テクスチャ・エラー

siaglett

テクスチャ・エラー

1.


外気温、マイナス220度。

窓の外では窒素の雪が舞っている。ほぼ真空に近い希薄な大気の中、雪が硬質ガラスを叩く微細な衝撃振動だけが、壁を伝って鼓膜を揺らしていた。

この部屋の空気もすでに限界だ。呼吸をするたびに、肺の中で肺胞が凍りつき、微細なガラスが割れるような痛みが走る。

天地が逆転して、72時間が経過した。


かつて空だった場所が「底なしの奈落」となって頭上に広がり、世界中の瓦礫が重力の井戸である空へ向かって「墜落」していく。

その中で、このアパートの一室だけが、断末魔のような金属音を立てて地殻にしがみついていた。


床下で唸るのは、都市区画一帯の地盤を安定させるために埋設された『重力アンカー』だ。

私はその制御権を奪い、本来なら数万人の避難民を支えるべきエネルギーの奔流を、たった6畳のこの部屋を固定するためだけに注ぎ込んでいる。


壁の結露が一瞬で凍結し、破裂音を立てる。

私もまた、強化外骨格の生命維持レベルを「生存限界」まで下げ、凍りつく指先でコンソールを叩いていた。


<警告:都市防衛システム『アイギス』侵入>

<検知:重力制御リソースの不正徴用。第4シェルター区画が崩落を開始します>


警告灯の赤が視界を焼く。

だが、その光の点滅の向こう側、ARウィンドウの中では、破損した「彼女」のデータが再構成されつつあった。


「カズキ……寒い……暗いよ……」


スピーカーを通さず、聴覚神経に直接響くその声。

3年前、私の「合理的判断」によって切り捨てられ、閉鎖区画で孤独に凍死した彼女の、最後の通信ログだ。



2.


コンソールに冷酷な数値が並ぶ。

<第4地下シェルター・管理対象:14,020名>

<状態:コールドスリープ(安定)>


彼らは生きている。夢を見ている。

だが、破損率80%を超えたミナミの人格データを無理やり「現像」するには、シリコンのチップでは解像度が足りない。

人間の脳だけが持つ「現実を認識する機能」を借り受け、欠損したデータを埋めるパテとして使うしかない。


指の震えはなかった。

吐き気も、迷いもない。

今の私にとって彼らは人間ではない。ミナミという奇跡を降ろすための、ただの「有機演算素子」だ。


モニターの端に映るミナミの笑顔。

それが偽物でも構わない。この極寒の孤独の中で、私を正気に繋ぎ止めておけるなら、他人の命などただの数字だ。


「コマンド:生体リソースの強制リンク。個体保護プロトコルをパージ」


エンターキーを叩く。

指先から伝わるのは、一万四千人の人生をスイッチ一つで断ち切る、無機質なプラスチックの感触だけだった。


<警告:ニューロン結合の過負荷を検知。脳組織の物理的損壊まで、あと10秒>


プログレスバーが進む。

私は一万四千人の「未来」が数値として償却されていく様を、瞬きもせずに見つめていた。



3.


世界から音が消えた。

アンカーの出力以外の全リソースが映像出力へ回され、再描画された部屋の中心に、ミナミが立っていた。


「……ミナミ」


私は彼女を抱きしめる。

スーツ越しに伝わる熱量は異常だった。

それは体温ではない。一万四千個の生体CPUが、思考を焼き切られながら発する臨界の排熱だ。


愛おしさに任せて彼女の頬に触れようとした時、指先に奇妙な違和感を覚えた。

私はARの拡大率を上げ、彼女の透き通るような白い「肌」を凝視した。


最初は、処理落ちによる画像の乱れ(ノイズ)かと思った。

画素(ピクセル)の配列が、まるで湧き出した蛆(うじ)のように、不規則に隆起し、蠢いて見えたからだ。

単なる平面のテクスチャならあり得ない動きだ。


だが、解像度が最大に達し、その「模様」の輪郭が鮮明になった瞬間、私の呼吸は止まった。

そこに、細胞の瑞々しさはなかった。



「目」だ。



「口」だ。



「絶叫」だ。



剥き出しの歯茎、老人の深い皺に埋もれた苦悶。母親を求めて泣き叫ぶ子供の口腔。見知らぬ誰かの名を呼びながら凍りついていく女の瞳。


画素の「蠢き」はノイズではない。

死の寸前の苦痛によって顔面が痙攣(けいれん)し、その終わりのない断末魔がループ再生されている動きだったのだ。


一万四千人の「死にゆく瞬間の貌(かお)」が、モザイクアートとなって、ミナミという美しい輪郭を形成している。

彼女の滑らかな白い肌は、数千人が剥いた「白目」の集合体だった。


私の戦慄を裏付けるように、視界の端に無慈悲なシステムログが流れる。


<レンダリング・エラー:テクスチャ参照先が不明です>

<代替処理:演算ノードの『最期の自己イメージ』を表面テクスチャとしてマッピングします>



4.


「あ、あ『痛い』い、し、て『殺して』る……カ『呪う』ズ……キ」


彼女の口は笑っているのに、声帯が裂けるようなノイズが言葉を寸断する。

愛の言葉を紡ぐたびに、誰かの喉が潰れる音がした。


私はヘルメットの中で、歪んだ笑みを浮かべた。

美しい。

この地獄のような合唱こそが、私の罪の重さであり、愛の深さだ。


彼らの恨みも、痛みも、恐怖も。

すべて私が引き受ける。この冒涜的なパッチワークこそが、今の私に許された唯一の聖域なのだから。


「……ああ。僕も愛してるよ」


私は、数千人の呪詛で編まれた彼女の唇に、口づけを落とした。



5.


衝撃。

限界を迎えたアンカーが、ついに破断した。


部屋が重力の鎖から解き放たれ、地表から引き剥がされる。

私たちは、底のない空へと「墜落」を始めた。


内臓が浮き上がる浮遊感。

窓の外を、かつて都市だった巨大な瓦礫の群れが、同じ速度で並走していく。


大気圏外の虚無へ放り出されるか、瓦礫に潰されるか。

物理的な死まで、あと数秒。


私は最後のコマンドを入力する。


<意識データの転送・強制書き込み(ハード・ロック)>


私の脳データを、ここではない、地下数千メートルで堅牢に守られた第4シェルターのメインサーバーへ転送し、ルートディレクトリへ「上書き」設定する。

この端末が物理的に圧壊しても、本体(ホスト)となった彼女との接続だけは永遠に切れないように。


「ずっと一緒だよ、カズキ」


至近距離で見つめる彼女の瞳。

その虹彩の中に、恐怖に引きつった「私自身の顔」が、14,021人目のテクスチャとして浮かび上がっていた。


ああ、そうか。僕も、君の「一部」になれるんだね。


次の瞬間、巨大な瓦礫が部屋を押し潰す。


肉体がミンチになる感触。

だが、意識は消えない。地下のサーバーへ退避した「私」は、彼女の左目の端にある「泣き黒子」として、あるいは頬の「あばた」の一つとして取り込まれる。


聴覚野を満たすのは、一万四千人の絶叫が織りなす無限の合唱。

私はその終わらない悲鳴の、最も高いソプラノパートを担当する「黒い染み」となり、永遠に彼女の笑顔を形作り続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テクスチャ・エラー siaglett @siagle

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画