その人は望まない

​おわった。


心の中でそう呟いた瞬間、俺の喉は砂を飲んだように乾ききっていた。

​左手を通して伝わる、七瀬さんの肩の体温。

あの日、ベンチで支えた時と同じ、華奢で、でも確かな重み。


(……俺だ。100パーセント、俺だわ)


​認めざるを得ない確信が、冷たい汗となって背中を伝う。

七瀬さんの視線に耐えきれず、俺は弾かれたように手を離した。


七瀬さんは俺の左手を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、逃がさないと言わんばかりに、俺の正面へと回り込んだ。


七瀬さんの瞳には、確信という名の熱が宿っている。


「青いスリッパ、左利き……そして今の支え方」


​彼女は一歩、俺との距離を詰める。


「それでも……まだ偶然だって、言い張りますか?」


​俺は黙り込んだ。

正直に言って、今の状況は耐え難いほどに「恥ずかしい」。

彼女が今まで、どれほど熱心に「恩人さん」を神聖視していたか、俺は一番近くで聞いてきた。


​「……仮に、俺だったとして。何なんだよ」

「え……?」

「俺はあの日、ただの気まぐれで君を助けただけだ。そこに高尚な理由なんてないし、ドラマみたいな感動的な話でもない。たまたま通りかかっただけなんだよ」


​俺は一気に言葉を吐き出した。


​「なのに、七瀬さんは『命の恩人』みたいに大げさに考えてるだろ? 俺があの日助けた男だって認めたら、明日から君、俺を見るたびに深々と頭を下げたり、過剰に感謝したりするんだろ? そんなの、気まずくて嫌なんだよ」


​それが、俺の偽らざる本音だった。

感謝されたいわけじゃない。特別な目で見られたいわけでもない。

ただ、今まで通り、どうでもいい話をしていられる関係でいたかった。


​「……感謝されるのが、嫌なんですか?」

​「嫌っていうか……困るんだよ。そんな立派な人間じゃないし」


俺は、逃げるように視線をグラウンドの方へ向けた。


「人違いでした、って笑って流してくれた方が、よっぽど気が楽なんだ」


​沈黙が、二人の間に横たわった。

七瀬さんは、俺の横顔をじっと見つめていたが、やがて、くすりと小さく笑った。


​「……何が可笑しいんだよ」

​「いえ。青木くんらしいなって。……私の感謝が、そんなに重荷だったなんて気づきませんでした」


​彼女はどこか清々しい表情で一歩身を引いた。


​「分かりました。青木くんがそこまで嫌なら、今のところは『人違い』ってことにしておきます。……でも」


​七瀬さんは、校門の方へ歩き出し、途中で振り返って微笑んだ。


​「私が勝手に感謝して、勝手に青木くんを『いい人』だと思うのは、私の自由ですから。……それは制限しないでくださいね」


​「……もう勝手にしろよ」


​「はい、勝手にします。……じゃあ、続きはまた明日、空き教室で」


​軽やかな足取りで去っていく彼女の背中を見送りながら、俺は深いため息をついた。

バレた。確実にバレた。


​(……明日からどんな顔して会えばいいんだよ)


​左手に残った熱が、いつまでも引かない。

俺の平穏な日常が、少しずつ、でも確実に形を変えていくのを感じていた。


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