カライドサイクル
ネコタ斑猫
異端者の娘、そして医者であるその夫の秘密について
夢を見ていた。
父が殺されたときの夢だ。
それまで治療のお礼にと蕪やキャベツを持ってきてくれていた一家が、治療空しく亡くなった遺体を検分した後に父をなじり、農具で刺し殺し、その後火あぶりにした。
父はもう死んでいたのに。
そのとき、家で飼っていた山羊が、火を恐れずに近寄って来て、父の死体が火あぶりにされるところをじっと見ていたのを覚えている。
若い雄の山羊だった。
私は一度は修道院に預けられた。そこでの暮らしは全く快適ではなかった。踏み越えたいと思った境界を踏み越えることを躊躇わなかった父に育てられた私は、世界に踏み越えられない境界などないと思っていた……父がそのために亡くなったというのに! 神に与えられた境界を踏み越えずに粛々と生きるのが宗教だとすれば、その先を見るために境界を踏み越えることを躊躇わずに生きることもまた一種宗教的な人生だろう。勿論そんな理屈を修道院が認めるわけもなく、私はいつも食事を減らされ会話を禁じられまた部屋から出ないよう命じられた。
私には、好きな作業を心から嫌っているふりをし、退屈な作業を好もしく思っているふりをするだけの知恵があったから、罰として与えられる課題を自由に選ぶことができた。私は写本が殊の他好きだった。どのような内容であれ閉じられた修道院に流れ落ちてくる新しい知識の群れだったからだ。私が新しい本を写すのをわざとらしく嫌がって見せたので、皆喜んで私にそれらを押し付けた。涙ぐんで見せたのはほんとうだ……父はきっとこれらの本を読みたかっただろうから。
勿論私は古い本を写すことから完全に逃れられたわけではなかった。聖書にある程度忠実な医学書の人気は高く、私は何度もそれを引き写した。私は父の研究を手伝っていたから、人間の中身がどうなっているかについてはそこいらの医学生より正確な知識を持っていたと思う。私はたまにこっそり正確な人体の構造についての記述を紛れ込ませたりしたが、案外きちんとしている検閲のせいで結局修正する羽目になった。この本で学んだ医者は一体どんな治療をするのだろうと思っていた。父は、学校で医学を学んだものは人体には触らない、実際に治療を施すのは刃物を扱うのに長けた職人で、大抵は床屋だと言っていた。成程、床屋なら安心して刃物の扱いを任せられそうだ。
医学書への悪戯も飽きたころ、大怪我をした修道女の治療に来た医者が、写本士に会いたいと面会を求めてきた。格子越しの面会室で検閲をすり抜けたらしい医学書を示され、何故正確な人体の構造を知っているのかと聞かれた。私はそれに答えるには条件があると伝えた。
「できはしないでしょうけれども」
果して条件は満たされ、私は医者の自宅でなぜ正確な人体の構造を知っているかを答える羽目になった。私は自分が異端者の娘であることを話した。父が亡くなった患者の遺体を少しだけ多めに開いては研究していたこと、そしてそれがもとで父が殺されたことを。
実はその日まで父の所為は近所の人たちからも神父からも咎められたことはなかった。父は医学校を出た後色々あって村に落ち着いた人で、その治療は民間療法より効果があったから、治療の後の多少の逸脱は大目に見てもらえていた。
最後に父が診た患者は、神父も引くほど熱心な信者一家の一人だった。治療空しく亡くなった患者のご遺体を父はいつものように少しばかり多めに開き、結果甦るべき肉体に必要以上の傷が付いたと咎められた。引き取りに来た家族たちの、怒りで歪み切った顔を私は今でもよく覚えている。
父はあの家族の治療を断ってもよかったのではないか?
(その選択肢は父の人生に存在しない)
では父は解剖を我慢すべきだったのか?
(それはそう。
余人とは違う扱いをすべきだった。
何故なら彼らは、とても熱心に信仰していたのだから。
父は彼らの信仰をこそ尊重すべきで、己の好奇心を優先すべきではなかったのだ)
かくして父は藁のようにたやすく農具に貫かれそのまま仮置き中の薪の上に投げ出されて焼き上げられ、私は慄きながら私を保護しにきた神父によってその場から連れ去られた。数日後に修道院に預けられてから私はずっと石壁の中だ。
「そんなときでも私は、今までの父の所為を踏まえると、これらはいつか起こりうることだったと考えていたの。そうして私は、父の体のどこからどの程度血が流れるか、焼かれたときにどのように皮膚が変容していくかを観察することを止められなかったわ。
父がそうであったように。
あなたも私を殺す? 」
私は若い医者に聞いた。
医者は私をじっと見た。そのまなざしにはどこかで見覚えがあった。だがそのときはまだ思い出すことができなかった。
それから私は医者の自宅で助手を務めることになった。私そして私の父がそうであったように、彼にとって神が定めた境界は存在しないようで、それがとても懐かしく好もしかった。彼の書斎には恐ろしいほどの量の稀に逸脱した内容の本があり、私はそれを自由に読む権利を与えられた。彼は私をどこでも望むところに連れて行き何でもさせてくれた。その先々で出会う動物は大抵彼をひどく恐れる様子を見せたが、一部の山羊はなぜかやけになれなれしく彼にまとわりついてきてそれもまた面白い眺めだった。
そのうち私は彼の妻となった。私は何度も彼の肌に指を滑らせ、その骨を辿り、血管の脈動を数えた。とりわけ私が好きなのは彼の骨格だった。今まで見た誰よりも完璧で美しかった。頭骨の後頭部のふくらみも、もし死んだら綺麗に掃除してとっておきたいくらい愛おしい。だが何より私が愛しているのは彼の肋骨だ。
彼の肋骨は一本足りない。
それは、私が正確な解剖学の知識を持っているということを知っている彼からの、静かで、しかし確実な情報開示だ。
気づいたのは初めての夜のことだった。そして肌を重ねる都度私はそこに傷跡がないかを検分し続けた。彼は私が検分していることとその動機に気づいているだろう。だが常と変わらぬ表情で気に留めぬふりをしている。
アダムの肋骨。
私は閨で彼を見上げる。見上げながら神に抜き取られたと伝えられている部位を確かめる。現実の人間には必ずある骨がしかし彼にはない。彼は、解剖学的に正確ではない聖書に忠実に己の体を拵えることで神を愚弄している。そのやり口がいかにも皮肉で私は好きだ。
彼は私がことさらにその部位を撫ぜ触れることを黙って受け入れている。そのときの彼の瞳孔はうっかりすると横に伸びそうな気配を見せるのでどきどきする。
私は彼を正気に戻そうとそっと囁く。
「私の何があなたをそんなに魅了したの? 」
彼は心づいたように微笑み、繰り返し優しく私に口づけながら囁く。
「好奇心だ。私たちはいつだって、人間の好奇心を愛している。知へのとどめられない欲望を愛している。他の欲望を顧みず、知への好奇心のみを己の人生の指針として生きている人間こそ、私たちが愛おしみ、慈しみ、護るべきものなのだ」
彼はきっと私の好奇心を満たすためなら何でも答えてくれるだろう。だから私のとっておきの好奇心は死ぬ間際までしまっておくことにしよう。
(ねぇ、あなたは、あのときの山羊で、そうして本当は悪魔なんでしょう? )
そして私は、人外と長く暮らした女として、満たされた好奇心と共に深く満足して生を終えるのだ。
終
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