人生
@amata-Danbooooru
第1話
僕は、読書が好きだ。本には、僕の知らない世界が、知らない考えが詰まっている。
ページをめくる度に溢れてくるあのワクワク感が、僕は好きだった。
だから、僕は色んな本を読んだ。有名な作品から、周りの人は誰も知らないようなものまで、自分が気になった本は全てだ。
僕が今読んでいるこの本は、つい最近買ったものだ。これは、書店の棚の端に1冊だけ置かれていた。
真っ白な表紙に「人生」というシンプルな題名と、聞いた事のない著者名だけが書かれている。その得体の知れなさが逆に気になって買ってみたが、結果的に買ってよかったとは思う。
内容としては、渡って筆者の人生観が綴られているだけで、そこに読者への配慮なんてものはない。
その人生観も捻くれた考えのものばかりで、それを斬新な考えで面白い、なんて思える僕みたいな人間でないと、楽しめるようなものではないだろう。
その中でも、僕が特に興味を持ったのは、この文だ。
───肉体の死だけが人の死ではない。人の死とは、自我が崩壊したこと、つまり、自分らしさを失うことである。
僕がこの文の何に魅かれたのかは分からなかった。だが、僕はそのページに栞を挟み、何回も読み返すほど、この文が気に入っていた。
「まーたそれ読んでるの?」
本を読んでいると、背後から肩を叩かれた。それに対し、うん、と適当に返事をして、そのまま読書を続けた。
「ちょっとー?なんか適当じゃない?私拗ねるよー。」
すると、その人物は後ろから顔を覗かせてくる。
彼女は、少し身をかがめたまま、僕の視界に入る位置で止まった。
長い髪が肩から零れて、ページの端に影を落とす。
彼女は、僕の恋人だ。最近になって、同棲を始めた。
「本ばっかり。そんなに面白い?」
「うん。」
短く答えると、彼女は小さくため息をついた。
彼女は、僕とは違って読書が好きではない。
物語よりも、人と話す方が好きな人だ。だから僕が本に夢中になっていると、こうしてちょっかいを出してくる。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、いつものことだった。
彼女は、よく笑う。
くだらない話でも、すぐに声を上げて笑うし、たまに何が面白いのか分からないところでも笑っている。
僕は、そんな彼女の笑顔が、何よりも好きだった。
そう。好きだったんだ。
僕は仕事を終え、自宅のマンションに向かっていた。この頃は仕事が忙しく、残業続きで毎日帰りが遅くなっていた。恐らく、あと数日は続くだろう。
仕事は辛いが、家に帰ればあの笑顔が待っていると考えると、自然とやる気が出た。
彼女のことを考えていれば、時間が溶けるように過ぎていく。
ほら、そうしていれば、もう自宅の前だ。
僕は勢いよく玄関を開けた。彼女が、笑顔で迎えてくれるはずだ。
「遅いよ、もう。」
彼女は、ぶすくれた顔で待っていた。
「あはは、ごめん。」
謝るが、彼女はそれだけでは満足しないらしい。
「明日、ちゃんと起こすから。だから、今日は遅くまで、私にかまって。」
なんて可愛い要求をしてくる。だが、明日も仕事だから、あまり遅くまで起きていられない。
「仕事が落ち着いたら、ちゃんとかまうから。だから今日は……。」
「やだ。最近ずっとそれ。」
彼女は、寂しそうな顔をした。それは、僕が初めて見る表情だった。
「ねえ。私だって、寂しいんだよ……?」
やめてくれ。早く寝ないといけないのに、そんな目で見られたら……。
───なんで、彼女は笑ってくれないのだろう。
は?いや、なんだ、今のは。
まるで他人が自分の脳に介入してきたみたいに、突然そんな考えが頭に浮かんだ。
「あ、ああ。分かった。今日は付き合うよ。」
頭の中のその考えを置いておきたくなくて、僕は咄嗟に、彼女の提案を受け入れていた。
「ほんと?やった!」
彼女はぱっと表情を明るくして、僕の腕に抱きついてきた。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。
───よかった。
そう思ったはずだった。
僕たちは食事を終え、寛ぐことにした。
彼女はソファに座り、テレビをつけた。バラエティ番組の賑やかな音が部屋に広がる。
僕はその隣に腰を下ろしながら、無意識にスマートフォンを確認していた。
「ねえ。」
彼女が言う。
「ちゃんと見てる?」
「見てるよ。」
本当は、内容なんて頭に入っていなかった。
仕事のこと、明日の予定、読みかけの本。いくつもの考えが浮かんでは消えていく。
彼女は画面を見つめたまま、少し間を置いてから言った。
「最近さ、前みたいに笑ってくれないよね。」
そんなことはない、と言おうとして、言葉に詰まった。
自分が、いつ笑ったのか思い出せなかったからだ。
「別に、疲れてるだけだよ。」
そう答えると、彼女は何も言わなかった。
ただ、画面の光に照らされた横顔が、妙に静かだった。
しばらくして、番組が終わる。
「もう寝ようか。」
僕がそう言うと、彼女は小さく首を振った。
「もう少しだけ。」
その声は、いつもより弱かった。
そのとき、まただ。
胸の奥に、あの感覚がよぎった。
───僕が見ているものは、本物か?
理由は分からない。
ただ、彼女がそこにいるのに、どこか遠くに感じられて、落ち着かなかった。
静けさが、欲しかった。
自分の中に、はっきりとそう思う何かがあった。
それが何なのか、考えようとする前に、彼女が立ち上がった。
「……じゃあ、お風呂入ってくるね。」
彼女はそう言って、こちらを見た。
その目が、ほんの一瞬、不安そうに揺れた気がした。
だが、すぐに笑った。
その笑顔を見て、胸がざわつく。
どこか、いつもの彼女と違う気がした。
───違う?
いや、そんなはずはない。
彼女は彼女だ。よく笑って、僕に構ってくる、いつもの彼女。
そう自分に言い聞かせながら、僕はテーブルの上に置いた本に視線を落とした。
栞の挟まれたページが、開いている。
───肉体の死だけが人の死ではない。
僕はなぜか、その一文を読み返していた。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
誰かが囁いた。
───彼女は、本当に生きているのか?
僕は、その問いを無視した。答えてしまえば、もう戻れなくなる気がした。
「おかえり。って、またその本読んでる。」
入浴を終え部屋に戻ってくるなり、彼女は僕に近づいてくる。
「今日は私と過ごすんだから、これは没収。」
そう言って、彼女は僕から本を取り上げた。
「ちょ、ちょっと!」
僕は立ち上がり、本を取り返そうとする。しかし、彼女の必死の抵抗により、中々本に手が届かない。
本は、僕の指先から逃げるように、彼女の腕の中に押し込められた。
「もう、ちょっとくらいいいじゃん。」
彼女は笑っていた。
ふざけているだけだとは、分かっていた。
「最近さ、その本ばっかりだよね。」
何気ない口調だった。
責めるようでも、怒っているわけでもない。けれど、その言葉が、妙に胸に引っかかった。
「別に、いいでしょ。」
思ったより、強い声が出た。
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
「……怒ってる?」
「怒ってない。」
嘘だった。だが、何に怒っているのかは、自分でも分からなかった。
彼女は本を抱えたまま、少し距離を取った。
「そんなに大事?」
その問いに、答えられなかった。
本が大事なのか、考えが大事なのか、それとも───。
「私より?」
その一言で、頭の中が白くなった。
「そんなこと、言ってないでしょ。」
僕は一歩、前に出た。
彼女は無意識に、後ずさる。
その仕草が、胸をざわつかせた。
──違う。
彼女は僕から距離を取ろうとなんてしない。
次の瞬間だった。
彼女の足が、ソファの足に引っかかった。
バランスを崩し、後ろに倒れる。
「危な───」
声をかけるより先に、鈍い音が響いた。
テーブルの角に、彼女の頭が当たった。
時間が止まった。
テレビの音だけが、やけに大きく聞こえる。
彼女は、動かない。
僕は、名前を呼ばなかった。
呼べなかったのかもしれない。
胸の奥に、静かな空白が広がっていく。
音が、消えていく。
考えも、感情も、輪郭を失っていく。
僕の目に見えるのは、彼女の顔だけだった。
その顔は、眠っているように穏やかだった。
無意識に、僕の手が伸びた。その先にあるのは、彼女の顔だ。
僕は彼女の口の両端を引っ張る。
彼女は、笑顔だった。
僕が求めていた、本当の笑顔。
───彼女が笑ってくれるのなら、いいじゃないか。
そうだ。笑ってくれるなら、別にいいか。
僕はおぼつかない足取りで、自室に向かう。そのままベッドに横になり目を瞑る。
静けさに包まれて、僕は眠りに落ちていく。
目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
いつもと変わらない朝だった。
喉が少し渇いていて、頭が重い。
眠りが浅かったのだろうか、とぼんやり考えながら、上体を起こす。
そのとき、気づいた。
音が聞こえる。
誰もいないのに、いないはずなのに。部屋の外から、鍋の沸騰する音が聞こえる。
僕はベッドから降り、リビングへ向かった。
一歩踏み出すごとに、胸の奥がざわつく。
───いや、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、キッチンの方を見る。
「……あ。」
彼女が、そこにいた。
エプロンをつけ、フライパンを火にかけている。朝食の準備をしているらしかった。
「おはよう。」
何事もなかったように、彼女は言った。
昨日と同じ声。
いつもと同じ、少しだけ間延びした口調。
僕は返事をしなかった。
できなかった。
彼女は僕の様子を気にするでもなく、手を動かし続けている。
「今日も仕事でしょ?無理しないでね。」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
理由は分からない。
ただ、そうであるべきだと感じた。
僕は椅子に腰を下ろし、彼女の背中を見つめる。
髪の揺れ方。
立ち方。
包丁を持つ手の動き。
どれも、見慣れたものだった。
───生きている。
そう思った瞬間、その考え自体が、ひどく余計なものに感じられた。
生きているに決まっている。
彼女は、ここにいるのだから。
「どうしたの?」
彼女が振り返り、不思議そうに首を傾げる。
その表情を見て、僕は思った。
ああ、よかった。
彼女は、笑っていた。
昨夜のことが、頭をよぎる。
あの静けさ。
あの感覚。
けれど、それはすぐに形を失った。
夢の断片のように、輪郭が曖昧になる。
思い出そうとする必要はない。
今が、すべてだ。
「……なんでもない。」
そう答えると、彼女は小さく笑った。
「変なの。」
その一言が、なぜか胸に残った。
食卓に並んだ朝食は、いつもより少し豪華だった。
彼女は機嫌が良さそうで、よく話した。
僕は相槌を打ちながら、テーブルの端に置かれた本に視線を落とす。
表紙は、真っ白だった。
そこに書かれた題名を見て、なぜか息が詰まる。
───人生。
彼女は気づいていない。
あるいは、気にしていないのかもしれない。
それでいい、と僕は思った。
すべては、元に戻った。
そうでなければ、おかしい。
昨夜のことなど、なかったのだ。
彼女は生きている。
彼女は、ここにいる。
それだけで、十分だった。
それから数日間は、何事もなく過ぎていった。
彼女は、いつも通りだった。
朝は僕より少し早く起き、簡単な朝食を用意してくれる。
仕事に出る僕を玄関まで見送り、「いってらっしゃい」と笑う。
その笑顔を見るたび、胸の奥が少しだけざわついた。
───違う。
理由は分からない。
形は同じだ。声も、目元の動きも、口角の上がり方も、すべて覚えている通り。
なのに、何かが足りない。
以前は、笑顔を見るだけで安心できた。
それが、今はできない。
まるで、精巧に作られた人形を見ているようだった。
そんなことを考える自分を、何度も戒めた。
疲れているだけだ。
仕事が忙しいから、神経が過敏になっているだけだ。
彼女は、生きている。
そう言い聞かせるたび、その言葉が空虚に響いた。
ある夜、彼女はソファに座り、テレビを見ながら笑っていた。
バラエティ番組の、どうでもいい場面だった。
「ねえ、これ面白くない?」
そう言って、こちらを見る。
笑っている。
───はずだった。
僕は、彼女の顔から目を離せなくなった。
笑顔が、固定されている。
動いているのに、動いていない。
それを見た瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇った。
静けさ。
澄んだ空白。
───ああ。
思い出した。
あのときだ。
あの夜、彼女が動かなくなったあと。
あの笑顔は、完璧だった。
雑音がなく、曖昧さがなく、嘘がなかった。
僕が求めていたのは、あれだ。
今、目の前にある笑顔は、違う。
それは、生きているがゆえの、歪みだった。
「……どうしたの?」
彼女が言う。
声に、わずかな不安が混じる。
その不安が、決定的だった。
彼女は、分かっていない。
自分の笑顔が、壊れていることに。
このままでは、いけない。
僕は立ち上がった。
「ねえ。」
彼女が、少し身を引く。
「大丈夫?」
大丈夫じゃないのは、君だ。
そう言いかけて、やめた。
言葉では、伝わらない。
これは、直さなければならないことだ。
僕は彼女の肩に手を置いた。
びくり、と彼女の体が揺れる。
「ちょっと……。」
その声を、最後まで聞く必要はなかった。
───静かにして。
心の中で、そう呟く。
僕は彼女の首筋を思い切り掴む。
手に力を込めると、彼女の体から抵抗が消えていく。
暴れる音も、呼吸も、やがて途切れた。
部屋が、静かになる。
ようやく、正しい状態に戻った。
彼女は床に横たわっている。
目は閉じられ、顔は穏やかだった。
僕は、その前に膝をつく。
そっと、彼女の頬に触れる。
冷たい。
それでいい。
口元に、指をかける。
ゆっくりと、引き上げる。
───ああ。
これだ。
そこにあったのは、偽物ではない笑顔だった。
歪みも、揺らぎもない。
胸の奥が、静かに満たされていく。
僕は、深く息を吐いた。
これで、また大丈夫だ。
彼女は、ちゃんと彼女に戻った。
僕は、そのまま床に座り込み、しばらく動かなかった。
何も考える必要はなかった。
必要なことは、すべて終わったのだから。
そこからは、前と同じだった。
1度寝て起きる。
すると、彼女は生きており、何事もなかったかのように朝食の準備をしている。
そして、あの偽物の笑顔を振りまく。
彼女が生きていることは、もはや何の問題もない。
だが、あの笑顔を僕に見せるのならば。
僕が、本物の笑顔に、正してあげなければならない。
そこから、彼女を正すのが習慣になるまでは早かった。
最初は数日に1回程度。正すのに慣れてくると、3日に1回、2日に1回と、徐々に頻度が多くなっていき、最終的には毎日彼女を正すようになった。
最近は再び仕事が忙しくなってきたが、家に帰ればあの笑顔が待っていると考えると、自然とやる気が出た。
彼女のことを考えていれば、時間が溶けるように過ぎていった。
今日も、彼女を正した。
動かなくなった彼女の顔は、まるで眠っているように穏やかだった。
顔。その単語に何かが引っかかる。
何か、顔に対して強い思いを抱いていた気がする。
今日も、朝が来た。
キッチンから、包丁の音が聞こえる。
規則正しく、一定のリズム。
彼女は、いつも通り朝食を作っていた。だが、こちらを見ても、すぐに笑わなかった。
「……おはよう。」
少し遅れて、そう言う。
口角は上がっているが、どこかぎこちない。
その笑顔を見て、胸の奥がざわついた。
───違う。
以前ほど、強く正したいとは思わなかった。
それが、ひどく不安だった。
「最近さ」
彼女が、フライパンから目を離さずに言う。
「君、私の顔ばっかり見てるよね。」
手が止まる。
「そう?」
「うん。まあ別に、見るだけならいいんだけど……。」
僕たちの間に、沈黙が流れる。
「ねえ。」
彼女が振り返る。
その表情は、もう笑顔ではなかった。
「私、最近ちょっと怖いんだ」
その一言で、何かが軋んだ。
怖い?
───誰が?
彼女は、生きている。
正されている。
何の問題もないはずだ。
なのに。
顔、という言葉が、また浮かぶ。
ああ、そうだ。
僕は、彼女の顔が好きだった。
笑っているかどうかじゃない。
正しいかどうかでもない。
ただ、彼女の顔が。
その事実が、今になって、重くのしかかってきた。
その日は、彼女を正さなかった。
理由は分からない。正確に言えば、理由を探すのをやめた。
彼女は、夕食の準備をしながら、何度もこちらを見ていた。
視線が合うと、すぐに逸らす。
笑わない。
それだけで、胸の奥が締めつけられた。
以前なら、それは「間違い」だった。
正すべき兆候だった。
だが今は、違った。
笑わない彼女を見ていると、正してしまえば、何か取り返しのつかないものを失う気がした。
「……最近、遅いね。」
彼女が言う。
声は低く、慎重だった。
「仕事が忙しいから。」
そう答えると、彼女は小さく頷いた。
「やっぱり違う。」
一拍、間が空く。
「最近、帰ってきたときの君、前と違う。」
その言葉に、反射的に否定しかけて、やめた。
違う。
確かに、違う。
だが、それは悪いことだっただろうか。
彼女は続ける。
「前はさ、疲れてても、ちゃんと私を見てくれてた。」
胸が、ちくりと痛んだ。
「今は……見られてる、って感じがする。」
見られている。
確かめられている。
評価されている。
正される前提で。
その言葉が、頭の中で反響する。
───僕は、何をしていた?
食卓の上に、白い表紙の本が置かれている。
いつからそこにあったのか、分からない。
僕は、無意識にそれを手に取った。
栞の挟まれたページが、自然に開く。
───肉体の死だけが人の死ではない。
以前は、この文が正しいと思っていた。
疑いもしなかった。
だが、今は。
「自分らしさ」とは、何だ。
笑顔の形か。
正しいことか。
静けさの中で動かなくなることか。
違う。
そんなはずはない。
彼女は、笑っていなくても、彼女だった。
不安そうでも、怒っていても、黙っていても。
正す必要なんて、なかった。
僕は、本を閉じた。
その音が、やけに大きく響く。
「ねえ。」
彼女が言う。
「私、君に聞きたいことがある。」
その声は、迷いを含んでいた。
「もし……私が、前みたいに笑えなくなったら。」
一瞬、言葉を失う。
「それでも、一緒にいてくれる?」
その問いは、正誤を求めていなかった。
修正を求めてもいなかった。
ただ、僕の選択を求めていた。
僕は、彼女の顔を見る。
完璧ではない。
歪んでいる。
揺れている。
それでも。
それが、生きている顔だった。
「……当たり前だよ。」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
彼女は、目を見開き、そして、泣きそうな顔で笑った。
ああ。
これだ。
これが、彼女だった。
胸の奥で、何かがほどけていく。
今まで積み重ねてきた「正しさ」が、音を立てて崩れていく。
僕は、初めて気づいた。
僕が壊していたのは、彼女の笑顔じゃない。
彼女そのものだった。
その事実が、恐ろしくて、
同時に、はっきりしすぎていて。
僕は、その夜、眠れなかった。
彼女の寝息を聞きながら、天井を見つめる。
───彼女と別れる。
それが、僕の決断だった。
どうやら、1度生まれた感情は、消すことができないらしい。
今でも、僕の中には真っ黒な感情を持った僕がいる。
今は、僕が勝っているだけ。それがいつ崩れるかはもはや誰にも分からない。
それなら、これ以上、彼女に触れてはいけない。
それが、彼女を生かす唯一の方法だ。
そう思いながら、僕は、朝が来るのを待っていた。
いつの間にか、窓から朝日が射していた。
僕は、顔を横に向ける。
彼女は、僕の方を向いたまま、寝息を立てていた。
彼女は、とても綺麗だった。
僕は無意識のうちに、彼女の頬に手を伸ばしていた。
そして、僕の手のひらが頬に触れる。
彼女の肌は、氷のように冷たかった。
彼女は、死んでいた。
リビングの机に、本が一冊、開いた状態で置いてある。
───肉体の死だけが人の死ではない。人の死とは、自我が崩壊したこと、つまり、自分らしさを失うことである。
そして、これは自分自身のみに限った話ではない。他人がその人らしさを失えば、自分の中で、その人は死んだも同然なのだ。
僕は、本当の彼女を見つけることが出来た。
でも、その僕は、本当の僕だったのだろうか。
その問いへの答えが返ってくることは、二度となかった。
人生 @amata-Danbooooru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます