第3話
「結笑を……?」
朔太郎は困惑していた。
それもそのはず、
大切な自分の元に残ってくれたたった1人の息子が死んでしまうという時に、
変な集団が現れたのだ。
「ですから、この子の身を私に預からせて頂きたい。その代わりに傷などは全て医者にかけ、──待遇もいいものとお約束しましょう。」
顔を隠す布をつけ、いかにも怪しいが、その条件なら。と朔太郎は半信半疑で頷き、署名を行った。
顔を隠した集団は署名を見届けると、怪我をしたところに手をかざし、あっという間に傷口を塞いでしまった。
そうして、「では」と言い残し何も無い空間へ消えていった。
その後、船は沈没した。大正4年、西暦では1915年、5月7日の出来事であった。
まだ幼い少年の中では、どれくらいの時間が経ったのだろうか。暗闇の中から声が響いた。
「春原上等兵。──春原上等兵起きなさい。───春原結之助!」
彼にとっては聞き慣れた、
というか何度も繰り返し聞いた声が響く。
声の主はまだ見えない。
──じくじくと痛むはずの胸は、痛くも痒くもなかった。
先刻まで大きな銅像が刺さっていた筈であった己の胸元をまさぐる。
少年の小さな身体には、
刺さっていたであろう痕跡こそあれど、苦痛などは一切感じなかった。
どうやらここは大きな建物、
国会議事堂の内部のようだ。
国会議事堂の中を知らない少年は、ここが閻魔の裁きを待つ場所なのか
なんて考えながらきょろきょろと当たりを見渡した。
その、きっと困惑している顔の上には、朔太郎の見た謎の集団のつけていたものと同じような布(違う点と言えば、少年の布には大差と文字が書かれていた)がかぶさっていたが、
彼はそれを気にする素振りは見せなかった。
「やっと起きたな」
といってどすどすと姿を現したのは、
彼が見た事などある筈もない、でっぷりと下腹のでた豚のような顔(もっとも、顔を布で覆っているため見えないが、想像に容易い)をした男と、
それにまとわりつく薄着の女たちだった。
普通の時の彼であれば、
「なんだこのうすのろは、下卑た真似を。」
とか言って吐き気をもよおしても良いものだが、
何故かその男を見た少年は固まり、
その男の前に跪いたと思えば、突然、
「陛下に、格別の御挨拶をさせて頂ける光栄を承りまして、誠に光栄に存じます!」
と声高々に宣いはじめたのだ。
「陛下の玉音はラヂオにて拝聴しておりました。
──それに一度、父にどうしてもと頼みまして、
陛下の御真影を拝見させて頂いたことがございます。
今自分は御真影の中に入ることが出来たのでは無いかという気持ちになってしまいました──!
ああなんて、なんて素敵な日でしょうか。
──我が生涯において一生の誉にございます。」
そう言い終わると、布越しでも分かる上気した頬を手で抑え冷ましながらまた跪いた。
それを見ていた男は「おぉ、」と小さく歓声を上げ、
その周りにいた白衣を着た者達も
「やりましたね。」
「さすが大臣だ!成功です。」
などと賛辞を述べていた。
聞くにこれは今彼が付けている顔布、
洗脳用顔布の試験運用も兼ねているんだとか。
大差と言うのは洗脳の度合いで、もう1つに小異という顔布もあるらしい。
「やはり大差にして成功でしたね。この子供の力はとても強そうだ。──ああそこのあなた、あの部屋の準備を。」
それらの声は決して小さくは無いのだが、少年には何も聞こえないようでずっと跪いた姿勢で俯いている。
だがどこか痛むのか、時々ぐっと体を固めているようにも見えた。
「春原一等兵。──今は上等兵か。
君には新しい任務に付いてもらうに当たって、名前を変えてもらう事になった。
──名前がそのままだと少しばかり都合が悪い。
──頼めるな?」
くちゃくちゃと汚い音をたてながら喋っているが彼には違うように聞こえるらしい。
ばっと顔を上げ、
「承知しました。」
と一言だけ告げ、また顔を下に向けた。
目線の先には、
先程白衣の女(少年には上等な軍服を着た男に見えているようだ)が置いた紙が1枚あり、
そこには「故(ユエ)」とだけ書かれていた。
「それがこれからのお前の名前だ。
まあ先ずは、そこに入りたまえ。」
そういって大きな腹を揺らす男のすぐ下で、扉が開いた。
ガコンと大きな音をたてて開いた両開きの扉は、中が真っ暗で何も見えなくなっていた。
さすがに少し恐ろしいのかどこからともなく生唾を飲み込む音が静かな構内に響く。
「さ、さあ、入れ!」
男が顔布に唾を飛ばしながら(喋っている間に顔布がどんどん汚れていた)大声で叫ぶので、ユエは扉の中へ入っていった。
故《ユエ》 ふちとなりぬる @tukubane_futi
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