ちゃんと死ねますように
雀野ひな
ちゃんと死ねますように
静かな、朝の学校。チュンチュン、と鳥の声だけが響く。
まだ、教室には誰もいない。ベランダで、外を眺めるわたしだけ。
手すりから身を乗り出して、下を見る。校舎の三階っていうのは、結構高い。
ここから飛び降りれば、いけるだろうか。飛び降りるというよりも、頭から落ちることになるか。本当は屋上がいいのだけれど、封鎖されているから仕方がない。
落ちるのはどんな気分だろう。ああ、やっぱり屋上がいいな。屋上からなら、鳥みたいに少しは飛べるかもしれない。
「なにしてるの」
突然の声に、わたしはバランスを崩す。
――あ、落ちる。
それはそれでいいか。もとから、そのつもりだし。
あれ、これって自殺? それとも転落事故?
どっちでもいいか。どっちでもいいや。
――ちゃんと死ねますように。
わたしは目をつぶる。けれど、スカート強く引っ張られながら、わたしは後ろに倒れ込んだ。
痛くはない。背後に温もりを感じる。
なんだろう。ちょっとだけ、落ち着くかも。
「……朝倉さん。大丈夫?」
耳元で声がして、咄嗟に前屈みになる。それから、その姿勢のまま振り向く。
クラスの男の子だった。名前は忘れた。けど、確か背の高い、穏やかな子だった気がする。
「大丈夫」
わたしは立ち上がる。スカートをはたいていると、彼も立ち上がった。腰が痛むようで、右手でさすっている。
「ごめんね、わたしのせいで。えっと……」
「立花だよ。席、斜め後ろの」
そう言われればそうだったかもしれない。いや、そうだ。思い出した。
彼はいつも、後ろからわたしに話しかけてくる。だから珍しく顔を覚えていたのだ。
「立花くん。えーっと、その、ありがとう」
わたしは頭を下げる。別に感謝はしていなかったけれど、そうするのが礼儀に思えた。
「いやいや、そんな。それで、こんなところで何をしてたの?」
わたしは迷った。正直に答えていいものだろうか。担任に言いつけられでもしたら困る。クラス中に知られても困る。
これ以上、浮くのは避けたい。ただでさえ、クラスでひとりぼっちな問題児なのに。
でも、彼のまっすぐな瞳を見ていたら、なんだか答えてもいい気がしてきた。
「落ちようと思ったの」
「え?」
直接的な表現は避けたのだけれど、うまく伝わらなかったのかもしれない。彼は首を傾げた。
「だから、その、ね。わたし、死のうと思ったの」
彼は最初、ぽかんとしていた。それから次第に、顔を青くしていった。
「そんな……死ぬ? 朝倉さんが?」
わたしは教室に戻って、自分の席に着いた。とは言っても、窓側の席だから大した距離ではない。
窓越しに、彼と目が合う。わたしは窓を開ける。
「人生ってさ、つまらないと思わない? わたしなんて、楽しいことひとつもないし、友達もいない。まあ、友達は欲しいとも思ってないんだけど」
彼は悲しそうな顔をした。わたしは続ける。
「わたしがいなくなったって、世界は大して変わらないし。このクラスだって、きっと一瞬空気が重くなるだけで、すぐ元通りだよ。もともとわたし、いないようなもんだったし」
「そんなことない!」
彼は窓枠に手をかけ、ぐっと乗り出した。彼の柔らかい前髪が、わたしのおでこに触れる。ちょっとくすぐったい。
はっとした彼は、ぱっと距離をとった。心なしか、少し顔が赤い。
「……そんなことないよ。話しかけないだけで、みんな、朝倉さんに憧れてるんだよ」
「憧れる? わたしに?」
「そうだよ。だって、朝倉さんって……その、綺麗だし。まつ毛が長くて、髪もさらさらで。儚げな雰囲気も、すっごくよくて……」
彼はみるみる顔を赤くする。ゆでだこみたいだ、と思った。
「それは、君の感想でしょう」
「違うよ。いや、そうなのはそうなんだけど」
わたしは、頬杖をつく。なんで、こんな話になったんだっけ。
「とにかく、朝倉さんはつまらない人なんかじゃないよ。とっても、素敵な人だよ」
そうか。わたしが「死にたい」なんて言ったからか。
周りの大人も、友達だと思ってた子たちも、わたしの「死にたい」をまず否定した。
生きていればいいことがある、死んだらきっと後悔する、君のためだ。何があったか知らないけど、生きることを諦めちゃいけない。
どうしてそう決めつけるんだろう。いつかいいことがあるとして、それといま死ぬこととは関係ないじゃないか。死んだら後悔もできない。何かあったわけでも、諦めたわけでもない。
わたしはただ、「死にたい」だけ。死に取り憑かれているだけなのに。
だけど、彼はそんなことは言わない。それどころか、わたしの良いところを並べ立てて。
きっと、いい人なんだろう。
「うん、そっか。ありがとう」
わたしは笑う。それで、いつも彼に話しかけられるときのことを思い出した。
楽しいことがひとつもないなんていうのは、嘘だったかもしれない。だって彼と話すと、いつもわたしは笑顔になる。彼と話をするのは、ほんの少し、楽しいのかもしれない。
だからって、わたしの願望が消えるわけではないのだけれど。
それ以降、彼は以前にも増して話しかけてくるようになった。わたしは適当な返事しかしないのだけれど、彼はいつも楽しそうだった。
「おまえ、朝倉さんのこと好きすぎだろ」
授業中、後ろからそんなささやき声が聞こえた。彼の声ではない。
「そうだよ。大好き」
違う声がした。間違いない。彼の声だ。
わたしは振り向かなかった。けれど、彼がどんな顔をしているのか、想像することができた。
朝早くに学校に行けば、必ず先に彼がいた。わたしを待つのが好きなのか、それとも死のうとするのが怖いのか、それは分からなかった。
「ねえ。どうしていつも、わたしより早いの」
少し気になったので、聞いてみることにした。
「また、死のうとされちゃ困るから」
そっちかあ。わたしは、小さくため息をついた。
そんなことをしても、意味はないのに。だって、死ぬ方法は他にいくらでもあるんだから。
「わたしね。わたしが死んだとき、心から悲しんでくれる人って、そう多くはないと思うの。君は、その数少ないうちの一人になってくれる?」
わたしに問いに、彼は優しく微笑んだ。
「朝倉さんは、いつも不思議なことを訊くね」
よく言われることだ。不思議なことを訊いて、よく人を困らせるらしい。
けれど、彼はそんなことにはとっくに慣れてしまったようで、困っているような様子はまったくなかった。
「ねえ。ちゃんと、悲しいって思ってくれるの」
「ぼくは、悲しいよ。朝倉さんの言う、心からの度合いは分からないけれど。それでも、ぼくは悲しいよ」
彼は穏やかに言った。
「そっか」
わたしは少し安心した。誰か悲しんでくれるのなら、わたしの死にも少しは価値がある。葬式で誰も泣いてくれないっていうのは、死んでいてもやっぱりちょっと寂しい。
そんなことを思っていたら、彼はわたしの顔を覗き込んできた。
彼の綺麗な瞳が、よく見える。
「だから、死なないでね」
ああ、困った。死なないでと来たか。
わたしは目を逸らす。けれど、彼は逃がしてはくれない。いつまでも、目の前にその瞳がいる。
「わかった、わかったよ」
わたしが観念すると、彼は満足そうに顔を離した。
「約束だよ?」
「わかった。とりあえず今は、生きておくことにするから」
それを聞いた彼は、なぜだか今にも泣き出しそうな顔をしていた。
死なないで、そう言われることが、ずっと嫌だった。それはいつも、わたしのためだと偽って、自分のエゴを押し付けてくる言葉だったから。
でも彼は違う。彼は、それが彼のための言葉であることを知ってる。分かったうえで、わたしにお願いしたのだ。
だから、わたしは死ねない。わたしに、彼が悲しむようなことは、できないから。
一か月後、彼は死んだ。放課後、トラックに轢かれて。
彼はぐちゃくちゃになってしまった。わたしを抱き留めてくれた身体も、おでこに触れた前髪も、あの綺麗な瞳も、原型を留めてはいなかった。
人の死を目にしたのは初めてだった。大切に思う人が死ぬことの辛さを、わたしはこのとき知った。
葬式には、わたしも参加した。たくさんの人が泣いていた。そのとき、わたしは初めて、彼が人気者だったことを知った。
わたしは泣かなかった。でも、彼にもう会えないのは悲しかった。心から悲しかった。
彼のいない世界は、本当につまらない。
わたしが死んでも、もう彼は悲しめない。
わたしの生きる理由は、もう存在しない。
朝のベランダで、わたしは手すりをつかむ。今日は、誰もわたしを止めたりなんてしない。「死なないで」なんて約束もない。
「ちゃんと死ねますように」
わたしは身を乗り出した。なのに、なぜか体は後ろに倒れ込む。
「……なんで?」
「だめでしょ。約束破っちゃ」
聞き慣れた声がして、振り返る。そこには、半透明の彼がいた。
「……立花くん」
「約束したじゃん。死なないでって」
わたしは泣いた。泣きじゃくった。彼に会えたのが嬉しくて。死ぬことができないのが悲しくて。
「ねえ。わたし、死にたい。死にたいよ」
「だめだよ」
「なんで? 君はもういない。わたしが生きる理由は、もうどこにもないでしょう」
わたしがそう言うと、彼はわたしを抱きしめた。
何も感じない。確かに触れているのに。抱きしめられているのに。
「ぼくが死んだせいで朝倉さんが死ぬなんて、それこそぼくは悲しいよ。いつか必ず、必ずぼくが迎えに来るから。だから、それまでは死なないで」
まただ。またそうやって、彼はわたしに呪いをかける。わたしを死ねないようにする。
「ずるいよ、ずるい。わたしが、君を裏切れないのを知ってて」
「そうだよ。ぼくはずるい。ぼくはそういう人間だよ」
わたしは怒っていた。だって、死にたかったのに。こんな世界から、消えてしまいたかったのに。
「ひどいよ。ひどすぎる」
こんな思いをしてまで、なんのために——
「……なんのために、わたしは君を押したっていうの?」
ひんやりとした風が吹く。鳥が、チュンチュンと鳴いている。
半透明な彼は、大きく目を見開いていた。
その瞳は、相変わらずとっても綺麗だった。
ちゃんと死ねますように 雀野ひな @tera31nosuke
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