熱に浮く――03

 夜の帳が下り、庭を飛んでいた蝶も姿を消した頃。ニックは汗を噴き出しながら、全身を襲う異常な寒気に打ち震えていた。


 身体の修復による発熱か。昼間と同じ食事を持って部屋を訪れたヨハネスは呟く。妖精たちの手も借りて屋敷中のシーツをかき集めたが、どうにも心許なく思えて仕方がない。

 高熱に加えて、少し収まっていた全身の突き刺すような痛みがぶり返したのだろう。時おり、引き攣ったように身体を硬直させては苦悶の表情で歯を食いしばるニックの姿はとても痛々しく、目を背けたくなるほどだ。


 ヨハネスはチェストに水差しを置くと、「解熱剤だよ」と言って痛みでなかなか意識を飛ばせないでいるニックに呼びかける。しかし、今のニックには薬の服用すら一苦労だろう。現に、目の前に差し出された薬を一瞥して、「あとでのむ」と弱々しく目を閉じるのが精一杯のようだ。

 昼間の元気が嘘みたいだ。ヨハネスの胸の中が不安と恐怖で埋め尽くされる。


 ヨハネスはどこか冷めたような顔で逡巡した後、ニックに飲ませるはずの薬を自らの口に放り込んだ。次いで、薬を飲み込むには十分な水を含むと、熱と痛みでまともに身動きが取れないニックの上に、体重をかけないよう覆い被さった。


「あ……ッ⁉」


 いきなりのことにニックは口を半開きにして声を漏らす。これ幸いとヨハネスはニックの顎を掴むと、何の躊躇いもなく彼の唇に自身のそれを重ねた。

 驚いて目を見開くニックを無視して、ヨハネスは薬と水を彼の口内に流し込む。

 予想もしていなかった出来事に、ニックは頼りなくシーツを握り締めることしかできなかった。予想できていたとしても、怪我と熱で身体をろくに動かせない今、それ以外の反応を示すことは不可能に等しいのだが。


 ヨハネスは薬と水をニックの口の中に移し終えると、素早く彼から顔を離した。吐き戻さないようニックの口を手で覆う。せめてもの反撃すら叶わなくなったニックは、鼻の奥が痛くなるのを感じた。


「解熱剤だよ。飲み込んで」


 昼間と同じく、こちらの身を案じるような物言いをされる。ただでさえ高い体温が、屈辱と憤りでさらに上昇するのがいやでも分かった。


「……力を利用すれば、薬を無理やり腹の中まで流し込むこともできるんだ。でも、それは多分、ひどく気持ち悪いだろうから。頼むよ。乱暴なことはしたくない」


 お願いだから。

 やっていることとは対照的な、縋りつくような切ない物言い。あまりのちぐはぐさに、頭がこんがらがってしまう。


 なにが乱暴なことはしたくないだ。もう乱暴しているだろうが。


 口を塞がれた状態では、そうやって毒づくこともままならない。

 垂れ下がった黒髪の隙間から、ヨハネスの青い瞳が僅かに覗く。昼間、どこまでも澄み渡る清々しいまでの青に見えていたそれに、強く深い懇願の色が滲んでいるように見えて――ニックはヨハネスを睨み付けながら、喉を逸らして、口の中に流し込まれたものを、確かに飲み込んだ。

 ニックの喉が大きく上下するのを確認してから、ヨハネスは彼の口から手を離す。飲み切れなかった水がニックの口の端からこぼれ出て、枕に染みを残した。


「てめェ……ッ」

「次は痛み止めだよ」

「は、ァ……⁉」


 ほら口を開けて、と再び薬と水を準備するヨハネスの――神官の考えが、ニックには理解できなかった。


「い、いい! あとで飲む、自分でっ」


 野郎に口移しされるなんだ、二度とごめんだ!

 ヨハネスは冷静な表情と声音で、「言うことを聞いてくれ」と言い放つ。先ほどまで見せていた、泣きつかんばかりの面持ちはなんだったんだ。目の前の男のに動悸が激しくなる。

 全身に鋭い痛みが走るのも厭わず、シーツの中に隠れようと身を捩った。しかし軽く引っ張り返されて、あっけなく元の体勢に戻ってしまう。あまりの情けなさにニックは目頭が熱くなるのを堪えられなかった。


「ほら、口を開けて」

「いいって言ってんだろ! なんなんだよ、あんた! いいから、薬と水置いて出てけよ!」

「ニック」


 口を開けろ。

 低く冷たい声だった。昼間の、朗らかで、人当たりの良い笑顔を絶やさないヨハネスから発せられるそれに、肩が震える。

 一瞬、全身を駆け巡っていた痛みが鳴りを潜めて、代わりに心臓の周りを冷やされたような感覚に陥る。


 抵抗したいのに、身体が動かない。それが、ひどく悔しくて死すら享受したくなる。


 ニックは発熱によるものとは別の悪寒に身体を震わせながら、控えめに口を開いた。

 ヨハネスはその様子をしっかりと見届けてから、再び薬と水を口に含み、先ほどと同じ方法でニックにそれを与えた。ぎこちない動きではあったが、ニックは大人しくそれをすぐに飲み込んだ。


「偉いね」


 言いながらヨハネスはニックから離れる。

 ニックは喉をひくりと動かしながら、力なくベッドに身体を沈めるしかなかった。


「……無理をさせたね、今日はもう寝るといい。薬が効けば、朝には熱も痛みもマシになっているはずだよ」


 乱れてしまったシーツを一枚一枚直しながら神官は言う。聞き慣れた、朗らかで人当たりの良さそうな声だったが、ニックは何も返さなかった。


「……それじゃあ、おやすみ。なにかあったら呼んで」


 昼間と同じことを言い残して、ヨハネスは部屋を後にする。

 明かり一つない、暗闇に支配された部屋の中で、ニックは奥歯を噛み締めて打ち震えることしかできなかった。

 あんなにも優しかった男の豹変ぶりに。

 それに気圧されてしまった自分の情けなさに。

 依然、上がり続けているような錯覚を覚える、身体の熱さに。

 口の中に残る、薬の苦みと――男の温度に。


 *


 ヨハネスは洗面所へ駆け込むと、桶の中に張られた水に頭を突っ込んだ。水の中で自分へ対する罵詈雑言を、知っている限りの言葉で出し尽くす。

 息苦しさを感じた頃、水から顔を出してずぶ濡れのままその場にへたり込んだ。咳き込みながら背中を大きく震わせて頭と肺にどうにか酸素を送り込む。

 自分がしでかしたことを思い出しては猛烈な後悔と罪悪感、嫌悪感が芽生えて、衝動的に拳を桶に叩き付けた。


〈ばかー〉

〈あほー〉


 そう非難しながらヨハネスの頭上を旋回するのは二匹の妖精――白い小さな羽をはためかせるイベリスと、桃色の細長くうねった羽をはためかせるネリネだ。


「……分かってるってよ」


 水浸しになった頭を抱えて、どうしてあんなことをしてしまったのかと考える。けれど明確な答えは導き出せない。しいて言うならニックをラクにしてやりたかった。それだけだ。

 力を使えば痛みを抑えることも、熱を下げることもしてやれたが、それはあくまでその場限りの対処法なのだ。昼間に話した通り、最後には彼自身の回復力頼みになる。けれど、自分が彼に施した行為が正しかったとは到底思えない。

 いけない。そう思いながら、指の腹で自分の唇をなぞる。ニックの唇はかさかさしていた。それがひどく彼らしく思えて、なんだかおかしかった。


 嫌われただろうか。

 嫌われただろうな。


 そう思うと心が沈んで仕方がない。

 それと同時に、抵抗を諦めて全てを受け入れるしかなくなったニックの姿を思い出して――決して、他言するべきではない胸の高鳴りを感じてしまうことに、身体の中心に確かな熱を感じてしまうことに、自殺願望すら湧いて出る。


「っ、」


 ヨハネスは妖精たちに寝室へ戻るよう告げた。

 二匹の気配が遠退いたのを確認してから、ヨハネスは腰布をおもむろに緩めた。

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