鏡月血歌

シガ

第1話 映ル月ハ血

 秋の夜、寺の書院に五人の歌人が集まった。


「では、始めましょうか」


 最年長の慈円が静かに告げると、蝋燭の炎が小さく揺れた。今宵は句合――歌を詠み合い、優劣を競う会である。ただし、この句合には一つ特別な決まりがあった。


「お題は『月』。ただし――」


 慈円は懐から小さな銅鏡を取り出し、座の中央に置いた。鏡面に映る月光が、妖しく輝いている。


「この鏡に映った月を詠むこと。直接、空の月を見てはなりません」


 若い歌人の一人、定家が眉をひそめた。鏡に映る月など、所詮は虚像ではないか。だが慈円の目は真剣そのものだった。


「鏡に映る月の方が、真の月に近いこともある」


 その言葉の意味を測りかねたまま、句合は始まった。一番手は藤原家隆。彼は多作な歌人として知られ、当世風の句を数多く残す。月という無難な題材は、彼にとっては朝飯前のはずだった。


 だが彼が鏡を覗き込んだ瞬間、小さく息を呑む音がした。


「どうされました」


 問いかける定家に、家隆は震える声で答えた。


「鏡の中に...月が二つ見える」


 座がざわめいた。慈円だけが、予期していたかのように静かに微笑んでいる。


「さあ、詠んでください。あなたが見た、その月を」


 家隆は筆を取ったが、その手は小刻みに震えていた。鏡の中では、確かに二つの月が――一つは冴え冴えと、もう一つは血のように赤く――並んで浮かんでいたのである。家隆は筆を置き、額に薄く汗を浮かべた。詠んだ句は、精彩を欠くものだった。


「鏡の月に血の翳りて 秋の夜の 二つ並びぬ 闇の深さを」


 声はかすれ、まるで呪詛のように響いた。慈円は頷き、次なる者の名を呼ぶ。歌人たちの表情は次第に硬くなる。あの鏡に映るものが、通常とは違う何かを見せているのは明らかだった。


 家隆は肩を落とし、生気の抜けた表情で席に座っている。


「何かおかしい……」


 ひとりごちる定家の声は震えていた。目の前の鏡が、何か別の世界への窓となっているように感じられる。


 二番手は非情にも彼が指名された。藤原定家、彼は若くして多くの名歌を残し、勅撰和歌集の編纂も担っていた。しかし、今夜ばかりは不安が募る。慈円の静かな眼差しが、彼を見つめていた。


「鏡は真実を映すものです」

「月が二つあることが、この世の真実なのでしょうか?」


 定家の問いかけに、慈円は答えずに微笑むだけだった。定家は深く息を吸い込み、勇気を振り絞って鏡を覗き込む。瞬間、定家の瞳が大きく見開かれた。


「これは……」


 鏡の中の月は、もはや月ではなかった。冴え冴えとした円は、まるで生き物のごとく脈打ち、血の月のほうは、ゆっくりと、ゆっくりと、こちらに向かって近づいてくる。鏡面が波打つような錯覚さえ覚えた。定家は筆を握りしめ、ほとんど無意識に書き連ねた。


「映る月は 我が影を呑み

 血の月に 魂奪われて

 秋の夜長に 消えゆくかな」


 筆を投げるように置いたとき、彼の手はすでに冷たかった。指先が、かすかに赤く染まっているようにも見えた。


 三番手は寂蓮。出家し俗世を離れ、京の町に庵を構える行者兼歌人であった。彼は既に幾度となくこういった不可思議に触れており、その落ち着いた佇まいは他の二人とは一線を画していた。


「定家殿、顔色が」


 寂蓮は穏やかな声で言った。定家は何も答えることなく、ただ震えているだけだった。鏡だけをうつすその瞳に、寂蓮は小さくため息をつく。


「慈円殿、この鏡は一体……」


 慈円は変わらず微笑み、促すように手を広げる。見たらわかるとでも言いたげだ。寂蓮は諦めたように首を振ると、静かに合掌してから鏡を覗いた。


「……阿弥陀仏」


 小さく呟いた声が、書院の闇に吸い込まれた。


 鏡の中では、血の月が完全に冴え冴えとした月を呑み込んでいた。残ったのはただ一つ、巨大な、腐った肉塊のような赤い月だけ。そしてその中心に、ぼんやりと、人の顔が浮かんでいる。寂蓮自身の、死んだような顔が。


 彼は震える手で書き付けた。


「月は血に染まり 我も血に染む

 極楽も浄土も 赤き闇の中

 秋の夜の 夢の果てかな」


 書き終えた瞬間、寂蓮の唇から、一筋の血が垂れた。鼻血だった。だが誰も、それを拭うよう勧めなかった。


 四番手は如是。女歌人で、最も若かった。彼女は恐れながらも、どこか陶酔したような表情で鏡に近づいた。


 覗いた瞬間、如是は小さく微笑んだ。


「ああ、美しい……」


 鏡の中の血の月は、もはや月ではなく、無数の赤い花弁となって散り始めていた。花弁は鏡面を越え、如是の頬を、唇を、首筋を這うように這い上がってくる。冷たく、甘く、腐った蜜の匂いがした。


 彼女は夢見るように詠んだ。


「血の月より 紅の花散る

 わが白き肌に 降りかかりて

 秋の夜を 永遠に染めよ」


 声は甘く、どこか恍惚としていた。詠み終えると、如是は自分の首に手を当て、そっと撫でた。そこには、確かに小さな赤い花弁のような痣が浮かんでいた。

 そして、最後に残ったのは慈円自身だった。


 老歌人はゆっくりと立ち上がり、銅鏡を手に取った。蝋燭の灯りが、彼の顔を異様に赤く照らす。


「さて、私の番ですね」


 慈円は鏡を逆さにした。そして、静かに言った。


「諸君は、よく詠んでくださいました。鏡の中の月を、まことに」


 彼は鏡を皆に向けた。そこに映っているのは、もはや月ではなかった。

 五人の歌人の顔が、五つの小さな月となって、血の海の中に浮かんでいた。皆、目を見開き、口を開け、まるで助けを求めているかのように。

 慈円は微笑んだ。


「しかし、残念ながら――」


 その時、慈円の手の中で、銅鏡が砕け散った。破片が床に落ち、鈍い音を立てる。同時に、四人の歌人たちの首から、細い糸がプツリと切れるように、力が抜けた。

 彼らは静かに倒れ、永遠の眠りについた。


 慈円は砕けた鏡の破片を拾い上げると、月明かりにかざした。その小さな鏡面には、確かに月が映っていた。


 それは、いつもの、青白く冴え冴えとした、

 まことの月だった。


「我こそは鏡 月を映すとも

 血の月にこそ 真実の影あり

 秋の夜長に 五つの魂を

 呑みて笑うは 我が胸の月」


 一句を終えると、慈円は目を閉じた。

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鏡月血歌 シガ @kamikaze555

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