夕焼け ——それでも手を離せなかった
のら犬ユイユイ
第1話
小鳥遊リョウ 二十二歳
その日俺、小鳥遊リョウは運命を恨んだ。
人間という生物の最高傑作を、突然目の前に差し出された子供のように、戸惑った。
「どう?似合う?」
純白のドレスに身を包んだその女性は、俺に尋ねる。
「…似合ってる、よ」
「リョウくん、ありがとう。照れるな」
この女性は来月末、俺の兄貴と結婚する予定の、矢萩悠。
兄貴の仕事が抜け出せなくなり、代役に立たされた俺は、目のやり場に困る。
「写真、撮ってもらってもいい?ショウにも見せたいから」
「うん」
すごく、似合ってる。
心の声が漏れそうで困る。
ドレスの輝き以上に、悠が輝いて見えた。
でもその輝きは、俺の為でも俺のせいでもない。全ては兄貴のものだ。
「わ!リョウくん、写真撮るの上手〜専属カメラマンみたい」
「これくらいならいつでも撮りますよ」
「ありがとう。式の当日も楽しみだなぁ」
何気ない一言が胸に刺さる。
俺は、楽しみになんかしてない。
小鳥遊リョウ 十三歳
悠と出逢ったのは中学校の入学式。気付いたら目で追っていた。
同じクラスの隣の列に悠はいた。
セーラー服に身を包み、凛と立っている。前髪は短めに眉毛が出ている。
意志の強そうな鼻筋に、希望を写したその瞳に目を奪われた。
良いな、と思いながら話しかける勇気はなかった。
その選択が、俺の一番の後悔かもしれない。
「小鳥遊くん、リョウくんって呼んでもいい?」
悠からそう話しかけて来た時、俺は少し嫌な予感がしたんだ。
「別に良いけど」
「ショウ先輩って、リョウくんのお兄さんってほんと?」
ほら、来た。紅潮した頬が、その内容を物語っている。
「ほんとだけど」
小鳥遊ショウは、俺より二つ年上の兄貴だ。同じ中学に通っていて、今三年生。学校随一のイケメンと名高く、その人気は教室前に人だかりができるほどだ。
「良いなぁ。あんなかっこいいお兄さん、自慢でしょ?」
「…別に」
「ねね、今彼女いるか知ってる?」
なんでもないことのように聞きたかったのだろう。声は平静を装えていたが、その表情では大失敗だ。
顔を赤くして、そんな質問をしてくる、俺の好きな人。
失恋には不似合いな、騒がしい教室の雑踏。
「確か、今はいなかったかな」
「かな?」
悠はぐいと一歩俺に近づく。ふわりとシャンプーの甘い匂いがしてきた。
「曖昧な感じ?」
「別れたとかなんとか言ってたような」
「もう!ハッキリしてよ」
悠は膨れっ面になり、俺を軽く殴る。怒っても可愛いなんて、ずるいな、と俺は思った。
「殴るなよ。そんなに気になるなら、自分で聞けば?」
「…そ、それができないからリョウくんに聴いてるんじゃん。わたしなんか、ショウ先輩に話しかけるすべもないよ」
「わたしなんか、ねぇ。そんなに卑下することねーのに」
悠はキョトンとした。
「髭?」
そして、唇の上に手をやる。卑下、が分からなかったらしい。
「髭じゃねーよ、卑下。自分を低く見積もること」
「リョウくんて、不思議な言葉知ってるのね」
「日本語だけどな」
ポカリ、と殴られる。
「それぐらいわかってるもん」
弾ける悠の笑顔が眩しい。その瞳に今映るのは俺だけだ、そう思うと少し自尊心がおさまった。
二日後。
悠は身も世もなく泣きじゃくっていた。
ショウに呆気なく振られて、泣いているのだ。
「だからやめとけって言っただろ?」
「でも早くしないと、次の彼女が出来ちゃうじゃん」
「それは知らんけど」
ショウはとてもモテるが、かと言って心がないわけじゃない。交流のない下級生が告白しても、成功する可能性は低いと、俺は悠に忠告していた。
でも女子たちの間で小鳥遊ショウの彼女枠争奪戦は激化し、それに急かされてしまったのだ。
「まだ、諦めないもん」
泣きじゃくりながら、悠は言う。
諦めてくれたら良いのに、と俺は思う。
「ショウ先輩、カッコよかったなぁ。すごく緊張しちゃった、わたし」
「あ、そ」
ポカリ、脇腹を殴られる。
「冷たい〜」
「…すまん」
見てられなくて、視線を逸らしながら、ハンカチだけ手渡す。
「…ありがと」
そして悠はまだどこか痛そうな表情のまま、優しく微笑んだ。
「リョウくん、優しいね」
「別に」
「リョウくんみたいな人、好きになれたら幸せになれるのかな…」
そして俺にとって残酷な呟きを残して、悠は黙りこくった。
小鳥遊リョウ 二十二歳
「リョウ、リョウ。聞いてる?」
「聞いてるよ、なに?」
俺は暫し意識を中断してたらしい。腕の中で裸で丸まる彼女の笹木純は、膨れっ面だ。
「やっぱり、聞いてないじゃん」
「ごめん。ちょっと、疲れてて」
社会人になって働き出した俺と、まだ大学二年生の彼女。
学生同士だった頃のようには、なかなか時間が取れず、今日は二週間ぶりに純の部屋に遊びに来た。
「お腹空かない?疲れてるなら、なんか作ろうか?」
純といると、ホッとする。俺みたいな人間でも満たされて良いんだ、と錯覚する。
ベッドを降りようとする純のか細い腕を掴んで、抱き寄せる。
「なに、なに、どした?」
戸惑いながらも嬉しそうな純に、甘いキスをする。
「なんでもない」
「なんでもないってキスじゃなかったな」
純はくすくす笑って、今度こそベッドを出て下着を身につける。
「パスタでいい?」
「うん、ありがとう」
俺は腕組みして、またぼうっとする。ぼうっとするとつい、昼間の悠のドレス姿が浮かぶ。
何着も試着してたけど、俺にはどれも同じに見えた。
悠の輝きを助長するだけの装置みたいだった。
小鳥遊リョウ 十五歳
その日は不意にやって来た。
「リョウくん!リョウくん!」
俺を手招きする悠の横には、自転車を押したショウが立っていた。
ショウは当然、高校生になっていた。自転車で通うそこは、俺たちの通う中学の先にある。
「わたしたち、付き合うことになりましたっ」
苦節二年。想い続けて実った恋。悠はとても晴れやかで、可愛かった。
「へぇ、おめでとう」
ポカリ、脇腹をまた殴られる。
「反応薄い〜」
他になんて言葉をかけたら良いのか、俺は分からなかった。
「兄貴、気をつけろよ。すぐ殴ってくるから」
「やめてよ、ショウ先輩にそんなことしないよ」
「怒らせないように気をつけるよ」
ショウは焦る悠を見てくすくす笑った。弟の俺が言うのも変だけど、爽やかで完璧だった。
次の日。
学校に向かう途中で悠と一緒になった。
道中、ショウの話ばかりしていた。
悠の恋物語の中に、俺はいつでも居ない。その認識が俺を傷めつけてくる。
「そうだ、噂で聞いたよ〜三組の楓ちゃんを振ったって」
悠とはクラスが別れた。悠が自分のクラスの教室に入る直前、そう言って来た。
「リョウくんに、お似合いなのに。勿体無い」
他に好きな人がいるんだよ、とは勿論言わない。
「少しは、振られる側の気持ちも考えろよなっ!じゃあまたね〜」
脇腹を一際強く殴って、言いたいだけ言って悠は去ってゆく。
振られることすらできないまま、終わってゆく恋を抱えた俺を残して。
小鳥遊リョウ 十六歳
「付き合ってくださいっ」
俺の前には、ショートカットがよく似合う、溌剌とした印象の女の子が立っていた。
高校進学後、同じクラスになった女子で、雰囲気が少し悠に似ていた。名前は海老原涼子。
「ごめん。俺、海老原とは付き合えない」
「ど、どうして?好きな人、いるの?」
涼子は諦めなかった。顔を真っ赤にしたまま、俺に食い下がってくる。
「そうじゃないけど…」
俺は気圧された。
「じゃあ、騙されたと思って付き合ってみない?」
「騙されたって何に」
「勿論、わたしに」
涼子は俺の手を握った。縋るように。秋口の冷えた風に撫でられて、そこが熱を帯びているのがわかった。
「ね、お願い…」
そして不意にキスされた。その瞬間、悠の泣き声がフラッシュバックした。
「ショウ先輩ってば、まだキスもしてくれないの…」
あれは半年前だ。ショウと悠が付き合ってから五ヶ月目のことだった。
「ねぇリョウくん、わたしってそんなに魅力ない?」
なんて残酷な問いだろう、と俺は思った。
自制心を総動員して、その魅力にやられまくっている片鱗を見せないよう注意する。
「ショウにとって?それは本人に聞けよな」
「ショウ先輩って、意外と奥手なのかな?」
「さぁね」
「もう!相変わらず役に立たないんだから」
ポカポカと、腕を殴られるままにして、俺は木偶の坊みたいに突っ立っていた。
相変わらずなのは、悠の方だ。
俺の心の乱し方を、誰より心得てる。
「キスがしたいならそう言えばいいんじゃねーの?」
俺の言葉に、悠は殴る手に力を込めた。
「…そんなの恥ずかしくて言えないよ。欲求不満みたいじゃない」
なんで俺には言えるんだよ、とは言い返せなかった。
「俺には分からんけど、大事にされてるってことじゃねーの?」
「……魅力がないのよ、わたし、きっと。」
悠の目に涙が光った。俺はまた見ていられなくて、目を逸らしながらハンカチを差し出す。
デジャブだな、と思った。
「そーゆー事よね?わたし、振られちゃうのかな」
「どーゆー事だっての」
「わたしなんて大した美人でもないし、愛嬌も色気もないし…平々凡々な人間でしょ?不釣り合いなのよ、ショウ先輩とは」
「それ、俺じゃなくて兄貴と直接話したらどう?」
ポカリ、脇腹に重い一撃を喰らう。
「もう、それが出来たら困ってないよ」
じゃあ俺にどうしろと、とは口に出せなかった。
「兄貴に話してみるよ、キスのこと」
「ほんと?!」
悠は一瞬で輝いた笑顔を見せた。
「あ、でも泣いてたなんて言わなくていいから。重いって思われてもやだし…」
悠は思案する顔になった。
「軽くね、かる〜く、言ってみて」
「軽いの基準がわっかんねーな」
「確かに」
悠は自分で言い出して笑った。
「もう、いいや。忘れて、この話は」
悠はそう言って話を打ち切った。
夕焼けの綺麗な海辺で、二人のファーストキスが執行されたことは、後から噂で聞いた。
俺の中に、空虚な穴を残して。
「お試し期間ってことで、どう?」
キスをした恥じらいに目を伏せながら、涼子は提案してくる。
「まぁ、そういうことなら…」
「やった!きっと後悔させないから」
涼子は嬉しそうに言った。
俺が涼子と付き合ったことを、一番喜んだのは悠だった。
祝福代わりにバシリバシリと何度も肩を叩かれた。
「もう〜おめでとう!」
「いてぇよ」
「いい?女の子を泣かせちゃ駄目よ。あと…」
悠は恥じらいながら言葉を続けた。
「待たせちゃ駄目。ね?」
俺はショウがキスを待たせた例のことを言っているのかな、と思った。
「実はさ…今度の金曜日の夜、親が出張で居ないんだ」
違う。キスのことじゃない、俺はそう直感し、耳を塞ぎたくなった。
「ショウ…来てくれるかな」
その目はうっとりしていた。
なんでこんなことまで、聞かされなきゃならないんだ。俺は。
小鳥遊リョウ 二十二歳
挙式当日。
晴天に恵まれて式は順調に進んだ。
小鳥遊家一同、とても幸せそうだ。俺を除いて。
この期に及んで俺は期待してしまう。
兄のために着られたドレスも、ベールも、なにもかもを剥ぎ取ってしまいたいと。
そして悠もそれを望んでる、という未来を。
俺の横には純がいた。兄の厚意で、恋人も招待されたのだ。
そしてブーケトス、純は張り切ってオレンジ色のブーケをキャッチし、俺にそれを見せびらかしながら、帰ってきた。
挙式後、俺は純を家に送り届けて上がり込んだ。
ブーケを嬉しそうに眺めながら、純はなにげなく聴こえるように言った。
「次は私たちだね」
その言葉を聞いて、俺の中の理性は吹き飛んだ。
まだドレスアップしたままの純を、激しく掻き抱くと乱暴にキスをする。
「リョウ、どうしたの?」
「好きだよ、純」
俺は言葉で誤魔化して、純をベッドに押し倒す。
「ちょ、待って…シャワー浴びてからにしよ?」
「いいから、脱いで」
カットシャツのボタンを次々に外す。そして、純のドレスのホックに手をかけた。
早く一つになりたい、ならなければならない気がした。
そうしないと、自分の中にできた暗い穴に飲み込まれてしまう気がした。
いつも通り肌を合わせてるだけな気がした。
でも、違うとわかっていた。
頭の中は悠の純白のドレスを切り裂く妄想でいっぱいだった。
笹木純 二十歳
オレンジ色のブーケが、目の前に飛んでくる。わたしはそれを、迷わずにキャッチした。
そしてすぐに、リョウの方を振り返る。
おかしい。と最初に思ったのはその時だった。
リョウとすぐに視線が合わなかったのだ。一拍遅れてリョウがわたしに微笑みかけた。
リョウが、見つめていたのは、新婦の悠さんだった。
お兄さんのお嫁さん、見惚れちゃったのかな?と少し嫉妬して、それで済むと思っていた。
挙式後、リョウはうちにやって来た。
手に入れたブーケを眺めながら、試しに呟いてみた。
「次は私たちだね」
リョウが就職して、一気に現実味を帯びて来た選択肢の一つ。わたしはついにそれを仄めかした。
すると、リョウは豹変した。激しく掻き抱かれ、乱暴にキスをされる。
「リョウ、どうしたの?」
わたしは慌ててそう尋ねる。
「好きだよ、純」
「ちょ、待って…シャワー浴びてからにしよ?」
「いいから、脱いで」
今までこんな風に激しく求められたことがあっただろうか?
別の男性になら、あった。でもリョウからこの熱量を感じるのは初めてだった。
あっという間に裸にされ、肌を合わせる。
いつもと同じ行為なのに、どこか違う。
わたしを見ていない?そんな予感が胸を過ぎる。
それでもわたしは、愛されていると信じていた。
その日からリョウは、うちに転がり込んだ。日中はお互い忙しくすれ違いだが、夜には狭いシングルベッドで激しく抱き合う。
そしてその激しさに、日に日にわたしは違和感を積み上げた。
もともとは穏やかな凪のような愛だったのが、ここ数日で暴れる海のような危険さを孕む関係に落ちた。そんな予感がした。
そしてわたしの予感は、深夜、なんとなく眠れぬ夜に的中した。
「悠…悠……愛してる」
リョウは、確かにそう言った。寝言であったけれど、それに実感が伴ってることは確実だった。
「リョウ、起きて」
「…悠?」
寝ぼけているらしい。なんて可愛らしいんだろう、とわたしは思ってしまった。
「純だよ、わかる?」
「ああ、ごめん、俺、寝ぼけて…」
「出てって」
わたしは静かにそう告げた。
「へ?」
「出てって。もう別れよう」
「なんで急に」
「あなたは、わたしを愛してる?」
リョウは自分の寝言に気づいていない。だからキョトンとしている。
いや、寝言だけじゃない。セックスの仕方が変わったのにも、気づいていないのかもしれなかった。
「愛してるよ、純」
「嘘」
わたしは、ついに泣いてしまった。リョウの言葉に嘘と真実を見抜いてしまったから。
確かにわたしを愛してはいるのだろう。でもそれは悠さんと比べたらどうか?という問いの答えではない。
寝言にまで顔を出す愛情と、理性で抑えられる愛情と、わたしはどちらを幸せと解くだろう。
「出てって、お願い」
寝言のことをぶちまけたい感情がせめぎ合う。でもそれを指摘したとて、何が変わるというのか。
「純…」
リョウは釈然としない表情のまま、服を着て自分の荷物を旅行カバンに詰める。
「純、俺…」
「さようなら。お元気で」
小鳥遊リョウ 二十三歳
"報告したいことがあるの。
電話していい?"
悠からのラインは俺にとって悪い予感しかしない。仕事が忙しいのを言い訳に、電話を先延ばしにしていた。
既読だけつけて、電話をしないでおいたら、翌日悠から着信が入った。
「もしもし、リョウくん?」
「よっ、どうしたの?」
「今時間ある?」
俺は少し思案した。
「…お願い…他に相談できるあてがないの」
ため息をつきたいのを堪える。そんな切羽詰まった相談、いい話なわけがないからだ。
「なに?どした?」
「…あのね…」
「うん」
「離婚したい」
あまりの発言に、俺は驚いた。
と、同時に少し喜んでしまった面もある。
「それは、何故?」
「……言えないの。でも、離婚しなきゃいけない」
「は?」
全く要領を得ない。俺は部屋の時計を見上げた。午後十時を指している。
「今どこ?直接話そう」
悠たちの住んでる駅まで移動して、指定された公園を目指す。
途中、悠が寒いかなと思ってコンビニであたたかい飲み物とカイロを買う。
“着いたよ”
公園に着いて悠にラインする。
すぐに悠が、泣きながら現れた。
「なんで、泣いてるの」
俺は戸惑った。そしてその美しい涙の一粒一粒が、兄貴のために消費されていることが、許しがたく思えた。
「離婚したくない…」
電話と真逆のことを言い出した。
「だろうな。ほれ、寒いだろ?」
「リョウくん、ありがとう」
カイロとあたたかいお茶を差し出す。
「来てくれて、ありがとう」
「何があった?」
「…リョウくん、わたしさ…」
悠は瞳をうるうるさせたまま、しっかり俺を見つめる。
いや、俺を通してショウを見てるかもしれない。
「ショウには何があっても幸せになって欲しいの」
「うん」
「子宮がんだって」
「え?」
「子宮がん。転移もしてるかもしれない。まだわかんないけど。とりあえず、子宮はとらなきゃ」
悠は早口でまくし立てる。
「ショウには…」
「まだ言ってない。言えないよ」
「言えないってお前、早く言わなきゃ」
悠はすすり泣いた。俺だって泣きたかった。
「生命が一番大事だろ?早く相談して…」
「子供欲しがってるのよ、ショウは」
「それだって、悠の生命より大切なわけない」
「だから、離婚するしか…でもこんなこと聞いて離婚に同意するわけなくて……」
「当たり前だろ」
俺はそこで最悪の可能性に気付いた。
悠が俺を見つめる目に、その答えがちらついていた。
「おいまさか」
「離婚の理由になって欲しいの」
「いい加減にしてくれよ。そんなの無理だ」
「ちょっとだけ、恋人のフリしてくれない?」
「無理」
悠の今までの俺の扱いの中でも、最悪のパターンだった。
「俺とショウの、仲が壊れるだろ?」
「やっぱりそうなるよね」
「何考えてるんだよ」
そして大きくため息をつく。
「兄貴は?いつ帰ってくるの?」
「さっき、仕事終わったってライン来たから…もうすぐ」
「一緒にいてやるから、一緒に兄貴に話そう」
俺は悠の肩をそっと励ますように掴んだ。
その手に、悠の手がかかる。そして、ありがとうと呟いて悠はまた泣いた。
小鳥遊ショウ 二十五歳
“話しがある
公園でリョウくんと待ってる”
悠からのラインを確認して、僕は不穏なものを覚えた。
リョウが来てる?こんな時間に?
一体何事だろうと思うと怖くて、でも早く安心したくて駅からの道は早歩きになった。
「よ、お疲れ」
リョウは僕を認めると、軽く頭を下げる。良かった、いつものリョウだ。
隣に佇む悠は、いつもと違う雰囲気だった。
いつもは溌剌として、底抜けに明るい悠。その雰囲気が今は澱んでいる。
「悠ちゃん、なにかあったの?」
「ショウ…」
悠の瞳には涙がとめどなく溢れていた。僕は慌ててハンカチを取り出す。
「はい、悠ちゃん」
そのハンカチは、悠が一番最初に僕にくれた贈り物だ。悠もそれに気づいたらしい。
「…わたし、あの…」
「二人ともずっとここに居たの?寒くない?うちに上がろうか」
僕はこの期に及んで話を先延ばしにしたいらしい。それくらい怖かった。
「兄貴。まずは聞いてやれよ」
「…ごめん。悠ちゃん、何かあったの?」
「がんになった」
僕はポカンとした。日本語なのに意味がつかめない。
「子宮がん。転移してるかは、これからわかる」
「子宮がん…」
「子宮は多分全摘だって。子供はできない」
「ちょ、ちょっと待って悠ちゃん。なにがなんだか」
僕は話を止めるのに必死になった。頭が混乱している。
一番問い正したいのは、何故リョウが居るのか、だ。
「そんな目で見るなよ、俺だってなんでここにいるのか、よくわかんねぇよ」
目に出てたらしい。リョウが困惑気味にそう言ってくる。
「他に相談できる人いなくて…」
そして悠は、言い難いことを言う時の表情になった。
「わたしと、離婚して」
「なんでそうなるの?」
「ショウの未来を壊せないよ」
僕は混乱したまま、大切な一言だけ引っ張り出して悠に届けた。
「僕は、悠、きみを愛してる。だから離さない」
そしてリョウの目があるのも忘れて、強く悠を抱き寄せた。
小鳥遊リョウ 十八歳
高校生活最後の大イベント、卒業旅行の帰りの電車内。
俺の肩に頭を預けて、悠は眠っていた。
同級生は全員帰って行き、二人だけが残された。車内は夕焼けに包まれていた。
あたたかなオレンジ色。
悠の髪からいつもと違うホテルのシャンプーの匂い。そしていつも通りの柔軟剤の匂い。
不自然と自然が絡み合う空間。
世界に二人しかいないんじゃないかと思えるほど、綺麗な夕焼けが怪しく揺れる。
肩で感じる悠の体温に、俺はのぼせていた。
それは、ただ一瞬の触れ合い。
キスをした。唇が触れるだけの、優しいキス。
なんの罪もない。誰にも気付かれない、裁けない、俺だけの秘密。
悠は、終着駅まで起きなかった。
「楽しかったね、リョウくん」
そう動く悠の唇から、俺は目が離せなかった。
先程のキスが頭をよぎった。
「またみんなで遊ぼうね」
そう言って俺に手を振る、悠。
手を伸ばせば掴める距離に、その手はあった。
でも掴まない。掴めない。それは兄貴のものだからだ。
今更ながら、自分の侵した罪に俺は静かに侵食されていった。
小鳥遊リョウ 二十三歳
「僕は、悠、きみを愛してる。だから離さない」
そう言って兄貴が悠を抱きしめるのを、特等席で俺は見ていた。
これは、罰なのか。
あの日確かに触れた唇の感触が甦る。
「ショウ、愛してる」
そして、悠は俺の存在を忘れて、ショウにキスをする。
あの日の俺のキスとは違う、激しいキス。
「悠ちゃん、よく話し合おう」
「…うん、ごめんなさい」
俺は何も言えなかった。昔からそうだったように。
こうして小鳥遊家は、一家初めてのがん患者の療養に、巻き込まれていった。
「ごめんね、せっかくの休みにお見舞いに来させて」
悠は入院していた。
がんは既に全身の至る所に転移していて、今は出来る限りの治療でその進行を遅らせているらしい。
「純ちゃんは?来てくれると思ったのに」
「別れたから」
「嘘でしょ、いつの間に」
悠は驚いた。俺だって驚いたんだから、当然か。
純と別れて少しして、俺は反省していた。悠の結婚式を境にして、俺は純の中に悠を探していたことを。
それを悟らないほど、純は馬鹿じゃなかったし、盲目にはなれなかったんだろう。
「純ちゃんになにしたの〜この色男め」
すっかり俺が悪役になっている。
「俺なんてつまらない男ですから」
「そっか〜純ちゃん…元気かなぁ」
「会いたかったら呼ぼうか?」
俺はついそう言っていた。俺は気まずいが、それはそれ、だ。
悠の願いはたとえ小さくても叶えておきたい。そう思っていた。
俺たち二十三歳の身体に、がんの進行は早い。医者からもいつ何があってもおかしくないと、常々言われているらしい。
「うん、リョウくんの悪口でも聞いてあげよっかな」
「じゃあ、俺のいない時に来るように言っとく」
「ちゃんと別れた原因、聞き出しといてあげるから。そーゆーの解らないで別れるの、辛いよね」
「そーゆー気遣いなら、余計なお世話」
「もう、なによ余計なお世話って」
ポカリと腕を殴られる。昔の悠のようだ。
でも顔を見ると蒼白いし、髪が抜けてるのでウィッグと帽子は必須だった。抗がん剤治療の副作用は、凄まじいらしい。
「ショウ……」
悠の呟きで病室の入り口を見ると、ショウが立っていた。
普通のショウじゃない。頭を丸刈りにしたショウだ。
「兄貴、頭どうした?」
「悠とお揃いにした。どう?」
悠はその言葉を聞く前から、察してポロポロ泣いていた。
その涙の一粒が、乾いた悠の唇に吸い込まれてゆくのを見ながら、俺は思った。
罰なら受けるから、長引かせないでくれよ、と。
「すっごくカッコいいよ、ショウ」
そして悠はショウに抱きついて泣く。
「似合ってるぜ、兄貴」
"悠が会いたがってる
もし良かったら、ここに連絡入れてあげてくれ
悠は余命宣告を受けてる
会うなら早いほうがいい"
迷いに迷って純に、ラインを送る。
余命宣告だなんて、余りにもドラマチック過ぎただろうか。
でも俺から連絡するくらいだ、切羽詰まってるのは伝わる筈だ。
ティロリティロリ。着信音だ。タイミング的に純かなと思ったらやはりそうだった。
「もしもし」
「…リョウ?」
「純、元気か?」
陳腐な一言が飛び出した。俺は赤くなって恥ずかしがった。
「…元気に、してるよ」
「ライン見た?」
「見たから電話してる。余命宣告ってなに?」
やっぱりそう来るか、と俺は思った。
「がんだって。身体中に転移してる」
ハッと息を呑む音がした。次に口を開いた時、純は泣き声になっていた。
「悠さん、死んじゃうの?」
「まさか。必死に治療してるんだ、死なないよ」
実際には棺桶に片足突っ込んでる、とは言えなかった。
「そう、そうだよね」
「一人で会いに行けそう?俺がついてっても良いけど」
「…一人で行けるよ」
「そう」
気まずい沈黙。俺は何か言わなければ、と焦った。
「…悪かった」
「へ?」
「振られた意味、俺だって反省はする。悪かった」
「もう、大丈夫だから」
「ああ、そうだよな」
また落ちる沈黙。今度は互いが、切るタイミングを模索してるのがわかった。
「あのね、わたし、彼氏できたから。もう連絡してこないで。じゃあね」
純は早口で畳み掛けるように呟くと、ぷつりと電話を切った。
俺は呆気にとられた。そして思い出した。純は嘘が下手だった。嘘をつくとき、必ず早口になる。
だから俺は何も言わずに携帯を伏せた。
小鳥遊リョウ 十九歳
夏祭りなんて柄じゃないのに、悠にせがまれると断れない。
悠とショウ、俺と涼子で夏祭りダブルデートをする事になった。
俺と涼子は、なぁなぁに始まった割に長く続いていた。
でもいい加減マンネリしてきていて、大学で知り合った男に取られそうになっている。
その空気を知ってる悠が、マンネリ打破に!と力強く提案してきたのだ。
「涼子ちゃんの浴衣姿、楽しみね」
待ち合わせ場所に最初に着いたのは俺だった。次が悠。うす紫色の淡い浴衣で、儚げな雰囲気がいつもの悠と違った。
「何色の浴衣着て来るのかな?」
俺は適当に相槌を打つ。
「リョウくんもカッコいいよ、似合ってる、浴衣」
「あざーす。ショウのが似合うとか言うんだろ、どうせ」
「そりゃ、わたしの、彼氏は、別格ですから」
悠は嬉しそうだ。
「てゆーか、二人、なんでバラバラに家出たの?」
「さぁ、なんか寄るとこあるって言ってたよ」
「ふうーん」
喋っていると、涼子が来た。明るい水色の浴衣がよく似合っている。髪はアップにしたらしい。
「涼子!久しぶりぃ。後れ毛がエロいなぁ」
悠ははしゃいでいる。涼子も悠に会えて嬉しそうだ。
「リョウも浴衣、着たんだね」
「悠がうるせぇから、仕方なく」
程なくショウも合流して、四人で神社に向かって歩いていた。
「ねぇ、ショウ?待ち合わせ前にどこ行ってたの?」
「どこって、別に」
ショウはその問いにびっくりしたみたいだった。
「ふーん、言えないようなこと、してたの?」
悠の声に棘が混じるのを、俺はハラハラしながら聴いていた。
「そーゆーことじゃないけど」
「じゃあ、どういうこと?」
ショウは悠の声が大きくなるのに、焦っていた。
「悠、どうしたの?大きい声出して」
「……わたし、帰る」
「へ?」
ショウは突然のことに唖然とした。
俺は思わず、早足で踵を返した悠の腕を掴んで引き止めた。
「離して」
悠は泣いていた。そして俺の腕を振り払うと、走り去った。
「ちょ、悠ってば!わたし、悠見てくる」
涼子は人混みに消えた悠を探しに二人から去っていった。
俺はショウに向き合って低い声でこう言った。
「奪うなんて言わないけど、泣かせ続けるなら、俺、あいつのそばから離れねぇから」
そして悠を追って走り出そうとした俺を、兄貴が止める。
「僕が行く。悠は僕の彼女だ」
海老原涼子 十九歳
悠を追ってリョウの手を離した。
その時確かに、わたしはせいせいした。
浴衣を着ても、リョウは何も言わなかった。わざと見せてるリョウの好きなうなじにも、目を遣らなかった。
これ以上、リョウがわたしに冷めてゆく所を積み重ねていくのは、辛い。
だったら、新しい人を探そうと、わたしは思っていた。
でも探すだけで、別れるに至らないのは何故だろう。
これを愛と呼ぶのなら、愛はあまりに退屈すぎるな、とわたしは思う。
「悠!悠、やっと追いついた。どうしたの?」
「もう終わりだ…」
悠に追いつくと、悠は泣きじゃくっていた。
「ごめん、涼子。せっかくのダブルデートでマンネリ打破作戦、だったのに」
「先輩となにかあったの?」
とりあえず、脇にのいて人混みを避ける。
「なにもない、なんにも」
「ああ、わかる」
「わかる?」
悠はわたしの方を見上げた。背が低い女の子って可愛いな、とわたしは思った。
「なーーんにもないよ、わたしとリョウも」
「最近、手も繋いでくれなくなったの、むこうからは」
「うんうん、わかる」
次第に悠の涙はひいて、彼氏の愚痴聞いてよモードに入る。
そこに、息を切らしたショウ先輩が追いつく。
「探した。悠、どうしちゃったの?」
「全部ぶつけちゃいな。好きなんでしょ?わたしは、行くから。またあとでね」
わたしはショウ先輩に悠を託し、リョウを探すことにした。
もう少し、退屈な愛に浸っていたくなった…それだけだ。
すったもんだありながら、四人で楽しんだ夏祭りの帰り道。
「送るよ」
と、リョウが言ってくれたので二人きりになれた。久しぶりにわたしから、指を絡めて歩く。
「ねえ、リョウ。ホテル、行かない?」
「いいよ」
浴衣に舞い上がるのは、男だけじゃない。女だって欲情する。なによりリョウは普段から色気が凄い。浴衣なんか着たらやられてしまう。
黴臭いホテルの一室で、二人は刹那の夏を愉しんだ筈だった。
これでまだ、恋人同士でいられる気がした。
気がしたのも束の間。
翌々日。大学のサークルの集まりで、海に行った。今度は水着姿の誘惑。
ちょっといいな、と思ってる先輩と気付いたら岩場で二人きりになっていた。
リョウとは違う熱量で、わたしを求めてくるその必死さは、リョウしか知らないわたしには何もかもが新鮮だった。
恋とは何か、愛とは何か、そんな辛気臭いこと考える前に、身体が反応していた。
彼氏がいる身で他の男を知ってしまった。
その罪悪感を埋め合わせて余りあるほど、愛される悦びをわたしは知ってしまった。
"別れよう"
身体を合わせた後、先輩に、愛の告白をされた。わたしはさすがに即答は出来なかった。
そしてすぐ、リョウにラインを送る。
きっとただ一言、わかったよ、と返事が来るだけのラインを、わたしは待ち侘びた。
小鳥遊リョウ 二十三歳
その日は仕事が手につかなかった。
やっぱり休めば良かったかなとも思ったが、義理の弟ってだけで、仕事を休むのもどうかなと思って休めなかったのだ。
その日は、悠の子宮全摘手術の日だった。
"無事終わったら連絡する"
兄貴からのラインは堅かった。でも信じて待つしかない。
その日の仕事は先輩と一緒に外回り。営業職の俺は一日中かけてクライアント間を練り歩いた。
「小鳥遊くん、今日帰り飲みに行かない?」
帰りがけ、書類仕事を残していたので直帰の先輩と別れ帰社した俺に、同期の白石眞弓が声をかけて来た。
「ああ、でもこれちょっと時間かかるよ?」
「手伝うよ」
二人で残業し、なんとなく飲みに行く。そういえば先週も二人で食事に行ったっけな、と思った。
その間にショウからラインが来た。
"手術は成功した"
良かった、とホッと胸を撫で下ろすのを、白石に見られた。
「なんかいいことあった?」
「別に」
悠が子供を産めない身体になったこと、まさか喜ぶわけにはいかなかったのに。
心の中に出来た余裕はなんだろう。
これで生涯、俺は悠にそのことを相談されることもないのだという、安心感のようなもの。
「小鳥遊くんて、不思議よね」
「不思議?」
「なんか目が離せなくなる」
俺はその眞弓のアツい視線から逃れたくて、ビールジョッキに手を伸ばす。
と、その手を白石の柔らかい手が包んだ。
「小鳥遊くん、好き」
「白石…」
「眞弓って呼んで?」
また、流されるのか、俺は。
でも悠に対して抱えた罪悪感に、一人で向き合わなくていい。
そう思うと俺は、流されるのも悪くはないかな、と思えた。
小鳥遊悠 二十三歳
面会時間は十四時から十八時迄、それでもショウは毎日面会に来てくれた。
フレックスタイム制を利用して朝早くに出社して、夕方十七時半ごろ顔を見せてくれる。
わたしは先日、子宮を全摘した。その辺りから、精神的に脆くなった気がする。
治療に終わりが見えないのも、あるかもしれない。
けれど、ショウとの三十分で泣くわけにいかなかった。
わたしが泣き暮らせば、ショウの今後の人生に支障が出るだろうとわかっていた。
代わりに支えになってくれたのが、リョウの存在だった。
夜中に泣き声で電話してから、弱音を吐きやすくなった。
消灯後。寂しくなると聞きたくなるのはショウの声で変わりないのに、わたしはリョウに電話をかける。
「…もしもし?」
「リョウくん、わたし。今平気?」
ガラガラと戸が開く音がする。ベランダに出たのだろうか?
「平気だけど。なんかあった?」
「リョウくん、わたし…」
電話した理由を問う。けれど答えはなかった。
「ショウに出会えて良かった。でも出会わなかったら良かった。そればっかり考えちゃうの」
「うん、そう…」
「ねえ、夏祭り、楽しかったね。四人で行ったやつ」
「ん?そんなことあったっけ」
「あったよ、浴衣着てさ…」
わたしはあの日の自分の情緒不安定さを思い出す。
「あの日が、初めてだったんだ」
「なにが?」
「ショウとエッチしたの。浴衣着直すの大変だったんだから」
薄むらさき色の、トンボ柄の浴衣。ショウは紺の縦縞の浴衣。今でも覚えてる。
二人きりになって、甘く指を絡めて歩いて、適当なホテルに入って、息をするのも忘れて抱き合った。
なんで今になって思い出すんだろう。
もうこの身体には不要な感情なのに。
「わたしもう、誰にも抱かれずに死ぬのかな」
「兄貴がいるだろ」
「もう身体は女じゃなくなったのに?」
ポロリと涙が溢れる。
「悠はずっと、女だよ」
「リョウくんには、わかんないよ」
沈黙が落ちる。
「…ごめん、八つ当たり」
「いいよ。好きなだけ当たれよ」
「リョウくんはずっと、優しいね」
「だろ?」
「ありがとう、リョウくん」
小鳥遊リョウ 二十三歳
ティロリティロリ。
無意識に俺は待っている。真夜中の着信、やはり悠だ。
「…もしもし?」
俺は上半身裸のまま、ベランダに出る。ベッドのシーツでは、眞弓が下着姿で寝ていた。
「リョウくん、わたし。今平気?」
「平気だけど。なんかあった?」
他の女を抱きながら、悠からの着信を待っていた、なんて言えなかった。
「リョウくん、わたし…ショウに出会えて良かった。でも出会わなかったら良かった。そればっかり考えちゃうの」
「うん、そう…」
先日泣き声で、電話してきてから、こうしてたまに深夜に着信がある。
「ねえ、夏祭り、楽しかったね。四人で行ったやつ」
「ん?そんなことあったっけ」
俺は嘘をついた。あの日の悠の着物の儚さまで全て覚えている。
あの日も俺は、悠への捨てられない気持ちと、年相応の性欲を抑えきれず涼子にぶつけたことを思い出した。
「あったよ、浴衣着てさ……あの日が、初めてだったんだ」
「なにが?」
「ショウとエッチしたの。浴衣着直すの大変だったんだから」
そんなこと聞きたくなかった。あの日の悠の泣き顔が、笑顔が記憶の中で変な揺れ方をした。
「わたしもう、誰にも抱かれずに死ぬのかな」
「兄貴がいるだろ」
「もう身体は女じゃなくなったのに?」
「悠はずっと、女だよ」
「リョウくんには、わかんないよ」
沈黙が落ちる。
「…ごめん、八つ当たり」
「いいよ。好きなだけ当たれよ」
「リョウくんはずっと、優しいね」
「だろ?」
「ありがとう、リョウくん」
またかけるね、と言って通話は切れた。
それでも暫く、動けずにいた。
「リョウくん、寒くない?」
ガラリと戸を開けて、下着姿の眞弓がベランダに出てきた。
「ひゃ、冷た〜い」
そのまま無邪気に俺に抱きつく。触れ合った箇所から眞弓の体温が俺に流れ込む。
「ねぇ、キスして」
せがまれるままに、眞弓にキスをする。
脳裏には、あの日の浴衣姿の悠がチラつく。生々しく、その浴衣を剥がしてゆく兄の姿と共に。
翌朝。眞弓はいつも通り出勤支度をしつつ、朝食の準備をしてくれた。
眞弓の淹れた珈琲に口をつけていると、とん、と携帯を指さされた。
「悠さんって、だぁれ?昨日夜中に電話してた」
「同級生で、兄貴の嫁さん」
「ふーん。それだけ?」
訝しげな表情。
「がんが全身に転移してて、治療中」
俺が何気なく言うと、眞弓は固まった。
「…ごめん、わたしったら、てっきり…浮気かと…」
あながち間違ってない。俺の心にはいつも悠が居るからだ。
「たまに夜中に泣きながら電話してくるんだ」
「そうだったの…」
眞弓の動揺が俺に余裕をくれた。
「眞弓が嫌ならもう出ないよ」
「嫌じゃないわ。支えてあげて」
「ありがとう」
それからも数回、眞弓といる時に悠から着信があった。
この年でがんに罹る残酷さを眞弓はよく知っているのか、行為の最中でも電話に出るように勧めてくるので、助かった。
面会はショウと一緒に行くので、悠は弱音を吐けない。
泣けるのは、俺との電話の時だけだと、ハッキリ悠は言うようになった。
歪んだ形をしてる俺の愛が、もうすぐ悠の中にも嵌りそうだなと、期待していたのかもしれない。
治療の甲斐なく、悠は死んだ。
最期は看取れなかった。
兄貴はそばに居たらしいから、きっと笑って逝けただろう。
空虚な涙の味が、俺の舌を刺した。
小鳥遊リョウ 二十六歳
その日俺は、駅である人と待ち合わせしていた。
精神科病棟入院中に出逢った仲畑美代。
こちらに近づいてくる彼女を見ても、俺は一瞬気づかなかった。
入院中は腰まで届く長さの茶髪だったのが、黒髪のショートカットに変わっていたからだ。
「雰囲気、変わり過ぎやろ」
俺はそれが誰のオマージュなのかまでわかったが、敢えてツッコミはしない。
「意外と似合うでしょ?」
サラッと髪を流して見せて、美代は微笑む。
俺は喪服、美代は高校の制服でブレザーを着ていた。この日は入院時の友人の告別式だった。
笑顔で退院していった彼女を今も覚えてる。名前は凪志摩子。
俺たちはどちらからともなく手を握って歩き出した。誰かと繋がっていないと、自分も消えてしまいそうな恐怖。
「三坂さんとは…」
「音信不通。そっちは?」
「俺もだ」
三坂凛は、美代の想い人。ショートカットのよく似合う、溌剌とした女性だった。
三坂のことを思い出したからか、美代の手に力がこもる。俺は健気にそれを支えたくて、いや、逃したくなくて、指を絡めた。
目の前には、あの日と同じ壮大な夕焼けが広がっていた。何度同じ景色に縋れば、気が済むんだろうなと、他人事みたいに思った。
夕焼け ——それでも手を離せなかった のら犬ユイユイ @Norainu-huithuit
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