無題
Nuinoa
無題
春が来る前に死にたいと思った。
なんでもない二月の初め、思い立ってからは早かった。
翌日には遺書を書こうと便箋を買ってきた。
机に向かって数時間、誰に宛てて何を書けば良いのか分からず、結局ペンを置いてしまった。
数日後、遺書の代わりにあの人へ手紙を書いた。
あの人(以降、彼と呼ぶ。)は物好きな人で、無人駅のホーム(あの無人駅にはむしろホームしかなかった)で出会った。
彼との出会いは、上手く書ける気がしないのでこれ以上は書かない。変わった人だった。
彼は音楽と文学が好きで、楽器屋か古本屋に行けば大抵姿があった。
常にギターを持ち歩いていて、僕を見つけると毎度オリジナルの歌を披露してきた。
彼の歌ははっきり言って音痴だったが、彼の作った曲には不思議な魅力があった。
何より、歌っている時の彼はとても綺麗だった。
僕はそれが好きだった、のだと思う。
彼は出会った瞬間からこの街を出ていくまで、ろくに相槌も打たない僕を相手に一方的に語りかけていた。
手紙には他愛ない日常のことばかり書いた。
最近はよく眠れていること。カポ(近所でよく見かけた野良猫の名前、彼が名付けた。)が最近死んでしまったこと。好きなアーティストの話。
もうすぐ春が来ること。
僕が死ぬことは書かなかった。
手紙を書き終えたら、要らないものは全て売りに出した。机や本棚、冬以外の洋服など。
手元に残ったのは、お気に入りの小説二冊と彼の置いていったギター(買取不可だった。割といい音すると思うけれど。)が一本、それと買取価格が三万円。
それから数日は小説を読み返しながら、雪が降るのを待っていた。
ちょうど二冊目の小説を読み終えた頃、ついに雪が降った。手紙を出しに行くのは雪が降る日と決めていた。二月も中旬になった。
手紙を出すというのは、僕にとってかなりの難問だった。郵便局かポストを見つける必要があるが、(僕の足で行ける範囲の)それらは駅前と商店街にしか存在しなかった。
駅前、商店街。僕はそれらが大嫌いだった。
人間が大勢いる場所の空気と比べたら生ゴミの方がいくらかマシな匂いがする。(以前この話を彼にしたら、誇張抜きで五時間くらい笑っていた。)
僕は駅前や商店街とは反対側、海へ向かった。どこまでも海沿いを歩けば、ポストの一つくらいあると思った。
二時間程歩くと、潮の匂いがする。この辺りは何度か彼と散歩したことがある。
俯いたままでも、何となく道は覚えている。
歩道橋を渡って、右へ。この路地裏を通ると海まで近道できる。やがて堤防が見える。
堤防にはやたら急な階段がついていて、息を切らしながら登る。視界が開けると海があった。
堤防を下る階段。
そこに腰掛けて歌う彼の姿を僕は忘れ始めている。
海岸には誰もいない。
海を見下ろす。地平は揺れる。
堤防の上をどこまでも歩いた。
どれくらい歩いただろうか。
いつの間にか日は傾き、僕は海を見ていた。
もう少し先に、彼と出会った無人駅がある。
堤防を下り、砂浜を歩く。
ポストのことは忘れていた。
彼のギターが聞こえる気がした。歩いている間、何かを考えていたはずだったが思い出せなかった。
実際のところ何も考えていなかったのだろう。
考えるふりをしていた。
僕は、考えるふりをしていた。
波の音と、薄く雪が積もる砂浜を歩く音だけが聞こえた。地平が揺れる。幸せな気がした。
冬の日は短く、既に暗くなり始めていた。
夕凪の中で、どこにも自分が存在しないような錯覚に酔った。境界線は曖昧になるばかりだ。
僕は幽霊だ。何処か遠い場所、名前も知らない誰かの視点を見ている。景色は進んでいった。
やがて無人駅に着いた。
辺りはすっかり暗くなって、小さな光になった街は遠くで飽和している。
あと二十分ほどで電車がやってくる。
この駅には一日に三本しかやってこない。
歩き疲れた僕は、その電車に乗って帰ることを決めた。無人駅のホーム(やはりここにはホームしかなかった)に座ると彼のことばかり思い出した。
ふと、顔を上げると無人駅の横にポストが設置されていることに気がついた。ついに見つけたポストは思ったより大きくて、思ったよりは赤くない。
本当に手紙が回収されるのか心配になるくらい錆びたポストだった。
電車がやってくる。波の音が消える。
結局、僕は手紙を出さなかった。
帰りの電車で自分の書いた手紙を読んでいるうちに、駅についた。例によって駅前は湿る雑踏の匂いで、家に帰ってから体調が悪くなった。
それから体調はどんどん悪化し、数日寝込んだ。二度と駅前には行かないと誓った。
二月の終わり、少し寒さが和らいだ日々の倦怠感は嫌いじゃない。
あの日出せなかった手紙は、まだポケットの中で折れ目を増やし続けている。
あの人に間に合わなかった春が、暖かいものでありますように。
無題 Nuinoa @Nuinoa
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