第16話 最悪に近い、良い結果

逃げ道が消えた瞬間、人は意外と冷静になる。


吹き抜けの中央で立ち止まり、前後左右、上と下の気配を同時に感じ取ったとき、俺の中で「どう動くか」という思考は終わった。

動いたところで、結果は変わらない。

そう理解した瞬間、焦りだけが綺麗に剥がれ落ちる。


残ったのは、

ここで何が起きれば“一番マシか”

という、嫌な問いだけだった。


モンスターは、数を誇示するように動かなかった。

一体ずつ、しかし確実に距離を詰め、逃げ道の選択肢を一つずつ潰していく。

視線の端で、天井裏の影が移動する。

上からも来る。

下からも来る。


この建物は、完全に使われていた。


「……最悪だな」


呟いた声は、やけに乾いていた。


だが、

本当の最悪は、まだ来ていない。


だからこそ。


胸の奥が、ひやりと冷えた。


第2話で一度だけ感じた、

嫌な感覚。

身体より先に、運が動く前兆。


俺は、理解する。


来た。


天運。


週に一度。

自動発動。

本人の意思は関係ない。


“どんな天文学的確率でもいい出来事を現実にする”。


その文言を、今ほど憎らしく思ったことはない。


視界が、僅かに歪んだ。


音が、遅れる。


まるで、世界が一拍だけ考える時間を取ったみたいに。


次の瞬間、

デパート全体が悲鳴を上げた。


最初に来たのは、振動だった。


床が揺れ、支柱が軋み、天井の装飾が一斉に落ちる。

構造的に弱い場所が、正確に、しかし無慈悲に壊れていく。


――ピンポイント。


あまりにも、

都合が良すぎる壊れ方だった。


「……っ!」


モンスターたちが、反応する暇はなかった。


床が抜け、

壁が崩れ、

吹き抜けが“縦穴”に変わる。


上にいたものは落ち、

下にいたものは潰れ、

逃げ場は、建物ごと消えた。


轟音。


衝撃。


世界が、上下逆になる。


俺は、

投げ出される感覚の中で思った。


――ああ、なるほど。


これが、天運の答えか。


建物を倒せば、

モンスターは全滅する。


確率的に見れば、

この状況を完全に解決する唯一の手段だ。


逃げる?

無理だ。


戦う?

不可能だ。


外部支援?

間に合わない。


だから、全部壊す。


俺の身体が、瓦礫に叩きつけられる。


幸運は、もう俺を守らない。

悪運は、まだ発動条件を満たしていない。


衝撃が、

そのまま来る。


骨が鳴る。

息が詰まる。


視界が、白くなる。


それでも――

死なない。


次に意識が戻ったとき、

音はほとんど消えていた。


耳鳴りだけが、

やけに大きい。


暗い。


完全な暗闇じゃないが、

光はほとんど届いていない。


身体が、動かない。


ゆっくりと、状況を理解する。


俺は、

倒壊したデパートの瓦礫の中にいる。


呼吸はできる。

だが、胸が重い。


脚は、何かに挟まれている。

腕も、自由じゃない。


周囲を探る。


……反応がない。


モンスターの気配は、

完全に消えていた。


「……全滅、か」


声は、

自分でも驚くほど小さかった。


成功だ。


作戦として見れば、

完璧だ。


被害ゼロ。

敵殲滅。


だが。


俺は、ここから出られない。


通信は、

完全に途切れている。


建物が倒壊した以上、

外からすぐに掘り起こせるとは思えない。


周囲の戦闘状況次第では、

数時間、あるいはそれ以上――


胸の奥が、また冷えた。


今度は、

別の感覚。


悪運が、動いた。


致命傷は、避けられている。


瓦礫の配置は、

不自然なほど俺を潰していない。


だが同時に、

一番動けない形で生かされている。


「……最悪だ」


今度は、

はっきりと言葉に出た。


天運は、

世界にとって最善を選んだ。


悪運は、

俺を殺さず、閉じ込めた。


幸運は、

もう、何もしてくれない。


つまり。


ここから先は、

 完全に俺次第だ。


瓦礫の隙間から、

僅かな光が差している。


遠い。


だが、

ゼロじゃない。


俺は、

動かない腕に力を込めた。


痛みが、

遅れてやってくる。


「……運に、任せるしかないか」


笑えない冗談だった。


だが、

事実だ。


この場所で、

俺ができることは一つしかない。


運を、使い切ること。

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