予備校のクラスメイトから「結婚の約束」をされた覚えはないのですが。~論理の通じない彼と、事務的に処理する母親の話~

品川太朗

第1話 予備校より


 三月の風はまだ冷たくて、コートの襟を合わせながら「今年こそ」と呟いたあの日から、もう半年が過ぎていた。


 午後六時半。大手予備校の自習室は、異様な静けさに包まれている。

 聞こえるのは、誰かが参考書のページをめくる乾いた音と、カツカツと小気味よく、あるいは焦燥を含んで叩きつけられるシャープペンの音だけ。

 独特の、埃っぽいような紙の匂いが鼻腔に張り付いている。


 私は手元のマークシートを塗りつぶし、小さく息を吐いた。


 真白(ましろ)ユイ、十九歳。現在、一浪中。


 同級生の多くが大学生活を謳歌しているインスタグラムのストーリーは、とっくの昔にミュート済みだ。今の私に必要なのは、友達のランチの写真ではなく、目の前の偏差値とA判定だけだった。


「……よし、区切りついた」


 誰に聞かせるでもなく心の中で呟き、愛用の黒いペンケースに筆記用具をしまう。

 几帳面すぎると言われるけれど、ペンの向きが揃っていないと落ち着かない。それは勉強においても同じで、分からない問題をそのままにしておくことが、私はどうしても出来なかった。

 だからこそ、現役時代は一つの科目に時間をかけすぎて失敗したのだけれど。


 自習室を出て、廊下の自動販売機コーナーへ向かう。

 少しだけ伸びをして、凝り固まった肩をほぐしていると、


「あ、ユイ。お疲れー」


 気の抜けた声と共に、冷たい缶コーヒーが頬に押し当てられた。


「冷たっ。……ミオ、まだ残ってたの?」

「んー、まあね。さっきまでラウンジで喋ってただけだけど」


 早川ミオ。高校時代からの友人で、同じく浪人仲間だ。

 けれど私とは対照的に、彼女はどこか飄々としている。茶色く染めたボブカットに、予備校生にしては少し派手なメイク。


「ねえユイ、このあと駅前のカラオケ行かない? 一時間だけでいいからさー、歌いたい気分」

「……パス。来週、模試があるでしょ」

「えー、真面目か! 息抜きも大事だって、先生も言ってたじゃん」


 ミオは唇を尖らせるが、私は首を横に振った。


「私はミオみたいに要領よくないから。……今年落ちたら、もう親に顔向けできないし」

「重いってば。ま、ユイらしいけどさ」


 ミオは肩をすくめて、缶コーヒーのプルタブを開けた。


 その時だった。

 廊下の向こうから、一人の男子学生が歩いてくるのが見えた。


 少し猫背で、サイズの合っていない大きめのシャツを着ている。いつも同じ席、左列の後ろから三番目に座っている人だ。

 名前は確か、神谷、だったと思う。


 特に会話をしたことはない。目が合えば会釈をする程度の、名前と顔が一致しているだけのクラスメイト。

 すれ違いざま、彼がぺこりと小さく頭を下げたので、私も反射的に会釈を返した。


 それだけ。

 ただの挨拶。

 予備校という閉じた箱庭の中で繰り返される、何の意味もない動作のはずだった。


 その時の私は、まだ何も知らなかったのだ。

 彼がその一瞬の会釈に、どれほどの「意味」を見出していたのかを。


<br />


 午後九時過ぎに帰宅すると、家の中は穏やかな空気に満ちていた。


「お帰り。ご飯、温める?」


 リビングから母の声がする。父はすでに風呂から上がったのか、テレビの前でビールを飲んでいた。

 私の両親は、浪人という不安定な身分の私に対して、過度に干渉してこない。それが信頼なのか、あるいは一種の放任なのかは分からないけれど、今の私にはその「普通の距離感」が心地よかった。


「うん、お願い。すぐ食べる」


 夕食を済ませ、入浴という名のタスクを消化する。

 湯船の中で今日覚えた英単語を反芻し、ドライヤーで髪を乾かしながら明日のスケジュールを頭の中で組み立てる。私の生活は、すべてが「合格」というゴールテープを切るためだけに最適化されていた。


 自室に戻り、再び机に向かったのは午後十一時を回った頃だ。


 深夜の住宅街は静まり返っている。

 窓の外から、遠くを走る車の走行音が微かに聞こえるだけ。机の上のLEDライトが、開かれた参考書だけを白く浮かび上がらせている。

 世界に私一人しかいないような錯覚。この孤独感は嫌いじゃない。


「……ふぅ」


 一時間ほど集中して、ペンを置いた。

 凝り固まった首を回し、スマホに手を伸ばす。ミオからLINEが来ているはずだ。


『今日の英語のプリント、写真送って! なくしたかも(泣)』


 案の定だった。

 画面に並ぶ、涙を流すキャラクターのスタンプ。私は苦笑しながら、該当のプリントを撮影して送信した。


『ありがとー! ユイ神! 明日ジュース奢る!』

『いいよ別に。おやすみ』

『おやすみー』


 短いやり取りを終え、スマホを充電器に繋ごうとした、その時だった。

 

 ――ブブッ。


 不意に、端末が短く震えた。

 ミオからだろうか。スタンプの押し忘れ?


 画面を点灯させる。

 そこに表示されていたのは、ミオの名前ではなかった。


 アイコンは、無機質な幾何学模様。

 名前の欄には『神谷リョウ』とある。


「……え?」


 思わず声が出た。

 神谷リョウ。さっき予備校ですれ違った彼だ。

 でも、どうして?

 クラスのグループLINEには入っているけれど、彼とは個別に連絡先を交換した覚えなんてない。もちろん、個人的なやり取りをしたことだって一度もない。


 間違いメールだろうか。

 指先が少しだけ躊躇する。


 見てはいけないような、奇妙な胸騒ぎ。けれど、単なる事務連絡かもしれないという理性が、その予感を打ち消した。もしかしたら、私が落とし物をしたとか、そういう用件かもしれない。

 私はロックを解除し、トークルームを開いた。


 既読のマークがつくと同時に、そのメッセージは私の目に飛び込んできた。


『夜分遅くにすみません。同じクラスの神谷です』


 丁寧な書き出し。

 やっぱり、事務連絡か何かだ。少しホッとして、次の吹き出しに目を移す。

 しかし、そこに書かれていたのは、予想していた言葉のどれとも違っていた。


『真白さん、今日はずっと集中して頑張っていましたね。

 後ろの席から見ていて、とても感心しました。今年こそ合格したいという気持ちが、背中から伝わってきましたよ』


 心臓が、ドクリと跳ねた。


 褒め言葉のはずだ。

 丁寧な言葉遣いだ。

 それなのに、背筋を冷たいものが這い上がってくる。


 ――ずっと、見ていて。


 脳裏に、自習室の風景が蘇る。私の席は前の方で、彼は左列の後ろから三番目。

 位置関係で言えば、確かに彼の席から私の背中は見える。


 でも、「ずっと」?

 私が問題を解いている間も? ペンを置いた時も?

 あの静寂の中で、彼は参考書ではなく、私の背中を見ていたというの?


 指先が冷たくなるのを感じながら、私は返信を打つことができずにいた。

 画面の中の『神谷リョウ』という文字が、やけに黒く、大きく見えた。

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