暁月の茶室-凛救済編-
@ryodo_mochizuki
第0話 出会いとはじまりの不協和音
25歳の介護福祉士・凛はその日、介護施設の夜勤終了時間の朝9:00に事務所のPC前に座っていた。
「凛さん今日もおつかれでーす!凛さんの申し送りっていつも丁寧だから助かるッス!」
「佐々木くん、おつかれ〜。クマあるからあんま見ないでね。」
今年の春に中途入社してきた後輩の佐々木に声を掛けられ、目の下のクマを隠すようにそっぽを向く。
昨晩はいつも以上にナースコールの多い日で、仮眠時間は4分。
つまりほぼ寝ていない。
介護士の夜勤はこれが標準で、むしろ4分仮眠できたことが奇跡と言える。
眠さを通り越して意識が飛びそうなのを必死にこらえ、PCにカルテを打ち込む。
横で佐々木が利用者のための10:00のお茶の準備を始めているようだ。
「凛さんって彼氏いるんですか?」
休みの日は何してるんですか?と言わんばかりの軽さでそう尋ねる佐々木。
(おい、バカな事聞いてんじゃねー…やめてよ…)
カルテを打つ手を止めずに、凛は目尻がピクピクと痙攣するのを感じた。
そういえば最近ストレスを感じるとすぐに目尻が痙攣する。
凛はあまりプライベートな事に踏み込んで欲しくなかった。
社交性には自信があるし、人付き合いも下手では無いと自覚している。
当然プライベートな話も話題としては出すが、深く伝えたことはない。
山歩きが好きだが、どこの山を登ったかは言わない。
ソロキャンプが好きだが、いつ行っているのかは言わない。
ジャズを聴きに行くのが好きだが、好きなアーティストは言わない。
凛は自分という物を知られる部分に、土足で踏み込まれることを嫌がる。
そういう事を聞かれると、まるで背中にゴキブリでも這っているかのような悪寒が体中を駆け巡るのだ。
今もこの場から逃げ出したくて仕方ない。
他の話題なら何でもいいのに、と凛は心の中でため息をついた。
しかしそれを悟られてはならない、と凛は笑顔で応対する。
「もぉ〜佐々木くん、それセクハラだからね。や・め・て。」
夜勤明けのバッテリー残量5%の余裕のない笑顔は、佐々木にどう写ったのだろうか。
佐々木はケロッとした顔で
「凛さんのこと、もっと知りたいッスよぉ〜」
そう言いながら手際良く利用者の人数分の湯のみを用意していく。
凛は思わずカルテを打つ手が止まった。
凛のストレスゲージは限界に近かった。
サービス業でもあるので普段から身なりはきっちりしているし、清潔感にも気を遣っている。
応対もできるだけソフトに心がけているし、優しさ全開だが頼りになる「完璧な自分」をこれでもかというレベルで追求している。
つまり凛は、そういう自分には絶対の自信があった。
モテて当然。
好かれて当たり前。
頼られるのが普通の事。
自分が円滑に生きるために作っている理想像は、完璧に機能している。
ただ、それはあくまでも外面の姿だ。
夜勤明けで外面と内面の境界線が曖昧なこの瞬間にそんな事を言われると、気持ちが悪い。
(最悪。知らなくていいよ。知られたくない。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い)
別に佐々木が嫌いというわけではない。
いや、好みのタイプではないが嫌悪するほどではない。
つまるところ、凛は本当の自分が大嫌いだった。
そもそも本当の自分すら理解できないレベルまで、理想の自分で塗り固めて生きていた。
怒りなのか怖さなのか、それとも夜勤疲れなのか分からないが、震える手で凛はカルテを打ち続けながら口を開く。
「佐々木くんは、そんな事より今度の勉強会の主催なんだからちゃんと資料作りなよ〜」
「あっ、そうでした!俺、まだテーマも決めてなくて・・・」
「テーマ決まったら教えてね。資料のブラッシュアップは手伝えるからさ。」
何とか話題を反らしながら平然とカルテを打ち終える凛。
若くして主任に抜擢され、チームをマネジメントする立場でもある凛は、どんな心境であってもフォローを忘れない。
それが凛の中の理想の主任像だからだ。
例え心の中が30日放ってあるカレーのような腐りかけの感情だらけでも、そのフォローは絶対に落とさない。
「じゃ、私、帰るね。ふわぁ〜ぁ〜・・・眠い。」
大きくあくびをしてPCで退勤処理を行う。
このあくびも計算と言えば計算だ。
完璧な人間に見えて、少し抜けている方がとっつきやすい。
どうすれば完璧に好かれ、頼られ、仕事ができ、認められるか。
凛の頭の中は常にこの方程式に沿っている。
「お〜い、凛ちゃんおつかれ〜」
廊下の奥から手を振りながら声を掛けてくるのはパートの松村。
40代前半で、日勤帯だけの勤務をしている。
ぽちゃっとした丸みあるシルエットと穏やかな表情がスタッフや利用者へ安心を与えてくれる「頼れるおかあちゃん」ポジションだ。
実は17歳で出産しているらしく、娘は凛と同い年らしい。
そんな経緯もあり、凛にとっては母親みたいな存在だった。
「あー!松村さんに会えた〜!おつかれさまです!」
凛はとてとて、とワザとらしくおぼつかない足取りで松村に抱きついた。
フワッと香る柔軟剤の香りと、ふくよかな感触が夜勤明けの凛に安心感と眠気を与える。
そんな凛を松村は「よしよし」と頭を撫でた。
「凛ちゃん頑張ったね。早く帰って寝なさいね。」
「やだ〜ここで寝る〜」
「こら。ちゃんと家に帰って寝なさいね。」
グッと凛を引き剥がし、ポンポンと肩を叩いてなだめる松村。
「申し送りは佐々木くんから聞くから、もう帰りなさいね。」
「はーい、分かりました。松村さん、またね。」
しぶしぶといった様子で凛は頭を下げ、更衣室へ向かった。
凛にとって松村は本当に安心できる存在だが、やはり心から甘えることはできない。
時には夜勤入りの時にお弁当を作ってくれたり、お菓子を差し入れてくれたりする松村を本当の母のように思う瞬間もあった。
しかし凛は本当に甘えたい気持ちもあって抱きつくような行動にも出るのに、同時に甘えたくない自分も存在していた。
心の置き場所になって欲しいけど、そんな場所になって欲しくない。
甘えてみるけど、甘えたくない。
まるでアクセルとブレーキが同時に踏み込まれているような感覚。
この感覚は他のことでもよく自覚していた。
更衣室で制服を脱ぎながら、凛は左の上腕についた10cm程度の傷をなぞる。
小学1年生の時に負った傷で、年齢を重ねても消えることなくそこに残っている。
凛が子どもの頃に住んでいた故郷には、大きな滝があった。
滝壺と言うには浅いが、小学生には十分に深い水たまりの近くには高さ5mの岩場がそびえ立っていた。
凛はその頃、とても好奇心旺盛な子どもで、どちらか言えばガキ大将のような存在だった。
一緒に遊んでいた友人に、その岩場から飛び込んで度胸試しをしようとしたのだ。
子どもの凛の頭の中には「足がすくんで動けなくなるような恐怖感」と「飛び込む時のスリルやワクワク感」の両方の声がしていた。
岩場に一緒に登った友人達の制止を振り切って、凛は岩場から飛んだ。
空中で空を舞うような一瞬の快楽と、落下する時の絶望的な恐怖感。
子どもの凛は、その2つの感覚がとても心地よかった。
空を切る一瞬が永遠のようにも感じられたのも束の間のこと。
風船がはしけるような鋭い着水音と共に、左腕にも痛みが走った。
左耳は鼓膜が破れ出血し、左上腕にはどこで引っ掛けたのか大きな切り傷ができていた。
その時の周りの友人の顔は、今でも凛の記憶の中にこびりついている。
まるで妖怪でも見るかのような、異質な物を見る表情だった。
それから凛は子ども心に「自分はおかしいのかもしれない」と思うようになっていった。
凛はそれ以来、好奇心旺盛な自分と恐怖心が強い自分に何度も苦しむことになった。
あの悪夢のような中学生時代の記憶がフッと頭をかすめる。
「!!!!」
そこまで思い出して凛はブンブンと頭を振り、記憶を散らした。
今更思い出しても良いことなんてない。
今は若くして主任に抜擢され、上司からもチームからも信頼されている最高のエーススタッフなのだ。
何一つ、おかしいことなんてない。
私は、完璧な人間なんだ。
凛はそそくさと着替えをすませ、施設を出た。
凛が働いている介護施設は一昔前には「特別養護老人ホーム」という種類の名称だった。
介護保険法の変容によって今では「介護老人福祉施設」という名称に変わっている。
介護度の高い高齢者が入居しており、自立して生活することが困難な高齢者を介護することが仕事だ。
自分と同じかもしくはそれ以上の体重がある高齢者のベッドからの起き上がりを支援したり、時には二人がかりで抱えて車椅子に移したりと、肉体労働も多い。
特に夜勤中はスタッフの人数も少なくなる事から、スタッフ1人あたりの負担はとんでもなく増えていく。
「あー…太陽まぶし…こんなんじゃ帰って寝れないや…」
太陽に文句を言うように凛は自前のサングラスを装着した。
夜勤明けに強い太陽光を浴びると体が起きてしまい、帰ってからの仮眠ができなくなる。
視界の端に映る施設の看板「介護老人福祉施設 寿悠(ことゆう)」の文字が素材のせいか反射された太陽光が凛のまぶたに光線を送っている。
体は完全にバテており、足取りもおぼつかない。
唯一の救いは真冬と違って耳が取れるような寒さではないこと。
季節は春の手前、3月末。
地方はまだ寒さが残っているかもしれないが、ここは関東圏だ。
太陽の温かさもあり、歩いていても時折意識が飛びそうになるくらい心地よい。
凛のアパートは施設から徒歩20分程度歩いた場所にある。
駅も近く交通の便は悪くないが、少し緑が少ないのが難点だ。
介護士の仕事を始める前に、なるべく駅も施設も近い所でと必死になって探して見つけた場所だった。
もちろん家賃さえ気にしなければもっと条件の良い所は他にもたくさんあった。
しかし介護士の仕事は激務薄給で、とてもじゃないが凛はそこまでの物件に住む決断をする事はできなかった。
(大変な仕事なのにこれじゃあねー…ホント報われない)
先月の給与明細の数字を思い出し、思わず眉間に皺が寄る。
生活するのもやっとで、貯金に回すお金もほとんど無かった。
昨年に主任に抜擢されてからは役職手当も出るようになったが、これが驚くほど少ない。
この少なさが凛が働いている場所のせいなのか、それともこの業界の標準なのかは分からないが、とにかく凛の生活はあまり豊かではない。
眉間に皺を寄せたまま、凛は商店街ゾーンに入った。
お店によっては空いているが、大抵は10時からの開店なので人通りも少ない。
たまに同僚と食べにくる食堂も、シャッターはしっかり閉まっている。
少し離れた場所に大型のショッピングモールが建設されてからというもの、商店街には活気がほとんど無くなった。
店を畳んでしまう人も増え続けているし、何よりこの超高齢社会。
年齢の問題もあり、どうせなら畳んでしまおうという選択を取るのは想像に固くない。
しかし凛はこういう静かな商店街が意外に好きだった。
職場では常に気を張って、自分が完璧だと思う自分で頑張っている。
自分でも神経をすり減らしていると思っているが、とりわけ介護職というのは利用者に不安を与えてはならない。
常に笑顔で優しく、頼りがいがあって利用者からもスタッフからも信頼される女性。
その理想像に常に凛はいなければならない、と思っている。
しかしその反面、なぜか無性に静かな空間に居たい時がある。
誰にも話しかけられないような、暗い空間で息を潜めていたい時が多い。
特にこんな夜勤明けの朝は、凛の心がそういう静かな空間に惹かれている。
帰り道とはいえ、商店街を歩く時は妙に足取りが遅くなるのは、この空間を満喫したいのだ。
(落ち着くなぁ…なんか疲れた…このまま消えちゃいたいなぁ…)
唐突にそんな思考が頭を過ぎる。
消えてしまいたい。
凛は時々こんな思考に支配されることがある。
一生懸命に生きている事に疲れ、今朝のような些細な後輩の詮索に気を揉む。
しかしそれでもなぜか職場でのやる気はまた出て、新しい企画を積極的に考えたりする。
この「積極的」なのに「疲れやすい」という自分に心底嫌気が差す時がある。
自分はおかしいんじゃないか。
それは幼少期の体験から、凛をずっと苦しめる自己評価の一つ。
何が原因なのか、どうすればいいのか分からない。
だからいっそ
「消えてしまいたい」
気がつけば誰もいなくなった商店街でポツンと佇む凛は、足を止めてそう呟いた。
後、何年この状態でいるのか。
後、どれくらい頑張れば幸せになれるのか。
後、どうすれば楽になれるのか。
悲しい。
切ない。
消えてしまいたい。
凛の頬を一筋の涙がつたう。
自覚の無い涙は昔から何度かあった事なので凛は気にしない。
凛は知識には貪欲で勉強熱心なところがあり、とりわけ心理学が好きだった。
つい先日も見ていたYoutubeのスライドの中でこう語られていたのを思い出す。
自覚のない涙は、ストレス反応です。
涙を流すことでストレスを解放しているのです。
(今、私はちゃんとストレス解放してんのよね。だから大丈夫)
ちゃんと根拠を知れば大丈夫。
私は、誰よりも私のことを知っている。
こんなに勉強しているし、高齢者の人生を預かる私が泣き言を言っちゃダメ。
強い気持ちを夜勤明けの心に再び煮え立たせながら、凛は再び歩き始めた。
その刹那、通行人のいない商店街にどこかからカポン、という音が響いた。
「なに!?」
あまりにも大きい音で商店街中に反響したため、凛は思わず振り返って確認する。
今通ってきた通路には特に音の原因となるものは見当たらない。
例えるなら、銭湯で使う桶で床を叩いたような音。
銭湯の中は密閉されているからあの反響音は理解できる。
だがここは開けた商店街で反響する構造ではない。
───カポン
桶のような音が再び鳴った。
凛はなぜか、この音を心地よいと思った。
疲れた体に染み入ってくるような透明で純粋な音。
1回鳴るたびに、自分の心が浄化されていくような響き。
先ほどまで消えたいと思っていた凛の心は、その音の正体に夢中になっていく。
(絶対あそこから聞こえてる。何の音!?何が鳴ってるの!?)
全く理由は分からないが、凛はその音が30m先にある路地裏から聞こえて来るのが分かった。
寝不足とは思えないほどに凛の心は燃えたぎっていく。
興味が湧く。知りたい、突き止めたい。
凛の好奇心は止まらない。
駆け出した凛は、音の正体が潜んでいるであろう路地裏に飛び込んだ。
路地裏には太陽が当たっている表通りと違い、ひんやりとした空気が流れている。
どこかのお店の持ち物なのか、錆びたドラム缶が転がっているし、ひしゃげた一斗缶もあった。
鼻を掠めるのは、カビのような匂いと雨上がりのアスファルトのような匂い。
全体的に苔むしている様子を見ると、なかなか年季が入った通路だ。
「あれ…?」
凛は思わず疑問の声を上げた。
スッと伸びる路地裏の一番奥の突き当りで光る怪しい提灯の灯り。
寂れた商店街の、しかも路地裏には似つかわしくない風情のある木製の引き戸がある。
まるで江戸時代の長屋のような趣だ。
視界の悪い足元に気をつけながら、少しずつ歩みを進めていく。
振り返ったら誰かが立っているかもしれないと考えると少しゾッとする。
歩みを進めていくたびに暗さを増していく路地裏の空気に、凛はやはり好奇心と恐怖感を同時に感じていた。
木製の引き戸の眼の前まで来た。
不思議な事に、木製の引き戸の上を見上げるとそこはコンクリートの壁だった。
もしこれがお店や個人宅なら、ミスマッチも甚だしい。
木製の引き戸の横の柱には「茶室」とだけ書かれている。
やはりここはお店なのだと確認した凛は、どうしてもここに入りたくなった。
(灯りついてるし…やってるんだよね?入っていいかなぁ…)
大手チェーン店ならズカズカと入っていけても、こういう個人店には独特の入りづらさを感じる時がある。
入って良いものか、常連さんだらけだったらどうしようとか。
凛はそういうことに敏感に反応するタイプだった。
しかしあの桶の反響音のような音の正体が気になる。
この中から聞こえていたに違いないという謎の根拠の無い自信だけを頼りに、凛は引き戸に手をかけた。
グッと引き戸を持つ手に力がこもる。
「おっっ…も…い…重い、コレ…」
軽そうな見た目からは想像できないほどの重量に、凛の体力は削られていく。
そういえば夜勤明けだったな、と今更に心の中で笑った。
引き戸の金具でも故障しているのか、それとも滑りが悪いだけなのか。
とにかく鉄製の引き戸と言われてもおかしくないほどの重量だ。
普段から肉体労働がメインの介護福祉士の凛は、腕力にはそれなりの自信があった。
どこぞのSNSのインフルエンサー女子のようなか細い腕では無い、と自覚はしている。
「こん……の…っっっ!!」
最後の踏ん張りで足に力を込め、一気に引き戸を開けきった。
スパン!と勢いのついた引き戸が全開になり、凛は一瞬戸惑う。
「あっ、ヤバっ、すみません!えぇっと、こんにちはー!」
凄まじい勢いで開け放たれた引き戸の破損を心配して焦りながらも、まずは挨拶してみた。
シンと静まりかえった引き戸の中は、お店と呼ぶにはあまりにも小さい間取りだった。
玄関は石造りでそのまま奥へと続いており、一般的な家のような框は無い。
正面突き当りには壁に窪みがあり、三本足の丸い生物が手を挙げているような形の置物がある。
凛はそのシルエットを少し可愛いな、と思った。
左に視線をやると、人が1人入れるかくらいの細いスペースがある。
少し身を乗り出してよく見てみると、キッチンのようにも見えた。
右に視線をやると正面右側には何やら畳のあるスペースがあった。
ここでようやく靴を脱いで上がるのだろうか。
床から畳までは50cmほどの段差があるように見える。
「あの!すみません!こんにちは〜やってますか?」
返事が帰ってこない空間に向かって、凛は再度声をかける。
もしかして誰もいないのだろうか?と思いながら、もう少し奥まで入ってみた。
先ほど正面に見えていた三本足の丸い置物の前まで行く。
実に見れば見るほど面白い物体だ。
よくみればお椀のような構造になっていて、蓋の部分に四角い穴が空いている。
近くまで寄ってようやく気付いたが、この茶室に入ってきた時のかすかな金木犀の香りは
どうやらこの置物に近づくほど濃くなるらしい。
凛は生まれて初めてみるその置物の蓋を取ってみようと手を伸ばす。
「君がそれに触ると、大変な事になりますよ。」
「ひぃっ!?!?」
突如後ろから聞こえた男の声に、凛がいたずらを見つかった子どものように跳ねた。
すぐさま体制を立て直し、声のした方向に向き合う。
そこには身長180cmはあろうかという大柄な男性が笑みを携え立っていた。
年の功は30代半ばと言ったところだろうか。
ひと目見て優しそうという印象を抱かせる目尻の下がった瞳。
すっと通った鼻筋は顔の長さを印象付け、唇も薄すぎずに健康的な色をしている。
きちんと手入れされているであろう眉が目立つ一方、髪型は無造作にも見える。
だが無造作の中にもどこかお洒落な雰囲気があるのは、パリッと着こなしたワイシャツと黒いスラックスというモノトーンの格好だからか。
ワイシャツの襟元にチラリと見えるのは幾何学的な模様のネックレス。
男は笑みを浮かべたまま、コツンと一歩歩みを進めて凛に近づいた。
「驚かせてすみません。それに触れることはご遠慮ください。」
「はっ…はい、ごめんなさい。ちょっと、あの、見たこと無い置物だったので…」
凛はまだ急に声を掛けられた衝撃で心臓が踊っていた。
思わずしどろもどろになってしまっている自分が悔しいので、すぐに立て直す。
「失礼しました。ここはお茶屋さんですか?灯りがついていたので入ってしまいました。もしも個人のお宅でしたら申し訳ありません。すぐに出ていきます。」
それまでの空気を一瞬で塗り替えるような完璧な応対と態度。
凛にとっての理想の大人モードは、いついかなる時でもスイッチが入るようになっている。
まだ心臓はバクバクと焦りはあるが、ここでしどろもどろになってはいけない。
凛は本当に個人宅だったらどうしよう、と密かに焦っていた。
男はゆっくりと首を横に振り、凛を品定めするような、それでいてどこか遠くを見つめるような不思議な視線を向けた。
「いえ、間違いではありませんよ。ここは茶室です。……もっとも、あなたが想像しているような、ただ喉を潤すためだけの場所ではありませんが」
男はそう言うと、凛の横をすり抜け、先ほど彼女が触れようとした三本足の置物の前で足を止めた。凛は、その無駄のない所作に、言いようのない圧迫感を感じて身を硬くした。
(この人、何……? 優しい顔をしてるけど、実体がないみたいに静かすぎる。……何者なの?)
「これは香炉(こうろ)と言いましてね。触れることはご遠慮ください。中には『知識の火』が灯っていますから」
「……失礼しました。お宅だとしたら申し訳ないので、すぐに失礼します」
凛は即座に、100点満点の「申し訳なさそうな顔」を作った。
一刻も早く、この空間から、この男の視線から逃げ出したかった。
「帰り道はあちらですが……そのまま帰れば、君の脳は今日中に、文字通り『発火』しますよ」
男が指さした方向とは逆に、凛の足が凍りついたように止まった。
「……何のことですか?」
「君から発せられているエネルギーが、ひどく不協和音を奏でている。完璧でありたいという『理想』が、本来の自分を檻に閉じ込め、窒息させている音です」
目の前の男が言っていることは、凛には全く分からなかった。
エネルギー?不協和音?何かのインチキ宗教か?
普段だったらこの手の話は絶対に耳を貸さないし、すぐに立ち去る。
宗教なんて心の弱い人間が陥る幻想で、自分を保てない人間がすがりつく最後の希望と思っているからだ。
だが凛はこの男の言っていることの後半部分に心を打たれてしまった。
思い当たる節がある。
自分が追い求めてきた理想の自分は、常に表現することができる。
完璧であることを自分に義務付けて、本来の自分を閉じ込めて生きてきたかもしれない。
あまりにも完璧主義が過ぎて、ここ最近は本当の自分の望みも分からなくなってきているのは事実だ。
同じ毎日の繰り返しの中で、自分という存在そのものが溶けて無くなるような感覚。
自分が作り出した完璧な自分こそが世に必要とされ、本当の自分は最初からいなかったような錯覚にさえ陥る。
いや、むしろ居ないほうがいいとさえ思う時もある。
表向きは全くなんとも思っていないフリをしていても、心の奥底では泣き叫ぶほど傷ついていることもある。
そんな自分なんていらない、消えてしまえと思うこともあった。
つまる所、凛は自分のことは大嫌いなのだ。
男は今度は畳の茶室の方を指差して話を続ける。
「座りなさい。……君が何者で、どんな過去を歩んできたのかは、私にはわかりません。ですが、君が今、この瞬間に『消えてしまいたい』と願うほど、自分自身を呪っていることだけは、この空間が教えてくれる」
凛の心臓が、痛いほどに跳ねた。
商店街で、誰にも聞かれぬよう、独り言のように呟いた言葉。
あの時周りに人は居なかったはずだが、この男はきっと身を潜めて聞いていたのだと想像すると無性に怒りが込み上げてきた。
いや、聞かれたことそのものへの怒りではない。
自分の弱さを他人に見られたことが恥ずかしく、悔しいのだ。
「……盗み聞きですか。最低」
面と向かって人を非難したのは何年ぶりか、と凛は笑いたくなった。
理由は分からないが、目の前のこの男は全力でぶつかっても良い気がしていた。
「いいえ。私は盗み聞きなどしていませんよ。君がここへ辿り着いたという事実は、君の潜在意識が、その回路の修正を求めた…ただそれだけです。そして私には君の中の本当の君が見えている。」
男は、凛の侮蔑を柳に風と受け流し、畳のスペースへとゆったりと腰を下ろした。
「君の脳と精神は、今夜自死を選びます。しかし君は誰にも助けを求められない。だからここに導かれて来てしまったんです。」
私が?自殺する?
凛は耳を疑ったが、実の所怒りは湧いてこなかった。
もしかしたら、本当にそうだったのかもしれない。
特に物凄く悲しいわけでもない。死ぬほど嫌な事があったわけでもない。
でも生きているという事がこんなにも辛く感じている。
本当は時々、考えたこともあったくらいだ。
怒りの代わりに猛烈な切なさが胸を締め付ける。
さっき初めて会ったばかりの男で、他人、正体不明。
そんな男の前で。
論理的に考えれば有り得ない事だが、凛は自分が泣きたがっているのが分かった。
凛はせき止められたダムが崩壊したかのように、言葉を絞り出す。
「……私は、自分でおかしいのは分かってるんです。でも、私は私の力で、完璧な自分を作ってきた。仕事も、人間関係も、全部……!でも苦しい!苦しいの!求められる自分の理想が分かるの!相手が何を考えているか分かるの!だからそれに応えるの!何がいけないの!?どうして私は苦しいの!?どうして消えてしまいたいのっ!?どうして私だけがおかしいの!?」
夜勤明けの寝不足も重なり、凛の脳は完全に麻痺していた。
理想とする自分の論理性は息を潜め、まるで駄々をこねる子どものように泣きじゃくる。
感情の爆弾があったとしたら、こんな爆発をするのだろう。
凛はどこか遠くで今の自分のことをそんな風に思った。
男は立ち尽くしたまま泣き叫ぶ凛を見て、笑顔を絶やさない。
「完璧を目指すその努力は立派だ。きっと多くの人間の希望になっていたかもしれません。しかし、その『完璧』は、君を救っていますか?君自信はその『完璧』に救われたことはあるんですか?」
男の問いは、鋭い刃物のように凛の防壁を切り裂いた。
「君を救えるのは、君だけです。私はそのための方法を提示し、君が自分にかけた『言葉の呪い』を解く手助けをするだけだ。自分という名の牢獄から出る鍵を、自ら回す覚悟はありますか?」
凛は、呼吸を忘れていた。 あまりにも傲慢な言い草だった。
心の一番触れられたくない部分にズカズカと入り踏み荒らした癖に、今度は突き放す。
自分で歩け、と言う。
なのに、彼の言葉の一つ一つが、重い蓋をしていた自分の「虚無」に、冷たい水のように染み込んでいく。
この場所から一歩でも出れば、またあの「完璧な自分」を演じる、仮面の生活が待っている。 でも、ここで靴を脱げば、何かが変わるのかもしれない。
正直、未だに何もかもが意味が分からない。
この男が一体何者で、この茶室はなんなのか。
なぜ自分の心の中が見透かされているのか。
なぜ自分が目の前で感情を爆発させてしまったのか。
これから自分はカウンセリングでもされるのか。
何もかもが分からない。
でも凛にはたった一つだけ分かることがあった。
目の前でニコニコと微笑んでいるこの男は、悪い人ではない。
少なくとも詐欺師ではないと思うし、頭のおかしい人とも思えない。
言葉に重さがあるし、何か見えないエネルギーを感じる。
「……茶室ならお茶、出してくれるんじゃないの?」
絞り出すような声。
それは、凛が25年間で初めて、他人に対して見せた「降伏」の合図だった。
男は、わずかに目尻を下げて微笑んだ。
「はい。とびきり苦くて、清らかなお茶を淹れましょう。」
凛は、ふらふらとした足取りで畳に上がり、男の正面に座った。
ブスッとした表情でむくれながら凛は横目で男の方を見ている。
男は手慣れた様子で抹茶を入れる準備を始めつつ、自己紹介を始めた。
「改めまして、私は暁月と申します。」
暁月は、凛の不機嫌な視線を真っ向から受け止めることもせず、かといって無視するでもなく、ただそこに「在る」という自然さで座っていた。
「……凛です。名字は教えません。まだ良く知らない他人だし、土足で踏み込まれるのは嫌いなので」
「それで構いませんよ。名前というラベルよりも、今この瞬間に君がここに座っているという事実の方が、私にとっては重要ですから」
暁月は、手際よく茶碗を温め始めた。茶道具が触れ合うカチ、という乾いた音が、静まり返った茶室に心地よく響く。凛はその音を聞くたびに、脳の奥の腫れが少しずつ引いていくような錯覚を覚えた。
「……さっき、私が今日中に死ぬって言いましたよね。それ、本当ですか?」
凛は、少し投げやりな口調で尋ねた。自分でも信じられないほど、声が掠れている。
「正確に言えば、君の脳内にある『生存システム』が、限界値を超えてシャットダウンを求めているということです。古神道の言葉で言えば、君の魂が肉体という器を脱ぎ捨てて、自由になりたがっている」
暁月は茶杓(ちゃしゃく)を手に取り、鮮やかな緑色の粉を掬った。
「君はこれまで、他者の望む『凛』を完璧に提供することで、自分の居場所を確保してきた。それは高度な技術ですが、代償として本来の君のエネルギー……『言霊の力』をすべて偽りの自分を維持するために使い果たしてしまった」
「……言霊?」
「言葉には、現実を形作る力がある。君が自分に『私は完璧でなければならない』と言い聞かせ続けてきた結果、脳はその通りに回路を固定した。でも、心はついていけなかった。そのギャップが、君を殺そうとしているんです」
暁月が静かにお湯を注ぐ。茶筅(ちゃせん)が小気味よく動き、ふくよかなお茶の香りが立ち込めた。凛は無意識に、深く息を吸い込んだ。
「さて、凛さん。信じられないかもしれませんがこの茶室は、宇宙のデータベースと接続された『対話の場』です。ここを出るまでに、君に一つだけ決めてもらいたいことがあります」
普段聞き慣れない言葉の連続に凛の脳はそれだけでパンク寸前だった。
古神道?宇宙?言霊??
かろうじで「言霊」の意味が分かる程度だったが、暁月は本気で言っているようだった。
しかしなぜかその言葉には妙な説得力がある。
暁月は、泡立ったお茶を凛の前に差し出した。
「君の人生を、そのまま『完璧な地獄』として終わらせるか。それとも、私の出す問いに答え、脳の回路を一つずつ書き換えて、自分自身を解放するか。……君に、その覚悟はありますか?」
凛は、目の前の茶碗を見つめた。 漆黒の器の中に広がる、鮮やかな緑。
それは、自分が今まで決して見ようとしてこなかった、自分の内側の「深淵」のようにも見えた。
「……私、あなたに弟子入りすればいいの? そうすれば、この苦しさから抜け出せるの?」
「弟子、ですか。面白い表現だ」
暁月はわずかに口角を上げた。
「教えることは何一つありませんよ。ただ、君が自分自身の正体に気づくための『問い』を出し続けるだけです。……それでもよければ、君の物語を、今日からここで書き換えましょう」
凛は、震える手で茶碗を手に取った。 重い。温かい。 ゆっくりと一口、その「清らかな苦み」を喉に流し込む。
(苦い……。でも、なんでかな。涙が出るほど、甘い気がする)
飲み終えた凛が茶碗を置いた時、路地裏を流れていたひんやりとした風が、彼女の頬を優しく撫でた。
「……よろしくお願いします。先生、でいいのかな」
「暁月で結構ですよ」
「やだ。暁月先生って呼びますね。その方が弟子っぽいですから。」
今度は少しいたずらっぽく笑う凛に、暁月は少し苦笑いしながら、首をかしげた。
「まったく、強情な方ですね。凛さん。」
こうして、夜勤明けの介護士・凛と、謎の男・暁月の、奇妙な師弟関係が始まった。
それは、凛が「完璧な死体」から「不完全な人間」へと再生するための…長い長い対話の始まりでもあった。
今日のところは、と凛が僅かに元気になった顔で帰った後、暁月は一人茶室の窓から景色の変わらない空を見ていた。
夜明け前の空に大きな満月が浮かんでいる。
遠くの山の頂上には大きな鳥居。
そこに向かって黄金色の蝶が数匹、羽ばたいていくのが見えた。
凛はきっとまだこの茶室が現実に存在すると思っているのだろう。
ここに迷い込む人間は、この茶室を必要としているからこそ訪れる。
(恐らく彼女が最後のお客さんになるんでしょうね…)
今度は抹茶でなく、ゆっくりコーヒーを飲む暁月の手が、少し震える。
(私がコーヒーを飲み始めたのは、何歳の時だったのか…)
香炉からはゆっくりと煙が立ち上り、金木犀の香りを茶室いっぱいに広げている。
コーヒーの香ばしい香りとのミスマッチに、暁月は困ったように笑った。
第0話 出会いとはじまりの不協和音 完
暁月の茶室-凛救済編- @ryodo_mochizuki
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