じです。……そんなこと、できるわけがない」
彼女はうつむき、震える肩を抱く。
会話は平行線をたどる。
私が「君は人間だ」と言えば、彼女は「私は怪物だ」と返す。
私が「君は十分償った」と言えば、彼女は「まだ足りない」と返す。
私が「幸せになっていい」と言えば、彼女は「それは罪だ」と返す。
無限に続く自虐と指摘の螺旋。
だが、その螺旋の底で、彼女は確かに助けを求めているようにも見えた。
「君は間違っている」と、誰かに完全に論破され、否定され、その歪んだシステムを破壊されることを、心のどこかで待っているかのように。
取り調べ室の向こう側に座る彼女を見つめながら、私は手元の端末に表示された「精神分析結果:測定不能」の文字を消した。
言葉を交わせば交わすほど、彼女という存在の輪郭が浮き彫りになっていく。
彼女を「怪物」と呼ぶのは、あまりにも生温い。
彼女を「英雄」と呼ぶのは、あまりにも悍ましい。
彼女は、「分厚い『救済機構』の皮を被った、泣き叫ぶ子供」だ。
10歳で時を止め、血の海の中で「みんなと一緒に死にたかった」と慟哭する幼い少女が、世界最強の暴力と再生能力を持つ肉体という「パワードスーツ」の中に閉じ込められている。
そのスーツは自動的に敵を殲滅し、自動的に痛みを吸い上げ、少女の意思を無視して「聖人」としての振る舞いを強制する。
彼女自身が言う「私はシステム」「私は機構」という言葉は、比喩ではなく、彼女が自身の精神を守るために作り出した唯一の防壁なのだろう。
だが、そんな壊れ果てた彼女の中に、たった一つだけ。
システムのエラーでも、罪悪感の産物でもない、あまりにも「人間らしい」感情が残っていた。
「……セイヴァー。君の話を聞いていて、一つだけ分かったことがある」
私が静かに切り出すと、彼女はいつもの穏やかな微笑みで小首をかしげた。
「何でしょう? 私がどれだけ救いようのないポンコツか、ということでしょうか?」
「違う。君が、自分自身の次に憎んでいるものの正体だ」
彼女の微笑みが、ふと止まる。
「君は、自分を憎んでいる。生き残った自分を、殺し続ける自分を。……だが、君はそれと同じくらい、いや、それ以上に……『この世界のシステム』そのものを憎んでいるんじゃないか?」
その指摘が核心を突いたのか、彼女の瞳から聖人の色が抜け落ち、冷たく、鋭い光が宿った。
それは、獲物を前にした獣の目ではなく、理不尽なルールを押し付ける教師を睨みつける反抗的な子供の目だった。
「……ご名答です。流石は局長さんですね」
彼女は低い声で肯定した。
その声には、今まで隠していた煮えたぎるような怒りが混じっていた。
「ええ、憎いです。大嫌いです。反吐が出ます。この世界を構成する、あらゆる物理法則と摂理が」
彼女は机を指先で強く叩く。
「まず、『食事』というシステムです。なぜ、生命は他の生命を奪わなければ維持できないように作られているんですか? 私は何も食べたくない。水と光だけで生きていたい。なのに、私の細胞は栄養を求め、そのために何かを殺せと命令する。……ただ生きているだけで、他者を害することを強制するこの肉体の構造が、私は許せない」
彼女の拒食の根源。それは単なるダイエットや自罰ではない。「生存=殺害」というこの世の基本ルールへの生理的な拒絶だ。
「次に、『リソースの欠如』です。……私の村がなぜあんなことになったか。特効薬が一本しかなかったからです。なぜ一本しかなかった? 作るのにコストがかかるからです。材料が希少だからです。……おかしいでしょう? 全員が助かりたいと願っているのに、世界には全員を助けるだけの物質が存在しない!」
彼女は声を荒らげる。
「魔族との戦争もそうです! 土地が足りない、食料が足りない、だから奪い合う! どちらも悪くない、ただ『足りない』という物理的な欠陥のせいで、善人同士が殺し合わなきゃいけない! もし、空から無限にパンが降ってくる世界なら、もし、病気が祈りだけで治る世界なら、誰も誰かを殺さずに済んだのに!」
彼女の怒りは、特定の個人や国に向けられたものではない。
「100人の村人を救うのに、100人分の薬がない」という、宇宙の残酷な真理そのものに向けられている。
「『最大多数の最大幸福』なんて計算をしなきゃいけないのは、幸福の総量が決まっているからです。誰かが笑えば、どこかで誰かが泣く。そんなシーソーゲームのような構造……欠陥品ですよ、この世界は」
彼女は吐き捨てるように言った。
そして、彼女は虚空を睨みつける。その視線の先には、この世界を創造した神、あるいは運命を司る何者かがいるかのように。
「もし……もしも、この世界を作った奴がいるなら。神様とか、創造主とか呼ばれる奴が、私の目の前に現れたとしたら……」
「……君は、どうする?」
祈るのか? 許しを請うのか? それとも、死なせてくれと懇願するのか?
私の予想は、全て外れた。
彼女は、極めて凶暴で、極めて人間臭い、とびきりの怒りを浮かべた。
それは聖人の慈愛でも、老婆の狂気でもない。
清々しいほどの敵意と憤怒。
「膝蹴りを、顔面に叩き込んでやります」
「……え?」
「一発じゃ足りませんね。胸ぐらを掴んで、髪の毛を引きずり回して、鼻が折れるまで殴ります。全力で。人類最強の暴力の全てを込めて、物理的にボコボコにしてやりますよ」
彼女は拳を握りしめ、歯を剥き出して、そして本気で語る。
「『ふざけるな!』って。『テメエの設計ミスのせいで、どれだけの生物が泣いたと思ってるんだ!』って。『もっとマシな世界を作れなかったのか、この■■■■!』って、罵声を浴びせながら鳩尾に膝を入れてやるんです。……ああ、想像しただけで少しスッキリしました」
彼女はふう、と息を吐く。
そこには「聖女」の面影はなかった。
ただ、理不尽な校則にキレる不良のような、あるいは理不尽な上司に殺意を抱く部下のような、等身大の「怒り」があった。
「平和な社会、美しい世界……結構なことです。でも、その根底にあるシステムが腐っている限り、私はこの世界を愛せません。私は世界を守っていますが、それは世界が好きだからじゃない。そこに住む、システムに翻弄される『被害者』たちが愛おしいからです。……世界そのものは、今すぐにでも破壊して作り直してやりたいくらい、大っ嫌いです」
彼女は私を見て、少しバツが悪そうに舌を出した。
「……なんて。聖女にあるまじき発言でしたね。忘れてください。私は全てを愛し、全てを許す救世主ですから。神様への暴力なんて、考えるだけでも不敬です」
そう言って彼女はまた仮面を被る。
だが、私は見た。
その仮面の下で、彼女がファイティングポーズを取り続けているのを。
彼女は絶望しているだけではない。
「いつか神を引きずり下ろして、一発殴ってやる」という、とてつもなく不遜で、バイタリティに溢れた野望を、心の最深部に隠し持っている。
それは、彼女が「機械」ではなく、血の通った「人間」であることの、何よりの証明のように私には思えた。
彼女の動力源は罪悪感だけではない。
このクソったれな世界の理不尽に対する、純粋な「怒り」もまた、彼女を突き動かすエネルギーなのだ。
取り調べ室の空気は、もはや尋問のそれではなく、共犯者同士の密談のような熱を帯びていた。
「神への膝蹴り」。
その突飛で不敬な単語が、部屋の中に残響として漂っている。
私は目の前のセイヴァーを見る。
彼女は「忘れてください」と言って口元を隠したが、その瞳の奥で燃え盛る炎は隠しきれていない。
それは、彼女が80年間、聖人として振る舞いながら、心の奥底でずっと温め続けてきた、唯一の「自分自身の願望」。
誰かのためではない。最大多数のためでもない。
ただ、彼女自身の気が済むまで暴れたいという、純粋で人間的な衝動。
「……忘れる必要はない」
私が告げると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「続けてくれ。膝蹴りの次は、どうするんだ?」
その問いは、彼女の心のダムの最後の水門を開く鍵となった。
彼女は周囲を見渡し、監視カメラの存在すらも意識の外へ追いやると、身を乗り出して、まるで悪戯を計画する子供のような、あるいは革命を企てるテロリストのような、獰猛で輝かしい笑顔を見せた。
「……聞きたいですか? 局長さん、貴方も性格が悪いですねぇ。聖女の皮が剥がれる音を楽しもうなんて」
彼女はクスクスと笑う。だが、その笑みはすぐに、底冷えするようなドス黒い歓喜へと変わる。
「膝蹴りは、あくまで挨拶です。鳩尾に深く突き刺して、偉そうな創造主様が『ぐえっ』とか情けない声を上げて、地面に膝をつくところを見下ろすんです。……でも、それだけじゃ足りません」
彼女は自分の長い金髪を指先で弄りながら、うっとりと語る。
「髪の毛です。神様ですから、きっと綺麗でサラサラな長い髪をしているんでしょうね。……そこを、こう、根元からガシッと掴むんです。鷲掴みです。優雅さなんて欠片もない、路地裏の喧嘩みたいに」
彼女の手が空中で何かを強く握りしめる形を作る。ギリギリと音がしそうなほど強く。
「そして、そのまま引きずり回してやります。全知全能の頭を、泥水の中に叩きつけてやるんです。『痛いか?』って。『理不尽か?』って。『訳が分からないまま暴力を振るわれる気分はどうだ?』って、耳元で囁いてやるんです。……聖剣なんて使いませんよ。あんな高尚なもので斬ったら、一瞬で終わってしまうし、カッコいい死に様になってしまうでしょう?」
彼女の瞳孔が開く。
そこにあるのは、英雄としての正義ではない。
被害者としての、極めて個人的な復讐心。
「拳です。骨と皮と肉の塊で、殴るんです。相手の鼻がひしゃげて、歯が折れて、見苦しく命乞いをするまで。……私がこの拳で砕いてきた悪党たちと同じように、彼らもまた痛みを感じる存在なんだと、その体に教え込んでやるんです。……あはは、最高だと思いませんか? 完璧な世界システムを作った気になっている奴が、顔面を腫らして泣きわめく姿は!」
彼女は笑う。
取り調べ室に、鈴を転がすような、けれど内容はこの上なく野蛮な笑い声が響く。
それは彼女が日本に来てから見せた、どの「聖人の微笑み」よりも、遥かに生き生きとしていて、遥かに美しかった。
ひとしきり笑った後、彼女はふぅーっと息を吐き、少し気まずそうに私を見た。
「……なんて。流石に引きましたか? やっぱり私、壊れてますよね。世界を守る勇者が、世界の創造主への暴行計画を立てて喜んでるなんて」
彼女は自嘲気味に肩をすくめる。
「機構」に戻ろうとする彼女。
だが、私はそれを許さなかった。
「……いいや。素晴らしい計画だ」
私は真顔で頷いた。
「……はい?」
「私も手伝おう。もし、そのクソったれな神とやらが実在して、私の前に姿を現す時が来たら……私が羽交い締めしてその動きを封じる。君が殴りやすいように、押さえつけておいてやる」
セイヴァーはポカンと口を開けた。
予想外の反応に、処理が追いついていないようだ。
「き、局長さん……? 何を言って……貴方は、秩序を守る側の人間でしょう? そんな、神様への反逆なんて……」
「秩序を守るために、元凶を叩くのは当然の業務だ」
私は彼女の目を見据える。
「君が言った通りだ。この世界のシステムは欠陥だらけだ。リソース不足、強制的な殺し合い、理不尽な死、そして君のような犠牲者が生まれる構造。……そんなものを作った責任者がいるなら、クレームを入れるのは当然の権利だ。膝蹴りだろうが、顔面パンチだろうが、気が済むまでやればいい」
「……っ、ふふ、あはは! クレーム対応が物理攻撃ですか! 日本ダンジョン機構の局長さんは過激ですね!」
「ただし」
私は人差し指を立てた。
「ただ殴ってスッキリして終わり、じゃダメだ。それではただの暴力だ。……やるからには、徹底的に『修正』させろ」
「修正……?」
「ああ。その胸ぐらを掴んで、殴りながら、要求を通すんだ。……『ふざけたシステムを今すぐ直せ』と」
私は、彼女が最も欲している言葉を、明確な「指示」として告げた。
「殴って、殴って、殴って……そいつが『参った、何でもする』と言ったら、こう言え。
『じゃあ、今すぐ村のみんなを生き返らせろ』と」
セイヴァーの動きが、完全に停止した。
時が止まったかのように、彼女は瞬きすら忘れて私を見つめる。
「君の父も、母も、君を選んで死んでいった99人の村人も。次の村の村人も……ついでに、君が殺した盗賊も、その家族も、戦争で死んだ魔族もだ。全員リストアップしておけ。君の脳内の墓標には、全員の名前が書いてあるんだろう?」
私は続ける。
これは慰めではない。彼女の「最強の暴力」に対する、正当な使用許可だ。
「『命の価値は平等だ』とか『死んだ者は帰らない』とか、そんな神様の作ったクソみたいなルールなんぞ、暴力でねじ伏せて書き換えさせろ。君はそれができるだけの理不尽な力を、その身に宿しているはずだ。……そいつが泣いて謝るまで殴り続けて、この世界のバグを全部直させて、死んだ全員を叩き起こして、君の前に整列させろ」
彼女の瞳が揺れる。
涙が溜まっているのではない。
あまりにも巨大な、そしてあまりにも荒唐無稽な「希望」という名の劇薬をぶち込まれて、魂が震えているのだ。
「そして、生き返った彼らに言ってやるんだ。『文句あるか!』ってな。……それが、君のこれからの目標だ。セイヴァー」
静寂。
空調の音すら消え失せたかのような静寂の後。
彼女は、ゆっくりと口元を両手で覆った。
肩が震えている。
嗚咽か。それとも。
「……あはっ」
漏れ出したのは、笑い声だった。
今までの、聖人の微笑みでも、自嘲の笑いでも、狂人の高笑いでもない。
年相応の、20の女性が、バカバカしい冗談を聞いて腹の底から笑うような、混じりっ気のない笑い声。
「あはははははは! あはははははははははは!!」
彼女は涙を拭いながら、机をバンバンと叩いて笑った。
「ひどい! ひどいですよ局長さん! 無茶苦茶だ! 神様をカツアゲして、死者蘇生を強要しろだなんて! 魔王様だってそんなこと考えつきませんよ! あーあ、お腹痛い……! 最高に、最っ高にクレイジーな作戦です!」
彼女はひとしきり笑うと、涙で濡れた目で私を見上げた。
その表情には、もう「死にたい」という陰鬱な影はない。
あるのは、「やってやる」という、吹っ切れた悪ガキの顔だ。
「いいでしょう。乗りました、その作戦。……いつか、本当にその時が来たら、手加減なんてしませんからね? 貴方も共犯なんですから、私が神様をタコ殴りにしている横で、ちゃんと『蘇生リスト』を読み上げてくださいよ?」
「ああ、任せておけ。喉が枯れるまで読み上げてやる」
「ふふ……約束ですよ? 破ったら、神様のついでに貴方にも膝蹴りしますから」
彼女はニカっと笑った。
それは「勇者」の顔だった。
悲劇のヒロインでも、自己犠牲の聖女でもない。
理不尽な運命と、クソみたいな世界システムに中指を立てて、力ずくでハッピーエンドをもぎ取りに行こうとする、最強で最悪の「勇者」の顔だった。
取り調べ室に響いていた高らかな笑い声が、さざ波のように静まっていく。
しかし、そのあとに残った静寂は、以前のような鉛色の重苦しさではなかった。
それは、共犯者たちが悪巧みを終えた後の、奇妙な連帯感と清々しさに満ちた静けさだった。
セイヴァーは目尻に浮かんだ涙を指先で拭い、大きく、深く深呼吸をした。
その一呼吸で、彼女の纏う空気が変わる。
等身大の「20歳の女性」から、再び日本ダンジョン機構の頼れる「セイヴァー」へ。
しかし、その仮面の下にあるのは、もはや悲壮な決意だけではない。
「いつか神を殴りに行く」という、とびきり馬鹿らしくて、とびきり痛快な約束が、彼女の芯を支える新たな柱となっていた。
「……ふぅ。あーあ、笑いすぎてお腹が空いちゃいました。……あ、いえ、お腹は空いてないですけど。気持ちが軽くなりました」
彼女は照れくさそうに髪を整える。
周知の事実ではあるが、彼女はこの世界の住人ではない。
異世界から喚ばれた「救世主」。
その華奢な体には、この世界の常識を逸脱した戦闘力が秘められているが、探索者や職員たちの間での彼女の認識は、少し異なる。
『究極のヒーラー』。
それが彼女の通り名だ。
広範囲の鎮痛、即時の創傷治癒、精神的なパニックの鎮静。
聖剣『エクスカリバー』からもたらされるその恩恵があまりにも絶大すぎて、彼女の「暴力装置」としての側面は霞んでしまっている。
誰も知らないのだ。その癒やしが、魔法のような奇跡などではなく、彼女自身が他者の地獄を「肩代わり」して飲み込む、自傷行為にも等しい呪いであることを。
……私を除いて。
私は彼女の手首から、形式的な拘束具を外した。
カチャリ、という金属音が、今日のセッションの終わりを告げる。
「……行くか。みんなが待っている、あなたもどうだ」
「はい! 円さん、待ちくたびれてきれてないといいんですけど。礼二さんも、鎖織さんも、きっとあなたの遅刻を心配してくれているはずですから」
彼女は立ち上がり、スカートのシワを丁寧に伸ばす。
そして、扉に向かう前にもう一度、私の方を振り向いた。
その表情は、完璧な聖人の微笑み。
だが、その瞳だけが、悪戯っぽく輝いている。
「局長さん。先ほどの『作戦』のことは、ここだけの秘密ですよ? もし礼二さんたちにバレたら、『僕も殴る!』って大騒ぎになって、神様がかわいそうなことになっちゃいますから」
「ああ、分かっている。これは私と君だけの極秘ミッションだ」
「それと……私の『能力』のことも。外では今まで通り、『便利な回復能力』として扱ってくださいね。誰も心配させたくないんです。……それに、私にはもう、貴方という『共犯者』がいてくれますから。痛くて泣きそうな時は、こっそり貴方に愚痴りに来ます。それで十分です」
彼女はそう言って、人差し指を口元に当ててウインクした。
一人で抱え込んでいた地獄を、少しだけ私に預けてくれた証。
「痛くない」と嘘をつくのではなく、「痛い時は愚痴る」と言ってくれた。
それだけの変化が、何よりも大きな救いだった。
私は扉のロックを解除する。
重い鉄扉が開き、廊下の明るい光と、賑やかな雑音が流れ込んでくる。
そこは、彼女が守り、彼女が愛し、そして彼女を縛り付ける「世界」だ。
だが、今の彼女の足取りは軽い。
廊下に出ると、遠くから礼二の笑い声と、円のツッコミ、そしてそれを諌める鎖織の声が聞こえてくる。
「ふふ、聞こえますか? 平和な音ですね」
彼女は眩しそうに目を細める。
「かつては、この平穏が怖かったんです。私だけが幸せでいいのかって、罪悪感で押し潰されそうでした。……でも、今は違います。これは『前祝い』ですから」
「前祝い?」
「はい。いつか、あのクソったれな神様をボコボコにして、みんなを生き返らせて、本当のハッピーエンドを迎えるための……長くて壮大な『喜劇』の第一幕です。悲劇はもう、十分味わいましたから」
彼女は振り返り、満面の笑みで私に手を差し伸べた。
その笑顔は、かつて幻視した「枯れ木の老婆の歓喜」を完全に上書きする、若々しく、力強い「生」の輝きに満ちていた。
「さあ、行きましょう局長さん! まずはカラオケで予行演習です! 神のボケカスへの文句をシャウトする練習に付き合ってくださいね!」
私はその手を取り、強く握り返した。
「ああ。喉が潰れるまで付き合おう」
私たちは歩き出す。
背後で閉じた取り調べ室の扉の向こうに、重苦しい過去と罪悪感を置き去りにして。
この理不尽で残酷な世界システムに、いつか特大の膝蹴りを食らわせるその日まで。
勇者と局長の、秘密の共闘関係(共犯)が、今ここから始まったのだ。
(取り調べ記録・終了)
(対象:セイヴァー 状態:良好……および、極めて意欲的)
現代日本に来た勇者が、あまりにも「壊れて」いた件 ちんこ良い肉(ジンベエザメ) @tinko1129
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