揺らぎの軌跡 side Physics Lab.
研究室の窓から見える夜空は、都会の光に負けて星をほとんど見せてくれない。モニターに映し出された素粒子の衝突データを眺めながら、私は無意識に鼻歌を歌っていた。
「あれ、これ……」
スマホの動画アプリが勝手におすすめしてきた動画。
サムネイルには『亡き王女のためのパヴァーヌ ―宇宙の果てから―』という文字と、どこか懐かしい合成音声のアイコン。
投稿者:元粒子加速器エンジニア(60)
あの頃タレスのエンジニアと聴いたのをふと思い出して
還暦ジジイが気まぐれで作ってみました
「えっ?大先輩じゃない。」
「AIのオススメって、なんか私の事バレてるみたいでちょっと不気味だよね」
「AIの中に、高次元存在がいて、もしかしたら宇宙のこと、全て知ってるのかも………なんてね」
独り言を言いながら、再生ボタンを押すと、あの優しいピアノの旋律が流れ始めた。そして歌声が——双葉湊音の、あの少し幼く透明感のある声が。
「空から揺らぎ伝う 水面に波が開く」
揺らぎ。波動関数。私が毎日向き合っている、あの観測できない「何か」。
「触れずに響く 夢まで降りてく」
量子もつれ。空間を超えて影響し合う粒子たち。触れずに、でも確かに響き合う存在。
十五歳の私は、こういう音楽が好きだった。ボカロにはまって、可愛いものに囲まれて、将来物理学者になる夢を語っていた。いつの間にか、論文と実験データに追われて、あの頃の感性を置き去りにしてきた気がする。
「目指す場所へと 少しずつずれ 不揃いの音 何故か知る」
位相のずれ。干渉。美しい理論は常に完璧な対称性を持つけれど、現実の世界には必ず「ずれ」がある。そのずれこそが、宇宙を今の姿にした。
投稿者のプロフィールを見ると、CERN勤務歴があった。粒子加速器のビームライン設計に携わっていたらしい。還暦を過ぎて、何を思ってこの歌を作ったのだろう。
「光る螺旋が浮かぶ 消えれば生まれる いつの時も」
素粒子の対生成と対消滅。真空から生まれては消える、仮想粒子たちの永遠のダンス。磁界の中、荷電粒子はローレンツ力によって回転する、しかしそれは次第にエネルギーを失い、時に螺旋を描き、突然崩壊する。
目頭が熱くなった。
「同じ旋律が 何度も揺らいで巡って 微かに歪みつつ 途切れながらも続く」
ファインマン図に描かれる粒子の軌跡は、まさにこの歌詞の通りだ。同じプロセスが無数に繰り返され、わずかに異なる経路を辿りながら、確率の海の中で「現実」という一つの結果に収束していく。
「生きていたしるし 命が揺れてた証を 残して行く」
検出器に残る飛跡。粒子が「そこにいた」証拠。ほんの一瞬、存在した命の痕跡。
私は何のために、この研究をしているんだっけ。
十五歳の私は、宇宙の謎を解き明かしたかった。世界がどうできているのか知りたかった。そして、その美しさに感動したかった。
いつから「論文を書くため」「学位を取るため」になってしまったんだろう。
「声なくひとり聴いた 水凪ぎ 静かに消え」
ラボで一人、深夜まで実験データと向き合う日々。
「揺らぎの名残り 全てがひとつに 夜の底」
ビッグバン以前、すべてが一つだった特異点。そこから始まった宇宙の歴史を、私たちは今、粒子の振る舞いから読み解こうとしている。
「果たせぬ約束 今も」
その瞬間あの頃の私とエンタングルした気がした。涙が一筋、頬を伝った。
デスクの引き出しを開けると、昔買った小さなシナモロールのぬいぐるみが出てきた。研究に没頭するようになってから、しまい込んでいたもの。
モニターには、素粒子の衝突データ。動画には、六十歳の元エンジニアが作った歌。そこには「揺らぎ」があった。完璧じゃない、でも美しい揺らぎ。
私は、優しい手触りの、しかしラボには不釣り合いなモカちゃんを机の上に置いた。
十五歳の私と、二十七歳の私。そのどちらも、きっと「私」だ。論文を書く研究者でいながら、可愛いものを愛する感性も持っていていい。科学と詩は、きっと同じ「美」を追いかけている。
動画にコメントを残した。
「素粒子研究者です。この歌詞、量子論そのものですね。十五歳の自分を思い出しました。ありがとうございます」
翌朝、返信が来ていた。
「加速器で粒子を見送り続けた四十年でした。あなたのような若い研究者が、科学の美しさを感じていてくれて嬉しいです。揺らぎを恐れず、続けてください」
その日、私は久しぶりに、心から実験が楽しみだった。
データの向こうに広がる宇宙の神秘。そこには十五歳の私が見た夢が、まだ輝いている。
揺らぎながら、響き続けている。
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