君の死に花束を

いすず さら

生き残った僕らに、花を

第一章 花束を

 花屋の冷蔵ケースは、いつも死体安置所みたいに冷たい。  そう思うのは、たぶん僕が、花を生きているものだと信じていないからだ。

 白いカーネーションを一本、手に取る。値札の裏に滲んだインクを親指でなぞりながら、今年で何本目になるのかを数える。妹が死んでから、三年。数える意味なんてないのに、こういう無意味なことだけは律儀に続けてしまう。

 ――これは、君の死に捧げる花束だ。

 胸の中でそう呟いた瞬間、冷蔵ケースの向こうで、誰かが笑った。

 「ひどい言い方。花がかわいそうじゃない」

 声のしたほうを見ると、見覚えのない少女が立っていた。点滴台を片手で押しながら、もう片方の手でこちらの花を指差している。病院の売店に、こんな軽やかな存在感の人間がいるのが不自然に思えた。

 「……聞いてたの?」  「うん。ばっちり」

 悪びれもせず、少女は笑う。その笑顔は健康そのものに見えたが、手首に巻かれたリストバンドと、細すぎる首元が、その印象を裏切っていた。

 「誰のための花?」  「……死んだ人」

 正直に答えると、少女は少しだけ目を細めた。

 「へえ。じゃあ、その人は花、好きだった?」  「知らない」  「最悪だね」

 即答だった。胸を突かれたような気がして、思わず視線を逸らす。

 「でもさ」  少女は点滴台をきゅっと引き寄せ、少しだけ距離を詰めてきた。  「死んだ人のために花をあげるって、自己満足だよね。生きてる人が勝手に楽になるための」

 否定できなかった。

 「……君は、何の用でここに?」  話題を変えると、少女は肩をすくめる。

 「暇つぶし。あと、観察」  「観察?」  「うん。死にそうな人間と、死にたがってる人間の区別」

 冗談めかした口調なのに、その言葉だけがやけに正確で、背中がぞくりとした。

 「あなたは、後者」

 少女はそう言い切った。

 「……失礼だな」  「安心して。私は前者だから」

 さらりと告げられた言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。

 「余命?」  「一年くらい。医者がそう言ってた」

 まるで天気予報の話をするみたいに、彼女は言う。

 「篠原澪。よろしく、死に花束くん」

 冗談なのか本気なのかわからないまま、僕は名乗り返した。

 その日、屋上で彼女と並んで座り、風に揺れる花を見下ろしながら、僕は初めて思った。

 ――この花束は、まだ誰の死にも間に合っていない。

 それが救いなのか、呪いなのかは、まだわからなかった。

第二章 一年という猶予

 篠原澪は、翌日も病院の屋上にいた。

 正確に言えば、彼女は毎日そこにいた。午前の検査が終わると、点滴台を引きずりながらエレベーターに乗り、誰に咎められるでもなく屋上のベンチに腰を下ろす。その姿を三日連続で見かけたとき、僕はようやく「偶然」ではないと理解した。

 「暇人?」

 声をかけると、澪はちらりとこちらを見て鼻で笑った。

 「死にかけは、だいたい暇なの。時間だけは無駄にあるから」

 今日は花を持っていなかった。代わりに、ポケットから折りたたまれた紙を取り出す。

 「なに、それ」  「遺書」  「……は?」

 僕の反応を楽しむように、澪は紙をひらひら振った。

 「冗談。やり残しリスト」

 覗き込むと、そこには箇条書きで短い文が並んでいた。

 ・嘘をついている人を一人、ちゃんと暴く  ・誰かに本気で嫌われる  ・自分のことを、記録として残す

 「……歪んでるな」  「でしょ。でも“楽しいこと”はもう一通りやったから」

 澪は空を見上げる。

 「一年ってね、思ったより長いんだよ。絶望するには長すぎるし、希望を持つには短すぎる」

 その言い方が、妙に実感を帯びていた。

 「一年もあれば、恋人も作れる」

 僕が言うと、澪は即座に首を振った。

 「無理。私は人の人生を途中で放り投げる側になる」  「それは……」  「だから、最初から触らない」

 線を引くような言葉だった。

 「ねえ、相馬」  突然、名前を呼ばれる。

 「あなた、妹さんのことで自分を罰してるでしょ」

 心臓が跳ねた。

 「……なんで」  「花」

 それだけで十分だと言わんばかりに、澪は言った。

 「命日に花を供える人ってね、“忘れない”ためじゃなくて、“忘れられない自分”を維持するためにやるの」

 言葉が出なかった。

 「悪趣味でしょ。でも、嫌いじゃない」

 澪はそう言って、初めて少しだけ困ったように笑った。

 その日の帰り際、彼女は僕に言った。

 「ねえ、一つお願い」  「なに」  「一年だけでいいから、私のやり残しに付き合って」

 断る理由は、山ほどあったはずなのに。

 「……考えておく」

 そう答えた自分の声は、思ったよりも静かだった。

 屋上を離れながら、僕は思う。

 一年という猶予は、彼女のためじゃない。  きっとこれは、僕が自分の過去から逃げるために与えられた時間だ。

第三章 偽りの自殺

 篠原澪が最初の「ターゲット」を決めたのは、驚くほど唐突だった。

 「ねえ相馬。あなたの妹、本当に自殺だと思ってる?」

 屋上のベンチで、缶コーヒーを飲みながら、彼女はそう言った。曇った空を見上げるその横顔は、いつもより少しだけ真剣だった。

 「……急に何を言う」  「急じゃないよ。一年あるって言ったでしょ。そろそろ一個くらい、嘘を暴かないと」

 胸の奥が、鈍く痛んだ。

 「妹は、自分で……」  「“そう処理された”、の間違いじゃない?」

 澪は、言葉を選ばない。けれどその目は、煽っているわけでも、面白がっているわけでもなかった。

 「自殺ってね、便利なの。誰も深く責任を取らなくていい」

 僕は返す言葉を失った。

 「資料、見せて」  「なにを」  「警察の書類。学校の報告。あと……スマホ」

 「そんなもの、もう」  「残ってる。消したつもりでも、完全には消えない」

 澪はそう言って、点滴台の影から小さなノートパソコンを取り出した。病室に持ち込んでいるらしい。

 「私ね、暇だから調べるの得意なの」  「それは自慢にならない」  「知ってる」

 画面に映し出されたのは、妹・結衣が通っていた高校の相談窓口のページだった。三年前のものが、アーカイブとして残っている。

 「ここ」

 澪は、日時の欄を指差した。

 「結衣さん、亡くなる三日前に相談してる」

 喉が、ひくりと鳴った。

 「そんな話、聞いてない」  「でしょうね。だって“守秘義務”があるから」

 澪は淡々と続ける。

 「でもさ。相談したのに死んだ場合、普通はフォローが入る。家族に何かしらの説明がある。でも、あなたは何も聞いてない」

 確かにそうだった。

 「じゃあ、何が言いたい」  「誰かが“良かれと思って”動いた」

 澪は、キーボードを叩く。

 「担任。スクールカウンセラー。同級生。あるいは、匿名の誰か」

 画面には、SNSのログが映った。削除済みの投稿の断片。

 『あなたのためだから』  『大人に相談しよう』  『一人で抱えないで』

 どれも、優しい言葉だった。

 「優しさって、凶器になることがある」

 澪はそう言って、画面を閉じた。

 「結衣さんは、追い詰められてた。たぶん、静かに。逃げ道を全部塞がれて」

 頭が、ぐらりと揺れた。

 「やめろ」  「やめない」

 澪はきっぱり言う。

 「だってこれは、あなたの嘘でもある」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

 「自殺だった、って信じたほうが楽だったでしょ。誰も責めなくていいから」

 僕は何も言えなかった。

 「ねえ相馬」

 澪は、少しだけ声を落とした。

 「真実って、救いじゃないよ。でも、選び直す権利はくれる」

 風が吹き、ベンチの下で空き缶が転がった。

 「……どこまで、調べるつもりだ」  「一年分」

 澪は笑った。

 「あなたの妹の死と、私の死。両方、ちゃんと“出来事”にしたい」

 その言葉を聞いたとき、僕は理解した。

 彼女は、誰かを救いたいわけじゃない。  ただ、曖昧なまま終わることを、何よりも嫌っている。

 そして気づいてしまった。

 ――この調査の終わりに、僕はもう、花束を同じ意味では持てなくなる。

 それでも歩き出してしまったのは、きっと、逃げ道が一つ減ったからだ。

第四章 善意の名前

 結衣の名前が、再び誰かの口から語られるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 「――相馬結衣さん、ですね」

 大学からほど近い喫茶店で、僕は向かいに座る女性と向き合っていた。三十代半ば、落ち着いた声。妹が通っていた高校の元スクールカウンセラーだと名乗った。

 「突然の連絡で、驚かせてしまってすみません」  「いえ……」

 謝罪の言葉は丁寧で、視線もまっすぐだった。嘘をついているようには、とても見えない。

 「当時、結衣さんはとても真面目な生徒でした。責任感が強くて、周囲に迷惑をかけることを極端に恐れていた」

 澪は一歩引いた席に座り、メモを取るでもなく、ただ黙って話を聞いている。視線だけが、女性の仕草を逃さず追っていた。

 「相談内容については、詳しくはお話しできません。ただ……」

 女性は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。

 「私たちは、正しいと思う対応をしました」

 その一言で、胸の奥がざわついた。

 「正しい、とは?」

 思わず問い返すと、女性は困ったように笑う。

 「結衣さんが抱えていた問題は、一人で背負うには重すぎた。だから、大人が介入する必要があったんです」

 介入。

 その言葉は、柔らかく包装されていたが、中身は重かった。

 「担任の先生、ご両親、必要な範囲での情報共有。すべて、結衣さんを守るためでした」

 守るため。

 澪が、そこで初めて口を開いた。

 「結果、死にましたけど」

 空気が、凍りついた。

 女性は一瞬、言葉を失い、それから深く息を吐いた。

 「……亡くなったことは、今でも悔やんでいます」  「でも、後悔と責任は別ですよね」

 澪の声は、静かだった。

 「あなたたちは“正しいこと”をした。その自覚があるから、今も自分を責めすぎずにいられる」

 女性は反論しなかった。ただ、カップの縁を指でなぞっている。

 「善意は、免罪符になるんです」

 澪はそう言って、僕のほうを見た。

 「だから、自殺って処理は便利なの」

 その言葉に、喉が詰まる。

 喫茶店を出たあと、僕たちはしばらく無言で歩いた。

 「やりすぎだ」

 ようやく絞り出すと、澪は足を止めた。

 「なにが」  「全部だ。人の過去を、こんなふうに……」

 「綺麗にしてあげたかった?」

 澪は首を傾げる。

 「だったら、最初から調べなきゃよかった」

 責めているわけではない。ただ、事実を並べているだけだ。

 「ねえ相馬」

 彼女は、少しだけ声を落とした。

 「私はね、自分の死が誰かの善意で処理されるのが嫌なの」

 胸が、強く締めつけられた。

 「可哀想だったね、で終わらせられるのが、一番怖い」

 夕暮れの空に、病院の白い建物が浮かび上がる。

 「だから、あなたの妹の死を、ちゃんと名前で呼びたい」

 その言葉が、ようやく腑に落ちた。

 澪は、結衣のためにここにいるんじゃない。

 ――自分のためだ。

 「……ありがとう、とは言わない」

 僕が言うと、澪は小さく笑った。

 「言われても困る」

 その夜、久しぶりに妹の夢を見た。

 結衣は、何も言わず、ただ困ったように笑っていた。

 目が覚めたとき、胸の奥に残っていたのは、怒りでも悲しみでもなく、名前のつかない違和感だった。

 それはきっと、“正しさ”の残骸だった。

第五章 好きだと言えない理由

 篠原澪が屋上に来なくなったのは、秋が深まり始めた頃だった。

 三日、四日と姿を見せず、さすがに胸騒ぎを覚えた僕は、初めて彼女の病棟を訪ねた。ナースステーションで名前を告げると、看護師は一瞬だけ言葉を濁し、それから短く頷いた。

 「今は、あまり長く話せませんが」

 病室は、思ったよりも静かだった。カーテン越しに差し込む午後の光が、澪の輪郭を薄くしている。

 「やっぱり来た」

 澪は、ベッドの上で笑った。けれど、その声は以前よりも少し掠れていた。

 「逃げたと思った?」  「そんなわけ……」  「あるでしょ」

 即座に遮られ、言葉を失う。

 「人はね、都合が悪くなると、いなくなる」

 それは、彼女自身に向けた言葉のようにも聞こえた。

 「容体、悪いのか」  「順調に悪い」

 冗談めかして言うが、点滴の本数は増えていた。

 「ねえ相馬」

 澪は、天井を見つめたまま言う。

 「私たち、似てると思わない?」

 返事ができずにいると、彼女は続けた。

 「大事な人を救えなかったって顔してるところ」

 胸が、きしんだ。

 「私は、自分を救えない。あなたは、妹さんを救えなかった」

 それを、同列に置かれる資格があるのか分からなかった。

 「だからさ」

 澪は、ようやくこちらを見た。

 「私たちは、ちゃんとした恋愛はできない」

 その言葉を、待っていた自分がいたことに気づいてしまう。

 「一緒にいたら、依存になる。救われた気になって、どっちかが先に壊れる」

 静かな声だった。

 「……それでも」

 口を開いた瞬間、澪は首を振った。

 「言わないで」

 拒絶ではなかった。むしろ、懇願に近い。

 「好きだって言葉は、未来を前提にしてる」

 彼女は、かすかに笑う。

 「私には、その資格がない」

 長い沈黙が落ちた。

 窓の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていく。

 「ねえ、お願いがある」

 澪は、枕元の引き出しから封筒を一つ取り出した。

 「もし私が死んだら、これを開いて」

 「……縁起でもない」  「現実的って言って」

 封筒は、妙に軽かった。

 「それと」

 澪は、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。

 「私の死に、花束はいらない」

 心臓が、強く脈打つ。

 「花は、生き残る人のために使って」

 それは命令でも、願いでもなかった。

 ただの、結論だった。

 病室を出るとき、振り返ることはしなかった。

 振り返ったら、きっと、全部言ってしまう気がしたから。

 その夜、僕は久しぶりに花屋に入った。

 けれど、何も買えなかった。

 花はもう、死のための道具ではなくなっていた。

第六章 君の死に花束を

 冬が来た。

 篠原澪がいなくなった、とは誰も言わなかった。  病院の屋上は変わらず開放され、ベンチも、空の色も、何一つ変わらない。ただ、点滴台を引く音だけが、二度と聞こえなくなった。

 知らせは、簡潔だった。

 「今朝方、亡くなりました」

 それ以上の言葉はなく、僕も何も返さなかった。

 葬儀には行かなかった。  行く資格がない、と思ったわけじゃない。ただ、あの場所に花を置くとしたら、それは彼女の望んだ形じゃない気がした。

 代わりに、引き出しの奥で眠っていた封筒を開けた。

 中には、便箋が一枚だけ入っていた。

 ――相馬へ

 文章は短かった。達筆でも、感情的でもない。

 ――あなたは、最後まで花を死の側に置こうとしてた。  ――それは優しさじゃなくて、癖みたいなものだと思う。

 息を吸うのが、少しだけ苦しくなった。

 ――だから、お願い。  ――次は、生きてる人にあげて。

 それだけだった。

 涙は出なかった。  悲しくないわけじゃない。ただ、彼女の死は、きちんと“出来事”として胸の中に収まっていた。

 春が来る。

 妹の命日が、また巡ってきた。

 花屋の冷蔵ケースの前に立ち、白いカーネーションを見つめる。三年前と同じ花。三年前と同じ温度。

 けれど、手は伸びなかった。

 店を出て、大学へ向かう途中、駅前で立ち止まる。

 サークルの勧誘で立っている後輩が、チラシを配りながら少し困った顔をしていた。受け取ってもらえず、視線だけが空回りしている。

 理由はなかった。

 ただ、歩み寄って、声をかける。

 「これ、好き?」

 花屋で買ったばかりの、小さな花束を差し出すと、後輩は目を丸くした。

 「え、俺にですか」  「生きてるから」

 自分でも、変な理由だと思った。

 後輩は笑って、花を受け取った。

 その笑顔を見て、ようやくわかった。

 花束は、死者のためのものじゃない。  生き残った人間が、明日を選び直すためのものだ。

 屋上に上る。

 風が吹き抜ける。

 ベンチに座り、空を見上げると、あの日と同じ雲が流れていた。

 「……約束は、守ったよ」

 返事はない。

 それでよかった。

 君の死に、花束を。

 それは別れの言葉じゃない。  生きていく側が、前に進むための、静かな決意だった。

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