熱い手
山原水鶏
熱い手
薄暗い病院のロビーには黄色や黄緑の長椅子が互い違いに並んでいる。眼の前のカウンターには銀行員のような服を着た、事務の女性が一人カウンターに座って、だだっ広いロビーにカタカタとキーボードの音が響いている。
「ママ」小さな手に手をつかまれ、ハッとした。
傍らを見ると、三歳くらいの巻き毛の男の子が私の手を握り、こちらを見上げている。
「ママ、のどが渇いた」
ママ?私の娘では無い。娘はどこへ行ったのだろう。男の子の手を離し、立ち上がって辺りを見回す。
「みーちゃん!」
カウンターの向こうから事務の女性が手を止め、目をあげてこちらを見た。
「みーちゃん!どこ?!」あの子は怖がりで、薄暗い病院で勝手にどこかへ行ったりはしない。
「どうかされましたか」入口にいた守衛の老人がロビーまで入り、こちらへ来た。
「娘がいないんです。この男の子と同じくらいの年頃の、髪の長い女の子です。見ませんでしたか?」髪は七五三のために生まれてから一度も切らずにいた。周りからは数え年で七五三をやれと言われたが、三月生まれで何かと成長も遅く、おまけに私の不注意で負わせたやけどで、娘の腕には大きな痕が残った。とても七五三を祝う気にはなれず、一年先送りにしたのだ。
「女の子?見かけていませんねぇ」
「病院に一緒に来たんです。急に熱を出して」
今夜、熱っぽい手に顔を触られ、浅い眠りから目を覚ました。
「お母さん、みーちゃん悲しい」
「どうしたの、みーちゃん」
「悲しくて目がさめたんだよぉ」抱きついてきた娘の頬は燃えるように熱い。額に手をやり顔を見る。うるんだ一重の目、小さな口はヘの字になっていた。
「お熱があるわ。測りましょう。体温計を……」布団から出て寝室の押入れを開け、救急箱から体温計を出した。
子供用の可愛らしいネグリジェの前のボタンを一つ開け、体温計を小さな脇に挟む。
「ピッと音がするまでお利口さんにしていようね」
「うん」娘は真っ赤な顔で頷いた。
40.5。見たことのない高い数字だ。医者に診てもらったほうがいいだろうか。今日は土曜日だ。明日の朝まで待ったほうがいいのか。
私は病院に行くことにした。タクシーを呼び十分で来ると言われて、着替える。
母子手帳、保険証、財布。娘をトイレに連れていくと、おしっこは出るようで安心する。
「お母さん、のどが渇いた」
「お水飲もうか」
「うん」
台所でコップに水を入れ、抱っこしたまま唇にグラスを近づけて飲ませると、ほんのひとくち飲んだ。
「もういい」
「もういいの?もうちょっと飲んで」
「もういいんだよぉ」泣いてしまう。
「ごめんごめん。飲まなくていいよ」バッグを持ち、娘をタオルケットでくるんで抱き上げ玄関の外に出た。引き戸の開く、ガラリという音が冷たく湿った玄関前の狭い私道に響く。
家の門扉を開けると、タクシーが来たところだった。
「小松原病院までお願いします」
巻き毛の男の子はおとなしく長椅子に座り、立っている私の方をじっと見ている。右手には包帯が巻かれていて、何か怪我をしたようだった。
先ほどの守衛が看護師と一緒に戻ってきた。
「お母さん、娘さんを探してるのね」
「はい、急にいなくなってしまって。ロビーの明かりを全部つけてもらえませんか。どこかに隠れているのかも。あの子は怖がりで、注射が嫌いなんです。以前も腕にやけどをしてここに入院……みーちゃん!みーちゃん出てきて!」
「お母さん、いったん座りましょうか。守衛さん、ロビーの明かりをつけて来てもらえますか」看護師の力強い手が背中にまわり、ゆっくりと私を長椅子に座らせた。
「いや、でもね、この人が来たときには」
「お願いします」看護師は守衛の言葉を遮り、有無を言わせない口調で命じた。暗いロビーの向こうから、看護師がもう一人走ってやってきた。
「黒木さん、小松原先生をここに呼んで来て」
ロビーの照明がゆっくりと、しかしきっぱりとした明るさでもって、辺りを照らし出した。
白衣を着た眼鏡姿の男性が、こちらへ急ぎ足でやってくる。
「佐藤ケンタくんのお母さん?気分が悪くなったのかな」
ああ、そうだった。
私は自分の右腕を見下ろした。そこには腕の半分ほどを覆う、古いやけどの痕があった。ニ歳になってすぐに、ポットをいたずらして大やけどをしたときの傷跡で、小松原病院に三週間入院した。
その後も、休みの日に熱を出したりするたびに、ここの休日診療へやってきて、母と手をつなぎ、このソファに座っていた。母と私、二人きり。父はなぜか来なかった。
「パパ!」隣に座っていた少年が、ロビーに入ってきたスーツの男に向かって叫んだ。
「ケンタ!大丈夫か」
「うん。僕、泣かなかったよ」男の子は私の手をぎゅっと握った。
「痕は多分残りませんよ。お母さんが早く来てくれたから。良い判断でした」小松原先生がこちらを見て頷く。
明るいロビーの中で、私は息子の手を握り返した。
熱い手 山原水鶏 @zgshorror
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