第7話 菜々の過去

「……ぅ、う……なんか、話そうとは思うんですけど……

 中々、どう話していいか……」


ようやく少し落ち着きを取り戻した菜々は、そう言うと頭を抱えた。


「ゆっくりでいいから。話せるところからで、全然いい」


俺はそう声をかける。

菜々が戸惑うのは当然だ。

俺だって、自分の過去を話せと言われたら、色々ありすぎてどこから手をつければいいのか分からなくなる。


「……じゃあ、とりあえず……」


そう言って、菜々は俺に背を向け、ゆっくりと服を持ち上げた。


「……っ……」


露わになった背中を見た瞬間、息が止まった。


そこには、

まるでムチで打たれたような跡が、幾重にも重なり合い、背中全体を覆っていた。

中には、まだ新しいと分かる赤黒い痕もある。


言葉が、出てこない。


毒親――


そんな生易しい言葉では片付けられない。

これは、明らかな虐待だった。


「ごめんなさい……急に、こんなの見せちゃって……

 でも、もう二の腕も見てるから……一緒かな、って……」


「……親の仕業か。こんなこと、したのは」


自分の体温が、じわりと上がっていくのを感じた。

さっきの緊張とは違う。

胸の奥から、確実に怒りが込み上げてきているのが分かる。


「はい……。

 これにも、理由があるので……話しますね。

 先に見せておいた方が、分かりやすいと思ったので……」


俺の内側で沸騰する感情とは対照的に、菜々は小さく笑ってそう言った。


そして――


静かに、自分の過去を語り始めた。



私の母は、とても優しい人でした。

何をしても怒らず、

クラスの皆が「理想のお母さん」と口を揃えるような人。


私が小さい頃に両親は離婚して、

母は女手一つで、私を育ててくれていました。

家庭環境に問題がなかったとは言えません。


でも、母と過ごしたたくさんの思い出や、他愛のない会話は、

そんなことを忘れさせてくれるくらい、私を幸せで包み込んでくれていました。


私は、そんな母が大好きでした。

本当に、本当に――大好きでした。


……そう、その時までは。


「菜々!

 中学校の受験まで時間が無いわよ!

 さっさと勉強しなさい!」


小学五年生に進級した途端、

母は何かが壊れたかのように、私を怒鳴りつけるようになりました。


突然の変化に、私は驚きと恐怖を感じました。

けれど――ちゃんと言うことを聞けば、

また、あの優しい母に戻ってくれる。


そう信じて、恐怖を押し殺し、言われるまま勉強を続けました。

それから二年。


怒声が響く生活の末、ついに中学受験の日が訪れました。

母の言う通り、勉強に明け暮れた私は、

母が望んでいた女子中学校に合格しました。


「……これで、戻ってくれる」


そう、思っていました。


「ママ、私、頑張ったよ!」


「流石ね、菜々。よくやったわ。

 ……でも、頑張るのはこれからよ」


母は微笑みながら、そう言いました。


「あなたを、絶対に良い子に育て上げるわ。

 ……私みたいにならないように、ね」


その瞬間、

母が二度と元に戻らないことを、私は悟りました。

母の中で何かが壊れたように、

私の中でも、確かに“何か”が壊れる音がしました。


それからは――


敬語の徹底。

母の呼び方は「お母様」。

スケジュールは全て管理。

遊びは禁止。

異性との交流も禁止。

まるで刑務所のような生活。

私の心は、日を追うごとに削れていきました。


そして、事件は起きました。

中学一年生、最後のテスト。

無理なスケジュールのせいで体調を崩した私は、

数日間、入院することになり、そのテストを受けられませんでした。


恐る恐る退院し、家に戻った私を待っていたのは――

花瓶や皿が割れ、家具が倒れた、荒れ果てた光景でした。

まるで、強盗でも入ったかのような部屋。


「……お、お母様……?」


割れた物を避けながらリビングへ向かうと、

母は、部屋の中央でうずくまっていました。


「……わ……が……だめ……」


近づくと、母は壊れたように呟いていました。


「私の育て方が甘かったのね……ダメだったのね……」


同じ言葉を、何度も、何度も。

私は恐怖を感じ、

ここに居たら何をされるか分からないと思い、玄関へ向かいました。


――殺されるかもしれない。


そんな恐怖と戦いながら、ドアノブに手を伸ばした、その瞬間。


「――ぁあッ!!」


背中に、激痛が走りました。

風船が割れたような音が、玄関に響き渡り、

私はその場に崩れ落ちました。


「私は甘すぎたようだわ、菜々。

 今日からは、あなたの為に、もっと頑張るからね!」


母の手には、

竹で作られたムチのような物が握られていました。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


恐怖は、確信へと変わりました。

私は謝ることしか出来ず、

逃げるという選択肢すら、頭から消えていました。


こうして私は――


再び、あの日々へと逆戻りしたのです。

母の虐待は、その日を境にさらにエスカレートしました。

通報することも考えました。


でも、心のどこかに、

あの優しかった頃の母の顔が残っていて……。

私は、行動に移せませんでした。



休みの日と、学校以外の時間を母に支配されていた私は、

学校だけが、唯一の居場所でした。


母のことなど、口が裂けても言えません。

それでも、少しだけ友達はいました。


「菜々ってさ、なんでそんなに勉強できるの?

 めちゃくちゃ羨ましいんだけど」


「……お母様のおかげですよ」


「へぇ〜。菜々のお母さん、頭いいんだ。

 家庭教師みたいで、いいなぁ」


そんな何気ない会話ですら、

最初は、私の心を深く抉りました。


けれど、次第に――


それくらいのことには、慣れていきました。

普通の子達が、そう思うのも仕方ない。


……そう思い込むことで、私は平和を保っていたのです。

そんな、平和な学校生活に――

ある噂が流れ始めました。


「学年トップの菜々ってさ……

 背中、シマウマみたいな模様があるらしいよ」


常に学年トップの成績を取り続け、

周囲から妬まれていた私のそんな噂は、女子校では一瞬で広まりました。


もちろん、その話は私の耳にも届きました。

体育の時間の着替えの時に、見られたのでしょうか。

一応、トイレで着替えるようにして、極力見られないようにはしていたのに。


……でも、今さらそんなことを考えても仕方がありません。


私はこれ以上傷跡を見られないよう、

より一層注意することにしました。


「菜々〜、トイレ行こ〜!」


友達にそう声をかけられ、私は席を立ち、教室を出てトイレへ向かいました。

正直、あまり大声で言ってほしくはありませんでした。


トイレに辿り着くと、そこには――

噂を流したであろう女の子達が、数人いました。

その瞬間、私は全てを悟りました。


「菜々ちゃん、シマウマらしいね。背中見せてよ!」


そんな、あまりにも無神経な言葉と同時に、

女の子の一人が私の服を掴み、強引に個室へ引きずり込みました。


「っ……! 嫌です! やめて!」


「おい、早く脱がせて!」


抵抗する私を、数人がかりで押さえつけます。

そして――

私の服を脱がしてきたのは、

私が“友達”だと思っていた女の子でした。


「うっ……気持ち悪っ。

 マジでシマウマじゃん」

「噂、マジだったんじゃん。やば〜」


私の服を脱がし、そう言ったその|は、

汚いものに触れたかのように服を投げ捨て、

他の女の子達と笑いながら、そのまま去っていきました。


その瞬間――


私の唯一の居場所が、音を立てて崩れ落ちました。

友達も、

楽しかった時間も、

全部、全部――

無情にも、その一瞬で消え去りました。


足から力が抜け、

上の服が無いことすら気にせず、私はその場に座り込みました。

大粒の涙を流しながら、

声を殺して、ただ泣き続けました。


――世界の全てが、私の敵になった瞬間でした。

私が自傷行為をするようになったのは、

そこからでした。



私の傷跡が学校中に知られてから数日。

先生達は面倒事を避けるように、

私のことを相手にしなくなりました。


母も、相変わらずでした。

世界のどこにも居場所がなくなった私は、

ある日ふと、死のうと思いました。


学校帰りの駅のホームで、大勢の方に迷惑がかかるのは分かっていましたが、そんな事考える余裕なんてありませんでした。


ホームで電車を待つこと数分。

電車到着の放送が流れ、

その数秒後、踏切の音が鳴り響きました。


……なんて、不気味なレクイエムだろう。


そんなことを思いながら、

私は一直線に線路へ向かいました。

電車のライトが白い線を引き、

風が髪を巻き上げ、

世界の音が遠くなっていく。


やがて、電車の姿が視界に映り、

私の体は、すでに黄色い線の外へと出ていました。

死ぬ瞬間が、スローモーションのように流れ、

頭の中で走馬灯が回り始めます。


けれど――


最初の頃の母との思い出以外、

ろくな記憶は流れませんでした。

私は死を覚悟し、目を閉じ、線路へ身を投げました。


「危なぁぁぁい!!」


男の人の叫び声がホームに響き、

次の瞬間、私は誰かに強く抱き抱えられていました。


「だ、大丈夫?」


その人は、私と同じくらいの年の男の子でした。

私をベンチに座らせ、

心配そうに顔を覗き込んできます。


「……はい。ごめんなさい……」


「なんで謝んの?

 助かったんだから、全然いいんだよ」


そう言って、男の子は続けました。


「……って、俺この電車乗らないと!

 良かったらこれあげるよ。さっき買ったやつ!

 それ食べて、もう帰りなね〜!」


そう言い残し、

男の子は私に菓子パンを投げ渡すと、

慌てて電車に乗り込んでいきました。

包装のビニールが、太陽に反射して光りました。


その温度だけが、

世界のどこにも無かった優しさのように感じられました。

嵐のような出来事に思考が追いつきませんでしたが、

もう、死ぬ気分ではありませんでした。

私は、家へ帰ることにしました。


「あ……お礼、言えてない……」


そう思い、

先ほど男の子が乗った方向を見ましたが、

そこにはもう、電車の姿すらありませんでした。

私はその場で、深く頭を下げました。


その時――


足元に、何かが落ちているのに気づきました。

拾い上げると、それは――

先程の男の子の学生証でした。



あの日から時が流れ、

地獄のような日々は相変わらず続きました。

それでも――


あの時助けてくれた男の子のことを思い出すと、

なぜか、全てを乗り切れる気がしたのです。

こんな世界でも、

人は人を助けてくれる。

そう思えるだけで、

死ぬわけにはいかないと思えました。


それから二年。

私は、受験を迎えていました。

私が受験する高校は――


朝日ヶ丘高校。

偏差値は五十前後の、ごく普通の高校。

でも、私はどうしても、

この学校に行きたい理由がありました。

最初に提案した時、母は発狂しました。


それでも、

どれだけ叩かれても、怒鳴られても、

私は音を上げませんでした。

そしてついに、母は折れました。


「……大学は、私の言うことを聞きなさい」


その条件と引き換えに、

私はこの高校への受験を勝ち取ったのです。



「……って感じですね。

 私の、この傷の理由は……」


そう言って、菜々は小さく笑いました。


「だから陸上部に入るのも正直、大変でしたし……

 翔さんの看病をした日も、ほんとは結構無理してました」


「あ、でもでも!

 今は全然、自傷はしてませんよ! あはは」


気を遣っているのが分かる、無理な笑顔。

俺の目からは、

自然と涙が零れていました。


「……ごめんなさい。

 大丈夫ですよ、翔さん」


そう言って、

今度は菜々が、泣いている俺を抱き締めました。


……完全に立場が逆だ。


泣きたいのは、

どう考えても菜々の方なのに。


「あ、そうだ」


ふと、菜々は立ち上がると、

勉強机の参考書の間から、

一枚のカードを取り出しました。


「ずっと隠してたんです。

 お母様に見つかったら、処分されそうで……」


大切そうにそれを握りしめ、

菜々は俺に差し出しました。


「あの時は――

 助けてくれて、ありがとうございました」


そして、はっきりと。


「……翔さん」

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