雪の娘
渋谷滄溟
雪の娘
満は登山家の青年である。物静かで世俗を嫌う彼は、仕事の合間に休暇を取れば一人で登山ばかりしている。そんな彼が今回目をつけたのは、北陸地方のある低山である。気候は年中低いが、ゴールには絶景が待っていると。ただ登山者は少ないらしい。噂によれば熊だとか、妖怪が出るとか。
下らない。満はそれら噂を一蹴し、早速山に向かった。電車を乗り継いで辿り着いたそこは辺境の田舎の地である。秋の始まりである今では紅葉が景観に化粧をしていた。これはいい。満が山に向かって足を踏み出したところ、ふもとで手ぬぐいを被る老婆に声をかけられた。
「お兄さんや、まさかこの山を登るのか。」
「それがどうしたのですか?」
「やめたほうがいい。この山は人を殺す雪女が出る。行ってはいけないよ。」
雪女?満は首を傾げた。不意に愛読する近松門左衛門の「雪女五枚羽子板」が頭に浮かぶ。あんな空想上の怪女が存在するとでも…。満は呆れた顔で老婆の話を振り払った。登山に慣れた彼にとって、この山は楽々であった。数時間の末、ようやく着いた頂上はネットの評価以上の絶景であった。満は笑みを浮かべ、スマホを取り出し、それを記念に残そうとした。しかし不注意にも、後方の土の緩さに気づけなかった。
「うわぁ!」
満はそのまま転落した。鋭利な木の先が彼を傷つけ、右足も蔦に絡まり捻挫した。そのまま転がり、漸く安定した地に止まることができた。体中が痛い。特に右足の惨状では下山など不可能だ。スマホも何処かに落としたらしく、手元にない。絶体絶命だ。
満は悔しさや恐怖のうめき声を挙げると、突然、周囲の茂みが揺れた。まさか熊か?満は冷や汗をかいて、その方向を見た。すると枯れた草木の中から、女が現れた。満は彼女を見た途端、目を見張った。
女は美しかった。雪のように青白い肌に、小柄な背丈。褪せた着物に身を包み、長い髪は腰まである。極めつけは、その憂いを帯びた人形の如き無機質な美顔。満は固唾を飲んで思った。あの老婆が言う雪女は、この乙女であったのか。確かに、女には見ていると生気を取り込まれそうな気配がある。しばし満が見惚れていると、女が口を開いた。
「殿方、怪我をしているの?」
「あ、ええと、はい。頂上から転落して、いま動けないんです。」
満の回答に、女はしばし黙ると彼に差し伸べた。
「家がすぐそこにあるわ。来て、手当てしてあげる。」
彼女はそう言うと、肩を貸して満を起き上がらせた。その時、満は女の肌の冷たさに驚いた。そういえば、この地は極寒で有名なのに彼女は全く着こんでいない。目を丸くする彼に、女は妖艶な笑みを向けた。満は赤面し、女に導かれていった。
女の名前は、ユキコ。両親を早くに亡くし、学校にも行かず山でずっと一人暮らしをしているらしい。食料はふもとの村民達が調達してくれるらしい。彼女の家は二部屋の日本家屋で、大きな窓がある部屋と囲炉裏がある部屋があった。満は囲炉裏の部屋に寝かされ、薬草や白布で手当を受けた。その間もユキコの一挙手一投足にドギマギした。
夜になると、彼女は美味い粥を作ってくれた。満は十分満足したところ、時間は真夜中になり、二人は寝る準備を始めた。満は囲炉裏の部屋、ユキコは窓の部屋に布団を敷いた。満は聞いた。
「ユキコさん、そちらは寒いです。代わりましょう。」
「いいえ、いいの。私はここがいい。」
ユキコは首を振ると、窓が全開になった部屋の戸を閉めた。不審に思った彼は戸越しに聞いた。
「なぜ?風邪をひきますよ。」
するとユキコの籠った声が返ってきた。
「満さま、私は寒い場所でしか生きられないの。温かいところでは、体が弱ってしまう。だから私はこの山に住んでいるし、夜は寒風に打たれて眠りにつくの。」
満は彼女の不思議な生態に驚いた。極寒の地でしか生きられぬとは随分変な人だ。満は彼女が気になったが、取り敢えず今晩は床についた。
捻挫の程度はひどく、あと数日は動けそうもない。満はユキコに申し訳なく思い、彼女の縫物や野菜の皮むきを手伝った。その際、彼女は沢山語ってくれた。自身が生まれつき熱に弱い体で両親ともにこの寒山に永住することに決めたことを。しかし両親は病で亡くなり、それからずっと独りぼっちで生きてきたことを。
「この家に人が来たのは久しぶりだわ。」
ユキコはそう口元を綻ばせた。彼女は第一印象と違って、よく笑う女だった。満はそんな多面的なユキコにまた一つ、惹かれていった。怪我の完治が遠のいてほしいくらいに。しかし時間はあっという間に経ち、満の捻挫も傷も綺麗に治った。ユキコの元を去るときが来たのだ。
「もう行きます。」
白布を取り外した朝、満が絞り出して言うと、ユキコははっとして朝食用に剥いていた里芋を落した。そして暫し俯くと、また憂いな瞳で彼を見た。
「見送りをさせて。」
勿論、と満は彼女と連れ立って玄関口まで行った。満のコートの襟口を、ユキコは細い指先で整えた。満はその時の彼女の冷たい体温がどうしようもなく心地良かった。そして彼は家から踏み出していった。ふと聞こえたすすり泣きは小鳥の戯れだったのだろうか。
ふもとまで辿り着いたとき、満はあの手ぬぐいの老婆に再会した。老婆は彼に挨拶がてら聞いた。
「お兄さんや、ユキコという娘に会ったかい?」
「ああ、会ったよ。綺麗な人だった。」
満が頷くと、老婆は俯いた。
「あの子はね、可哀想な子だよ。何でも、温かいところでは死んでしまう体なんだ。だからこんな寒くて、何にもない山に住むしかないのさ。ワシらもよく気にかけて面倒を見とるよ。この辺のワシらが流す雪女の噂だって、あの子の静かな暮らしを守るための人避けさ。」
満は老婆の話から雪女の話の辻褄があった。村民達はユキコを守るために、雪女という怪物を作り上げたのだ。満はふと気になって、口を開いた。
「ユキコさんは、これからもずっと一人なのでしょうか?」
「そうだろうね。あの子の体を分かってくれる人間は少ないだろう。」
老婆の返答に、満は口をつぐんだ。満の訪れに喜ぶユキコの笑顔。あの眩しい笑みがどうしても頭を離れてくれない。彼女はこのまま独りぼっちで一生を終えるのか。こんな寒い山で毎晩夜を明かしていくのか。満はそう思うと居ても立っても居られなくなり、来た道を再び駆け出した。青年の背を、老婆は止めようとはしなかった。
「満さま?」
満がユキコの家に戻ったとき、彼女は草刈りをしていた。荒く息をする満に、目を丸くする彼女を、満はふらりと近づいて抱き締めた。赤面して身じろぎする彼女に彼は語りかけた。
「俺は、あなたに惚れてしまった。あなたを一人にさせると思うとどうしようもなく苦しくなった。俺ならユキコさんの体質を理解してあげられます。だからユキコさん、どうかあなたの傍にいてもいいですか?」
一心に訴える瞳に、ユキコは耐えられなくなり、その頭を彼の胸元に寄せた。
「寂しかった。誰もいない山で一人なんて。でもあなたならいいわ。お願い、私を愛しているならずっと隣にいて。」
「勿論ですとも。」
そうして満は仕事を休職し、ユキコの家に身を寄せた。二人は夫婦になり、狭い小屋で二人だけで祝言を挙げて、初夜をともにした。山での暮らしは満にとって厳しいこともあったが、妻の存在や知恵により乗り越えられた。そして季節は秋から冬を超え、春となった。村では温かい日差しが降り注がれているが、この山は相変わらず肌寒い。小屋の隣で満が畑の手入れをしていると、戸からユキコが出てきた。
「ユキコ、いまは日が強いから出てきてはいけないよ。」
満がそう声をかけても、ユキコは山のふもとをじっと見つめている。そして彼女は夫を見つめた。
「ねぇ、あなた。ふもとではどんな花が咲いてるの?」
「花?そりゃあこの時期じゃ桜に、たんぽぽ、菜の花かなぁ。」
「見てみたい。」
「え?」
満が呆然とすると、ユキコはふっと笑みを浮かべた。
「私、下に降りて、あなたと一緒に春の里を見てみたい。」
「ダメだ、そんなことしたら、君は春の温かさで…。」
「いいの。私、あなたと過ごしていたら死よりも、この世界の温かさに触れてみたくなった。」
お願い、という妻に満はほろりほろりと涙を流して頷いた。二人は手を繋ぐと山を少しずつ下りた。道中、桜の列が彼らを歓迎する。
「綺麗ねぇ。」
ユキコがその花びらを追い、手を泳がす。気温が高くなってきた。満は妻の力が弱くなるのを感じ、次の瞬間にはユキコは息を荒くしうずくまった。彼は妻を抱きしめた。
「引き返そう。」
「もう少し。」
満は妻を抱き上げて、進んだ。ユキコの目は閉じられ、呼吸が小さくなった。
「がんばれ、ユキコ。ふもとまでもう少しだ。」
「あなた。」
ユキコは夫の頬に手をやった。冷たい、これ以上ないくらい。満はこみ上げる気持ちを押さえ、妻に穏やかな笑みを向けた。すると彼女は消え入るような声で呟いた。
「ありがとう、あなた。独りぼっちの私と一緒になってくれて、私の傍にいてくれて…。」
その時には既にユキコの手は滑り落ちていた。満はその手を拾いなおし、妻を掻き抱いた。雪女と思った彼女は、春の陽気に消えゆく雪の一欠片だったのだ。
それから山では雪女の噂が消え、登山客も多くなった。しかし、観光客はたまに一人で小屋で生活する老人を見かけるらしい。老人は妻を亡くしてから一人だそうだ。しかし、ある日、登山者の一人が小屋に迷い込んだところ、凍死している老人を発見した。
老人は朽ちた女用の着物を抱きしめたまま、冷たくなっていたらしい。
雪の娘 渋谷滄溟 @rererefa
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