ココロ

 前を見るのに疲れ空を仰ぐと、渡り鳥が飛んでいた。近くも遠くもない間隔を空け、V字が飛行する。それは勝利のVサインにも見えたし、誰かを今まさに突き刺そうとしているナイフの刃にも見えた。

 私は渡り鳥のように、みんなと少し距離をとる。横一列に並ぶ後頭部を見つめて、たまに飛んでくる会話になんとなく相槌を打つ。私はいつもそんな感じだった。グループに入っているというよりかは、入れさせてもらっているという感じだ。でも、私をひとりぼっちから救ってくれているというだけでも、みんなには感謝せねばならない。

「ねぇみんな、佐々木のお父さんが機械になったって知ってる?」

 不意に佐江が口を開いた。「え? そうなの!? 知らなかった!」とみんなで驚くと、佐江はどこか得意げに話を続けた。

「交通事故だってさ。顔とか手足とか、内臓も全部だよ。あぁ気持ち悪い。きっと今頃感情失って、ダースベイダーみたいに呼吸してるんだよ。シュコー、シュコーってさ。そこまでして生きたいかね? おとなしく召されればいいのに」

 その話を聞いていた他の三人は一斉に頷き、口々に嫌悪と侮蔑の言葉を並べた。中には佐々木にさえ悪口を言い出す子もいる。

「ねぇ、三香もそう思うよね?」突然佐江が振り返って言った。

 私はそうだねと執拗に何度も頷いた。もちろん作った笑顔を浮かべて。

 機械になる。それは決して怪しい実験なんかじゃなくて、立派な医療行為だ。科学が発達し、身体のあらゆる部位を機械で補うことが出来るようになった。もちろん内臓も。この技術はまさに革命だった。小難しい手術などもういらない。どんなに深刻な状態でも機械にしてしまえば全部治る。簡単。けれども、革命というのは反対勢力がつきものらしい。生命倫理がどうのこうのと言って批判するような輩も出てきた。そして実際、特に全身が機械になった人を差別する風潮が広がってきている。いつだってマイノリティーは迫害される運命なのだ。

「全身機械人間の子どもとか絶対嫌。もしかして機械ってうつったりしないよね?」

「さすがにそれは無いでしょ。でもなんか心配だからマスクしていこうかな笑」

 佐江の楽しげな悪口に、莉子が乗っかる。

「まさかの空気感染かよ!」

 佐江の高らかなツッコミは、みんなを爆笑の渦に巻き込んだ。その不協和音は、私の耳をつんざき掻き回す。

「ねぇみんな、明日から佐々木いじめてやろうよ。前から思ってたけどなんかあいつウザいし。機械がうつるよ。学校来ちゃだめなんじゃない? そうでしょ三香」

「そ、そうだね……」

 おそらく、佐江は私の否定できない性格を知って利用しているのだろう。同意が欲しいときは、私に話を振ってくる。たぶんこれが私の、このグループでの役目なのだ。ひとりにならないため、いじめられないためにも、役目は全うしなければならない。

 佐々木はいじめられてしまうのだろうか。そう思うと、いたたまれない気持ちになった。そして同時に、私じゃなくて良かったと心の底から思った。


        *


 母が交通事故に遭ったという連絡がきたのは、それから三日後のことだった。

 私はそのときゲームに熱中していて、電話が鳴っていたのに全然気付かなかった。  七、八回目のコール音でようやく気づき慌てて電話をとったものの、待ち受けていたのは、世界が全て裏返しになるような衝撃的な出来事だった。

「もしもし? 加藤です」

「もしもし、加藤様のご自宅でしょうか? 関西総合病院です。もしかして娘さんですかね?」

 病院? 予想もしていなかった電話にたじろぐ。

「あ、はいそうです。何かあったんですか?」

「お母様が交通事故に遭いました。今かなり危険な状態にあります。緊急手術をしなければならない状況です。そのための説明をしたいので、できればお父さんと一緒に今すぐ来ていただきたいです」

 一瞬、確かに時が止まった。一気に血圧が上がったのが分かる。信じられないという気持ちと、今まで感じたことのない胸のざわめきが混ざり合って真っ黒になった。

「は、はい……分かりました。急ぎます」

 受話器を置いた手を見ると、自分の手ではないみたいに震えていた。どこか現実味のない看護師の声が頭に残って離れない。急がなければと思うのだが、漠然とした恐怖がそれを邪魔してくる。そしてこの先自分に起きるであろうことなど、当然の如く考える余裕は無かった。


        *


「恵、恵は大丈夫なんですか!?」お父さんが医者に向かって叫んだ。

 なんとかお父さんと合流して病院に着くと、真っ白なテーブルと椅子が置かれた小さな部屋に通された。そこには神妙そうな顔をした医師が座っていて、その斜め後ろにはいかにもベテランといったようなおばさん看護師が立っていた。

「今のところは、命に別状はありません」医者が低くしゃがれた声でそう言うと、お父さんは安心したように息を吐いた。

「しかし、命があるのが不思議なほど全身を強く打っていますし、破裂してしまっている内臓も多い。そこで、機械代替を行おうと思っています」

「機械代替ってつまり……」

「簡単に言えば全身を機械に変えることによって、命を繋ごうということです」

痩せ型の医師は、淡々とした口調で手術内容を話す。

 ちょっと待って? これってお母さんが『機械』になるってことだよね? 

 冷や汗がじわーっと身体全体から吹き出した。『いじめられる』という殺人的な雰囲気を纏った六文字が脳裏に映し出された。

「嫌ぁぁ!!」

 小さな部屋に銃声が一発。沈黙が充満した。心の声が暴発してしまったようだ。はっと気付くと、両手が頭を抱えていた。お父さんは「大丈夫か?」と肩に手を置いて、私の顔をのぞき込む。

 嫌だ。嫌だ。いじめられるのは嫌だ。

「機械になってしまうのはお父さんも嫌だ。でも、お母さんの命が一番大切だろう?……分かってくれ」

「……うん、ごめん」

 いじめられたくないなんてとても言えなかった。お母さんが死んでしまうかもしれないのに、自分の心配だけなんて。私は馬鹿だ。最低だ。

 手術は半日を超えた。日をまたぐので、私はお父さんに無理を言って先に帰らせてもらうことになった。お父さんには色々言われたが、『機械』になったお母さんなんて見たくなかった。そして私は、そのまま一度もお見舞いに行くことは無かった。


        *


 長い悪夢のような土日を過ごし、重い足取りで学校へと向かった。先日までは聞き流していた生徒達のざわめきが、くっきりとした輪郭をもって鼓膜を揺さぶる。地面をひたすらに見つめて一歩一歩進みようやく下駄箱まで辿り着くと、キョロキョロと落ち着きのない人影があった。佐々木だ。

「あ、ねえねえ三香ちゃん、私の上履き知らないかな?」

 胸のざわめきに起因して、先日の会話を思い出す。始まった。本当に始まってしまった。さすがに「隠されてるんじゃない?」とは言えず、代わりに「知らないなぁ。違うとこに入れちゃったんじゃない?」と返して、そそくさとその場を歩き去った。返答も訊かずに。

 嫌な予感がする。佐々木がいじめられている。ということは、私も……。胸に焼け石が入れられたようだ。苦しい。教室に入りたくない。教室のドアを開けると同時に、自分の人生が終わってしまうような気がした。それでも私には帰る勇気などもちろん無く、恐る恐るドアを開けてみる。クラスのみんなが一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。怪しい雲行きは見ないようにして、根拠もなく自分を励ます。

 ゆっくりと教室に入っていつものように佐江のグループに近づくと、何かをキャッチボールのように投げ合ってケラケラ笑っていた。よく見ると、それは佐々木の上履きだった。私はその時点で既に心が折れそうだったが、作り笑いをして、明るく、元気に話しかけた。大丈夫、大丈夫。

「みんなおはよう!」

 返事はない。絶望が顔をのぞかせたが、拳を握り持ち直す。もしかしたら聞こえていないだけかもしれない。うまく笑顔は作れているだろうか。震えてはいないだろうか。もう一度笑顔を作り直して、諦めずにもう一度話しかけてみる。

「ねぇ、それってもしかして佐々木の靴? みんなヤバすぎでしょ。ほんとに始めたんだ」

 頑張ってみんなの話し方に寄せたが、それでも返答はなかった。追い打ちを掛けるように、みんなは無言で席を立った。少しもこちらを見ようとはしない。明らかにしかとだ。

「……えー? なんで無視? みんなひど…く…ない?」

 一生懸命言葉を発したが、声が震えているのが自分でも分かった。私の声は、みんなのざわめきに吸い込まれて無くなる。服を着ていないような羞恥心が生まれた。みんなに見られている気がして、思わず目を伏せる。

 そのとき、朝礼のチャイムが鳴った。まだ通学鞄も下ろしていないのに気付き、なんとか自分の席に向かう。いつものように椅子を引いて座ると、突然刺すような痛みが尻に走った。慌てて立ち上がり椅子を見ると、そこには私に向かって針を向ける、画鋲があった。       

 悔しさと情けなさが同時に襲ってきて、思わず歯を食いしばる。ふと佐江たちの方を見ると、にやりと笑いながらこちらを見ている。思わず目をそらし、机に突っ伏して、泣いた。

 それから私の学校生活は地獄へと変貌した。誰一人目も合わせてくれない。佐江がみんなに働きかけたのだろうか、いじめはクラス全体にまで広がっているようだった。移動教室では一人で教室まで行き、みんなと廊下ですれ違うときなんかは、露骨に避けられた。極めつけは給食時間。私の学校では六人一組で班を作り、給食の時間になると席をくっつけて食べる。でも私はくっつけてもらえなかった。私の机とみんなの机の間には、綺麗に出来た隙間があった。その隙間は底がないみたいに、暗くて怖かった。その隙間に飛び込んで消えてしまいたかった。

「ねぇあんた、親が機械になったんでしょ? キモすぎ。マジうける笑」

 久しぶりに喋りかけられたと思ったら、やっぱり悪口だ。反応をする気力すら、もう私の中からは消え失せている。やっとこぼれ落ちたのは、なぜか謝罪だった。

「ごめん」

「はぁ? 謝るんだったらもう学校くんじゃねーよ」

「ごめん」

 俯いて、涙を誤魔化した。少しの間そうしていると、頭に冷たい水の感触が伝わり、やがて服を濡らした。臭いからして、明らかに牛乳だった。

「ちょっと、やめてあげなよ笑 機械だから壊れちゃうんじゃないの?」

佐江がいつのまにか近くに来てそう言った。その冷たくてベタベタする感触は、そっくりそのまま、みんなの視線のようだ。

「早く洗いに行けよ。臭すぎ。迷惑なんですけど」

私は耐えられなくなって、ついに教室から飛び出してしまった。この二ヶ月、逃げないように、負けないようにしてたのに。なんで私なのよ。なんでお母さんは交通事故に遭うのよ。そのとき、絶対に想ってはいけない感情が芽生えた。お母さんが、憎い。

 私は必死に蛇口で制服を洗った。もうそのときには凄い勢いで泣いていたが、水と一緒になって分からないだろう。一通り洗い流したが、牛乳の臭いは全くとれない。いじめのねちっこさと、酷くマッチしている。自分がみじめで、ため息が自然に漏れる。もうあんな教室になんて戻れない。もう帰ろう。私には無理だ。

先生にしんどいと言ってその日は早退した。全身びちょびちょだったことを問いただされたが、中庭の噴水に落ちたと嘘をついて、半ば逃げるように帰った。


        *

 

 気付いたら日曜日になっていた。確かに土曜日を過ごしたはずなのに、何も記憶は残っていない。金曜日に早退してからというもの、私は明日やってくるであろう月曜日に怯えて、布団の殻に閉じこもっていた。

 私をこの残酷な世界から守ってくれるのは、この布団だけだ。視界は暖かい暗闇で覆われ、胎児のように身体を丸める。できることならばこのまま一生を終えたい。もう生まれたくなんかない。しかし、お父さんの大きな声が私をこの世界に無理矢理引きずり出した。

「おい、起きろ! 行くぞ!」

「……どこに?」

 ずっと暗闇にいたからだろうか、身体の中から水分が枯れ果てて、しわがれたおばあさんのような声が出た。

「はぁ? 今日はお母さんの退院日だろうが! ずっと言ってただろう? 早く支度しなさい!」

 日々の生活に耐えることに夢中で、すっかり忘れてしまっていた。思えばお母さんが交通事故に遭って、二ヶ月が過ぎようとしている。もうそんなに経つのか。この間憎いと思ってしまったことを思い出して、少しだけ声を出して謝る。お母さんは何も悪くない。あいつらが悪いのに。つくづく親不孝な娘だなと思い、みぞおちの奥が引っかき回されるような感覚に襲われた。

 本当は出たくなかったが、母に対する罪悪感のみで布団をどけ、身体に光を当てる。自分を守ってくれるものが無くなって、ひどく心細い。ゆっくりと起き上がったつもりなのに、強い目眩がした。少しずつ体を現実に慣らして、身支度を整えていく。その間私の頭の中はずっと空っぽだった。父が準備している音が、私を責めているような、そんな気がした。


        *


 病院に着くと、待合室に懐かしいお母さんの姿があった。何日ぶりだろうか。ついさっき会ったような気もするし、何年も会っていないような気もする。全身が機械になってしまったとは思えないほど、自然で生々しかった。

「おーい!」

 お父さんがそう叫ぶと、ゆっくりこちらに顔を向けた。そこには、以前と何も変わらない顔があった。優しくて、暖かい。私は目をこすった。泣いているのかもしれなかった。

「やっと退院だな。おめでとう」

 お父さんは顔をほころばせて、嬉しそうに言った。

「ありがとう。あれ? 三香泣いてるんじゃないの?」

「泣いてないよ。目をこすっただけ」

「そんなに強がらなくていいのに」

 お母さんはにこにこしながらそう言って、みんなで笑った。布団なんかよりもずっと暖かい。この世界から守ってくれるのは、布団ではなくお母さんなのだと思った。しかし同時に、学校のことは絶対に隠さなければならないという思いが強度を増す。ましてやそれはお母さんが原因だなんて、死んでも言えなかった。

帰りの車の中で、おもわず私はまどろんだ。全てが心地よかったのだ。ほどよく揺れる車、久しぶりの夫婦の会話、横に座るお母さんの気配。なんて平和だろう。この車がこの世界の全てだったらどれほどいいか。三人だけで、私は十分だ。他には何もいらないとさえ思った。目を閉じて揺れに身を任せていると、不意にお母さんが尋ねた。

「最近学校はどうなの?」

 その言葉を聞いた途端、筋肉が硬直し、忘れかけていたあの惨めな感情がわっと押し寄せてきた。心臓の鼓動が早くなって、車のクラッチ音と重なる。いじめられていることを悟られてはいけない。いつも通りに、何事もないように。大丈夫、大丈夫。

「別に、普通だよ」

うまく話せたのか、自分では分からなかった。不自然じゃなかっただろうか? お母さんと目を合わせることができない。

「そう。普通が一番よね」

 ほっと息をつく。とりあえず大丈夫だ。私は手汗が滲む手でシートベルトを握って、家に着くのを静かに待った。この三人だけの世界は、もういじめに浸食されてしまっていた。


 やっと家に着いた。これでもう学校のことを聞かれる心配は無いだろう。多分。私の家は五階建てのマンションの三階にある。いつもは運動だとかなんとか言って、 嫌々階段で上るのだが、今日は病み上がりのお母さんがいるのでエレベーターを使うことになった。いざエレベーターに乗ると、「あ、郵便」とだけ言って、お父さんは宅配ボックスの方へ走っていった。しょうがないので、待たずに閉ボタンを押す。

「そんなの後でいいわよね、せっかく帰ってきたのに」

 なんだか微笑ましくなって、そうだねと言ってクスッと笑った。

「あ、そうだ! なんでお見舞いに来てくれなかったのよ。寂しかったのよ?」

「ごめん。なんか学園祭やらなんやらで忙しくて、なかなか時間がなかったの」

もちろん真っ赤な嘘だ。いじめに耐えられなくて何も気力が起こらなかっただけだ。

「そう。三香も大変なのね」

 そう。大変だ。本当に。これからもこうやって嘘をつき続けなければならないのかと思うと、全てが嫌になった。

 自分の部屋に戻って、椅子にどすっと座り込む。お母さんの荷物を片付けていたら、もう寝る時間になってしまった。寝て起きたら、またあの地獄か。明日はどんなことをされるんだろう? でも行かなければ。休んでしまったら、色々と聞かれてしまう。

 そのとき、コンコンとドアがノックされた。はーいと気の抜けた返事をしてドアを開けると、何かを言いたげに佇んでいるお父さんの姿があった。ふと奥をみると、お母さんもいる。手を胸の前で組んで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「どうしたの?」

 お父さんは怖い顔、いや、どうしていいのか分からないような顔をして、こちらを睨んでいる。少しの間があって、手に持っている白い封筒を私に見せた。

「さっき郵便物を見に行った時、これが入ってた」

 それを持つ手は震え、今までみたこともないような哀しい目でこっちを見ている。

「…なに? それ」

 嫌な予感がする。家にだけは、家だけはやめてよ。お父さんはゆっくりと中身にある紙を取り出すと、広げて私に見せた。

──死ね。 二年三組より──

 頭が真っ白になった。簡潔かつ無慈悲なその二文字は、私の心を踏みにじった。その後、クラスメートへの憎悪と悔しさでわなわなと全身が震えた。

「ねぇ三香、なんでもっと早くに言ってくれなかったの? 先生に相談はしたの? いじめだなんて……大丈夫? 今から先生に電話してあげようか?」

 いつの間にかお母さんがドアの近くまできて、眉尻を下げながら言った。

 恥ずかしかった。親にこんな姿を見られるなんて、いじめられるよりも苦しかった。

「違う、違うの……」

 涙が止められなかった。いじめが始まって以来、親の前で初めて泣いた。早くこの場から走り去ってしまいたかった。こんなこと言っちゃいけないけど、死んでしまいたかった。

 そのとき、お父さんが小さな声で言った。

「せっかくお母さんが退院したっていうのに……なんで今なんだ……」

「ちょっと! あなた! 何言ってるの!?」

 その言葉はナイフのように、私の心臓を突き刺した。次の瞬間、無意識に私は駆け出していた。もういや。こんな世界、もう無理。裸足のまま外に飛び出して、階段を駆け上がる。

「ちょっと! 待ちなさい! 三香!」

 呼び止める声が聞こえたが、無視して必死に階段を駆ける。足をもつらせ、すねを角に打ち付けながら、この世界の出口を目指す。やっとのことで屋上に着いた。夜の空は、いつしか見た布団の中のように暗くて暖かかった。

 私は欄干に向かってゆっくりと歩き、乗り越えた。ふと下を見るとさすがに足がすくんだが、ようやく苦しみから解放されることを思えば、なんてことはない。いざ飛び降りようとしたとき、屋上に続くドアがバタンと開いた。

「三香! やめろ!」 「三香! やめて!」

「うるさい! 近づかないで!」

 三人ともが黙って、風の音だけが聞こえる。少しの沈黙の後、お母さんが口を開いた。

「やめて三香。馬鹿なことしないで。落ち着いて、ちゃんと話しましょう」

なんで分からないんだ。親にいじめられていることを知られるのが、一番辛いんだってこと。

「うるさいって言ってるでしょう!? 言わせてもらうけどね、いじめられてるのはお母さんが原因なんだよ!?」

 言ってしまってから、激しく後悔した。それだけは、絶対に言っちゃいけないと思っていたのに。お母さんは、ぽかんと口を開けている。

「ご、ごめんなさい。言い過ぎた」

 こんな状況で謝ってしまうのは、やっぱり私だなと思う。

「説明して」

 私は観念して、トボトボと話し始めた。

「お母さん全部機械になっちゃったでしょ? だから『機械の子だ』とか、『機械がうつるから近寄るな』とか言われて、いじめられるようになったの」

 お母さんは顔を歪めて、口に手を当てる。

「そんなの、早く言ってよ……」

 お母さんも、私も泣いていた。お父さんは険しい顔で、その場に立ち尽くしている。

「ごめんお母さん、お父さん。もっと早く言っていれば、こんな大事にはならなかったかもしれないのに……」

「そうね。でも、よく考えてみればとっても言いづらいことよね……ごめんね」

「でもあなたとクラスの子達は、一つ間違ってることがあるわ」

 間違っていること? 頭を巡らせるが、思い当たるものはない。

「私は全部機械なんかじゃない。心は人間よ」

 ロボット映画みたいなこと言うじゃん。私はおかしくなって、少し笑ってしまった。

「ね? 大丈夫。私たちはあなたのことを愛してる」

 お父さんもこくりと頷く。

「だからこっちにいらっしゃい」

 いつの間にか目が覚めていた。さっきは感情的になりすぎたなと反省し、欄干をまたいでお母さんの元に走る。ばっと抱きつくと、胸に顔を埋めて、泣いた。思えば、お母さんが退院して、初めて身体に触れたような気がする。

 そのとき、お母さんの胸の中から、ヴィーンというモーター音が聞こえた。乾いていて、感情がなかった。うずめた胸は、信じられないほど冷たい。私はその瞬間、お母さんが信じられなくなった。良いのか悪いのか、涙が引っ込んだ。お母さんに対する感情がぐちゃぐちゃになる。逃げ場がない気がして、後ずさりした。

「あなたは誰? ほんとにお母さんなの?」

 猜疑心がどんどん膨らむ。

「まって三香! 身体は機械かもしれないけど、ほんとにお母さんなの!」

 もう何も信じられない。この人は誰だ? 本当に生きているのか? 私は必死に腕を掴んでくる父と母を振り払い、そのまま後ずさりして、欄干をもう一度またいだ。

「やめて! 待って!」

 お母さんは泣きじゃくっている。でももうその涙は、ただの水にしか見えなかった。私は流れるように飛び降りて、鳥になった。あの世に向かう、渡り鳥だ。でも、翼が無かった。私は諦めて胎児のように丸まり、夜の暖かい暗闇に吸い込まれていった。

 

        *


 目が覚めると、病室にいた。身体からは無数の管が伸びていて、独特のアルコール臭が鼻をさす。なんだ、死ねなかったのか。ふと横を見ると、疲れた顔をしたお母さんとお父さんが座っていた。

「三香? 三香!」

「良かった。目が覚めた」

 その二人の顔は、とても懐かしかった。

「大丈夫? どこも痛くない?」

 そういえば、どこも痛くない。あれほど高いところから飛び降りたというのに、不思議だ。

「良かった。ほんとに良かった」

 お父さんは泣きながら何度も頷く。

「私って、あれからどうなったの?」

 喋りたそうにしているお父さんを制して、今度はお母さんが口を開いた。

「あなたは屋上から飛び降りたけど、下の植え込みに落ちて奇跡的に助かったのよ。 助かったといっても全身ボロボロだったけどね。そこからはお母さんと同じ」

 同じ? ということは……

「機械になっちゃったわ」

 なぜかお母さんは楽しそうに言った。お父さんはその様子を見て、

「家族三人中二人が機械なんて参っちゃうな」と、これまた楽しそうに言った。そんな二人を見ると、いじめのことなんかどうでも良くなって、家族みんなで笑った。なんだ、機械になっても感情はちゃんとあるじゃん。

「ね? ちゃんと心はあるでしょ?」

 私は涙ぐみながらコクっと頷いて、ごめんと言った。今度の涙は、うれし涙だ。

「いじめの件は、転校でもなんでもすればいいわよ」とおかあさんは言って、ニコッと微笑んだ。

「もう、なんか楽観的じゃない?」

 私がそういうと、また笑い声が響く。病室は日の光が差して、まぶしいほど明るい。あんなに求めた布団の中の暗闇は、今となってはもうただの布団の中でしかなかった。お父さんとお母さんの笑い声はとても暖かくて、私の心に、深く、深く染み渡っていった。

 ふと窓の外を見ると、一羽の鳥が飛んでいた。渡り鳥とは違って一人だ。でも彼は真っ直ぐに力強く飛んでいた。何にも縛られずに、自由に飛んでいる。彼になりたいと思った。なろうと思った。

 心が軽くなった気がして、胸に手を当てた。キュルキュルという小さな音が聞こえてくる。その音は鳥の鳴き声にとても似ていて、思わず聞き入ってしまった。これからはこの子が守ってくれる。うん。きっと大丈夫だ。

 お母さんとお父さんは、互いに重ね合わせた手をベッドに置いていた。私は胸から手を離して、そっとその手に自分の手を重ね合わせた。

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