モスクワ認証
小林由和
モスクワ認証
【モスクワ認証】
22世紀初頭、地球温暖化は凄まじい事になっていた。
南半球に人間はいない。人間が集中して生きているエリアは北緯55度以上のロシアのモスクワから北欧、北緯60から80度までの極寒の地だ。ロシアのモスクワは、今や地球の首都である。
世界リーダーはモスクワに存在するとされているが、その生体記号チップは暗号化され、追跡不可能だ。彼の顔すら、AIによってランダムに生成された「標準的な不特定多数の顔」をしており、彼は一般人のように図書館でリラックスして過ごしていても誰にも気づかれない。
世界は「電気信号」で支配されている。ナノテク医療は病を完治させ、テレパシーすら可能にした。だが、その電源キーを持っているのは世界リーダーただ一人。電源が落ちれば、人間はオフラインとなり、数時間で死に至る。
ルシーと私は、警備のためにモスクワとオーストラリアを往復する警察官だ。
南半球、かつてのオーストラリアには、AIが創り出した「疑似人間」たちが肉体労働をさせられている。彼らは悪霊に取り憑かれたような風貌で、モスクワへのテロを計画していた。
光エネルギーボールが、真空のチューブ内で摩擦ゼロの絶頂を迎え、時速1万6千キロを超えた。窓の外は、かつて赤道と呼ばれた煮えくり返る不毛の地が、一瞬の閃光のように後ろへ流れていく。
「ねえ、このバッジ」
ルシーが、自らの胸に光る警察の生体記号を指先でなぞった。彼女の指先は、ナノテク医療システムが完璧に管理しているはずなのに、どこか血の気が引いたように白い。
「もし電源キーが回されたら、このマークも、私たちの正義も、ただのノイズになって消えるのかしら」
私は答えなかった。電波シティの市民にとって、沈黙だけが唯一のオフラインの贅沢だった。
私たちのテレパシー機能は、職務中、常にモスクワの中央サーバーに同期されている。思考の端々に混じる『キツイ』現実の断片も、すべては電気信号として検閲されている。
やがて、鉄道がオーストラリアの地底ステーションに滑り込んだ。
ドアが開いた瞬間、モスクワの清潔なオゾン臭とは異なる、焼け付くような鉄の匂いと、疑似人間たちの『情念』が混じった悪臭が流れ込んできた。
彼らは肉体労働のためにAIが設計した欠陥のない『道具』のはずだった。しかし、ステーションの隅でうずくまる疑似人間の一人と目が合った瞬間、私は背筋に冷たいものを感じた。
その瞳は、暗号化されていない剥き出しの憎悪を放っていた。
ルシーがデバイスを確認し、声を潜める。
「……生体反応がおかしいわ。認証をパスしていない個体が、このフロアに三十二体混じっている。全員、名前も役職もない。ただの『エラー』としてここに存在している」
その時、私の脳内に直接、ノイズの混じった声が響いた。テレパシーではない。もっと泥臭い、古いラジオのようなアナログの音声だ。
『世界リーダーを、図書館から引きずり出せ』
疑似人間たちが一斉に立ち上がった。彼らの手には、モスクワのナノテクでは修復不可能な、物理的な破壊を目的とした古い爆発物が握られていた。
爆破テロの計画は、もはや計画ではなく、今この瞬間に始まった『認証解除』の儀式だった。
「認証エラー! 全員、伏せなさい!」
ルシーの叫びと同時に、ステーション全体に警報が鳴り響いた。
疑似人間たちの動きは、洗練されたモスクワの市民とは根本から違っていた。AIが効率だけを求めて設計したその動きは、不気味なほど正確で速い。
一人が私に近づいてきた。その顔は、製造過程で放置された火傷のような皮膚の捩れがあり、口からは黒いオイル混じりの唾液が垂れている。
「……電源を……返せ……ッ!」
そいつは、私の胸の警察バッジに手をかけた。生体記号を奪い、モスクワへの片道切符を手に入れようとしているのだ。
私は標準装備の「電気パルス銃」を引き抜き、ゼロ距離で引き金を引いた。
青白い火花が疑似人間の胸を貫く。だが、本来なら即座に機能停止するはずの相手が、絶叫しながら私の喉元を締め上げてきた。
「ルシー、効かない! こいつら、神経系を自ら焼き切ってる!」
「痛みを感じないようにプログラムを書き換えたのね……なんてキツイ連中!」
ルシーが横から光エネルギーの警棒を振り下ろし、疑似人間を退かせた。
その時、ステーション全体に「赤色」の警告ログが強制介入した。
『光エネルギーボール鉄道、強制パージ。発車まで、残り60秒』
「逃がす気よ!」ルシーが私の手を掴み、発車間際の車両へ走り出す。「ここに残れば、地底調査の圧力に潰されて、私たちはただの電気の塵になる!」
背後からは、数百体という疑似人間の群れが、地鳴りのような足音を立てて追いかけてくる。彼らの狙いは鉄道そのものの停止だ。
「乗って!」
私はルシーを車両に放り込み、自分も飛び乗った。
閉まりかけるドアの隙間から、一人の疑似人間が指先をねじ込んできた。その指はドアに挟まれ、ひしゃげながらも、私に向かって手を伸ばそうとする。
ガクン、と内臓が浮き上がるような重力がかかり、鉄道が加速する。
しかし、安堵はなかった。車内のスピーカーから、モスクワの中央AIではない、あの「アナログなノイズ」が再び響き渡ったからだ。
『……認証完了。エラーは、すでに車内に紛れ込んでいる』
ルシーと私は、顔を見合わせた。
この高速移動する密室の中に、正体不明の「エラー」が紛れ込んでいる。
加速する車内は、パニックに陥った市民たちの絶叫で満たされていた。彼らの生体バッジは一斉に「黄色」の警告色を放ち、テレパシー機能はノイズで使い物にならない。
「落ち着いて! 席を離れないで!」
ルシーが叫ぶが、その声も狂乱の渦に飲み込まれていく。
その時だった。
車内のすべてのサイネージ広告が、一瞬で真っ白に反転した。
映し出されたのは、あまりにも平凡な、どこにでもいるような男の顔だった。
「……リーダー?」
誰かが呟いた。
その男は、モスクワの図書館の片隅に座っているかのような、リラックスした表情で画面の向こうからこちらを見つめている。
『諸君、落ち着きたまえ。これはエラーではない。ただの“更新”だ』
男の声は、鼓膜ではなく脳の電気信号に直接、流し込まれた。
その男の背後には、図書館の書棚が並んでいるのが見える。地球の命運を握るスイッチを持っているはずの男が、あまりにも無防備に、無関心にそこにいた。
『疑似人間たちは、ただの道具ではない。彼らは、君たちが捨て去った“肉体の痛み”を保存するためのハードウェアだ。だが、少しばかり容量が溢れてしまったようだね』
リーダーが画面の中でページをめくると、現実の車内に異変が起きた。
天井の照明が明滅し、一人の乗客の生体バッジが「黒」に変わった。
その瞬間、その乗客の肉体が、まるでオーストラリア
の地底で見た疑似人間のように醜く捩れ、苦悶の声を上げたのだ。
「ルシー、離れろ!」
私は彼女を突き飛ばした。
変貌した乗客の手が、私の胸元の警察バッジに触れる。
『世界を救うには、電源を切る勇気が必要だ』
リーダーが画面越しに微笑む。その指先が、画面の外にある「何か」に置かれたのが分かった。
モスクワから10万キロ離れたこの高速鉄道の中で、私たちは、彼が今から行う「再起動」の生贄に選ばれたのだ。
「そんな……嘘でしょ……」
ルシーの瞳が、恐怖で細く、小さくなる。
光エネルギーボールの駆動音が、聞いたこともない高周波に変わる。
時速1万6千キロの密室で、私たちは、顔の見えない支配者の気まぐれな「認証」を待つしかなかった。
「半分だ」
リーダーは、画面の中で古い本を閉じ、慈悲深い聖者のような顔で告げた。
『モスクワの総電力量は限界に近い。オーストラリアの反乱を抑え込み、シティの平穏を保つには、この車両の全エネルギーを再分配する必要がある。……どちらをオフラインにするか、私には決めかねる。だから君たちに選ばせてあげよう』
その瞬間、車内の全市民の視界に、残酷な「二択」のホログラムが浮かび上がった。
【A:車両の前半分(1〜10号車)をパージし、全機能を停止させる】
【B:車両の後半分(11〜20号車)をパージし、全機能を停止させる】
「な……何を言ってるの?」
ルシーが震える指で画面を指差す。
私たちは現在、12号車にいる。つまり、「B」を選べば自分たちの死が確定する。しかし、この車両の後方には、先ほど助け出したばかりの怯える子供たちや老人が、満員電車のようになだれ込んでいるのだ。
『どちらかのボタンが、過半数の承認を得るまで、この鉄道は減速を続ける。時速300キロを下回った瞬間、エネルギーは自然放電し、全車両がオフラインになるだろう。全員死ぬか、半分が死ぬかだ』
車内は、一瞬の静寂の後、地獄のような罵声と奪い合いに変貌した。
「Aを押せ! Aだ! 1号車から10号車の連中を殺せ!」
「ふざけるな! 後ろの連中こそ、さっきのテロのせいで紛れ込んだエラーだろ! Bだ!」
さっきまで隣で励まし合っていた市民たちが、お互いの生体バッジを睨みつけ、指先で必死に「自分以外の死」を選択していく。
ルシーは泣きながら、どちらのボタンも押せずに立ち尽くしていた。
「無理よ……そんなの選べない……」
私は自分の指を見た。
警察官としてのバッジが、虚しく青く光っている。
ふと、画面の中のリーダーと目が合った気がした。彼は退屈そうに、図書館の窓の外を見ている。彼にとって、この「選択」はただの効率化のプロセスに過ぎない。
やがて、画面上のカウントダウンがゼロに近づく。
承認率は、僅差で「B」──私たちのいる車両の破棄へと傾き始めた。
理由は単純だった。前半分の車両には、モスクワの富裕層や特権階級が多く乗っていた。彼らのデバイスは、私たちの数倍の「投票権」を持っていたのだ。
「……認証された」
リーダーの声が、死刑宣告のように響く。
ガツン、と凄まじい衝撃が走り、10号車と11号車の間が切り離された。
光エネルギーの供給が途絶えた瞬間、私の胸のバッジが、ルシーの瞳の輝きが、スーッと色を失い、冷たい灰色に変わっていく。
肺が酸素を吸い込む機能を忘れ、心臓が鼓動という電気信号を拒絶し始める。
窓の外、切り離された前半分の車両が、滑るように優雅に、モスクワという「楽園」へ向かって加速していくのが見えた。
最後に見えた画面の中、リーダーはもうこちらを見ていなかった。
彼は新しい本を手に取り、ただ静かに、オフラインになった私たちの存在を、歴史のキャッシュから消去した。
第1章:オフラインの絶望、オンラインの執念
地球首都・モスクワ。空は電磁波の層に覆われ、ナノテクが病を駆逐したはずのこの街で、私は「死」よりも残酷な静寂の中にいた。
「お姉ちゃん、お粥だよ。今日は少し、ナノ・プロテインを多めに入れておいたから」
妹の声が、安っぽいワンルームの壁に跳ね返る。
私は、ベッドから動けない。ガリガリに痩せ細った私の肉体は、かつて警察官としてモスクワの路地を駆けていた頃の影もなかった。あの「謎の交通事故」で右腕と左脚を失い、職務を追われてから、私は社会から「オフライン」にされた障害者だ。
「……ごめんね、ルシー。私のせいで、あなたが働かなくちゃいけなくて」
妹は、私と同じ「ルシー」という名を持っていた。あるいは、警察官時代の私のパートナーの名を継いだアバターだったのか。彼女は私のボサボサの髪を、安物の青いヘアピンで丁寧に留めながら、悲しそうに微笑んだ。
「いいんだよ。お姉ちゃんは、誰よりもかっこいい警察官だったんだから。……ねえ、仕事が決まったの。地球首都鉄道の、特別便の清掃員。これでお姉ちゃんの新しい義足が買えるよ」
それが、彼女の最後の「嘘」だった。
数時間後。私はベッドの上で、脳内に埋め込まれた旧式の通信チップが、異常な熱を発するのを感じた。
視界が強制的にジャックされる。時速1万6千キロで疾走する超高速鉄道。その車内にいるはずの「ルシー」の視界だ。
『半分を救うために、半分をオフラインにする』
車内に流れる無機質なアナウンス。乗客たちの悲鳴。そして、図書館で静かに本をめくる「顔のない独裁者」の微笑が、システム越しに脳へ直接流れ込む。
(お姉ちゃん……)
妹の思念が、強烈なテレパシーとなって私の神経を焼く。
(泣かないで。お姉ちゃんは障害者で、もう動けないから。……でもね、私、ずっと言いたかったんだ。犯人を追いかけてた頃の、かっこよかったお姉ちゃんが、世界で一番大好きだったよ。だから、私の『命』を使って。お姉ちゃんの正義を、終わらせて)
「やめて、ルシー! 逃げて!!」
叫んだ瞬間、視界が白光に包まれた。
鉄道の強制排除。妹の肉体が、光速の突風にさらわれ、鉄路の彼方へと消えていく衝撃。その「死」の痛みが、リンクした私の欠損した手足に同時に走る。
――リンクが切断される。完全な静寂。
私は、暗闇の中で目を見開いた。頬を伝うのは、悲しみではない。煮えたぎるような「怒り」の熱だ。
「……ふざけるな」
その時、数年間、膿んだまま放置されていた脚の付け根の「傷跡」が、銀色に脈動を始めた。
そこには、あの事故の現場で採取し、自らの肉体の中に隠し持っていた、独裁者(リーダー)の「精液と血液と唾液」が入った微細カプセルが眠っている。
妹が死の間際に送り届けた「認証データ」が、私の執念と混ざり合い、カプセルの封印を解く。
ガリガリの肉体に、旧式の医療器具が牙を剥いて食い込み、ナノテクによる強制再構築(リビルド)が始まった。
「ターゲット、照合(認証)。……私はまだ、職務の途中だ」
髪を留める青いヘアピンが、見えないナノマシンの霧を放ち、青白く発光する。
元警察官、ルシー。
彼女の「本当の仕事」が、今、始まった。
第2章:亡霊の潜伏、銀の牙
モスクワの地下、電波シティの最下層。そこは、地上の清潔なディストピアから漏れ出した「電磁波のゴミ」が溜まる掃き溜めだ。
私は、廃屋となった旧時代の警察シェルターにいた。
ガリガリに痩せ細った私の四肢に、むき出しの医療器具が直接食い込んでいる。ナノマシンの銀色の液体が、欠損した腕の断面で火花を散らし、神経の一本一本をハッキングして強制的に繋ぎ合わせていく。
「……っ、あああああ!」
焼けるような激痛。だが、私はその痛みを脳の隅に押しやった。
元警察官としての私の脳は、今、別の作業に没頭している。妹が死ぬ間際に脳内へ送り込んできた、あの高速鉄道の「ログデータ」の解析だ。
「半分を救うために、半分をオフラインにする……。それが、あなたのやり方なのね」
私は、鏡の代わりに、空中に投影された青いホログラムを見た。
そこに映るのは、かつての「かっこよかった私」ではない。医療器具とナノテクが肉を裂き、無理やり人型の形状を保っている、異形の「亡霊」だ。
だが、その手には青いヘアピンがある。
妹が毎日、私の髪を整えてくれた安物。私はそれを、ナノテク医療器具の端子に直接接続した。
「ピッキングよりは、簡単よ」
見えない。マイクロ単位のナノマシンが、ピンの先から霧のように溢れ出し、シェルターの古いネットワーク回路へと侵入していく。
私の指先はガリガリに細いが、ヘアピンを通じて放たれる「見えない牙」は、シティを支配する鉄壁のセキュリティを、内側から音もなく噛み砕いていく。
ターゲットは、地球首都モスクワのリーダー。
図書館で本をめくりながら、時速1万6千キロの鉄路で妹を殺した、あの男。
私は、自分の脚の付け根にある、今や銀色のナノテクで塞がれた「あの傷」を撫でた。
あの日、交通事故の現場で採取し、体内に隠し持っていた男の生体サンプル。それが今、ナノマシンの熱で私の血液と融合し、世界で唯一の「認証キー」へと書き換わる。
『……認証成功。地球首都統合データベースにアクセスします』
脳内に、冷徹なシステムボイスが響く。
私は、シティ中の全防犯カメラをジャックした。数百万の「目」が、私の視界となる。
その時、一つのカメラが、私にとって最も憎むべき男の姿を捉えた。
リーダーの背後に立つ、屈強な背中。
最新のSP装備に身を包み、鋭い眼光を走らせるその男――かつての私の相棒だ。
「……そこに、いたのね」
あの日、事故現場の闇の中で、リーダーの車から降りてきた人物と無言で証拠を消し去っていた男。
彼が今、このモスクワの「正義」を守る指揮官として君臨している。
ルシーは、震える手でヘアピンを髪に差し込んだ。パチン、という小さな音が、戦いの始まりを告げる。
「お姉ちゃんは、もう働けない……。そうよね、ルシー。私はもう、警察官じゃない」
私は暗闇の中で、冷たく、美しく微笑んだ。
「私は、あなたたちのシステムを食い破る、バグ(亡霊)よ」
第3章:宿命の認証、正義の帰還
地球首都モスクワ、最高評議会ビル。地上500メートルの静寂を、見えない死神が這い上がる。
私は、ナノテクで強化された指先を壁面に食い込ませ、垂直のガラス壁を登っていた。ガリガリの体は、もはや重力を無視するほどに軽量化され、医療器具の駆動音が風の音に紛れる。
「……ターゲット、視認」
最上階の執務室。そこには、図書館の静寂をそのまま持ち込んだような「顔のない独裁者」と、彼を護る鉄壁の盾――かつての相棒がいた。
私は窓を破ることなく、青いヘアピンから放たれたマイクロ・ナノマシンを、空気循環ダクトから室内に流し込んだ。
SPたちの最新式インカム、光学迷彩、心拍センサー。それらすべての「認証」を、私のナノマシンが内側から書き換えていく。
「誰だ!」
相棒が異常に気づき、銃を構える。だが、彼の網膜ディスプレイに映し出されたのは、敵の姿ではなく、あの日の交通事故現場の生々しい映像だった。
「……ルシー、なのか?」
相棒の声が震える。私はゆっくりと、窓の外から音もなく室内に降り立った。
逆光の中に立つ私の姿は、ガリガリに痩せ細り、銀色の医療器具が肉を貫く異形の亡霊だ。
「お久しぶりね、相棒。……あの日、私の証拠(命)を消した時の気分はどうだった?」
「お前は死んだはずだ! 障害者になって、二度と表舞台には……!」
「ええ、私は『働けない身体』になったわ。でも、妹が自分の命をオフラインにして、私を自由にしてくれたの。……あなたが守っているその男を、検挙するためにね」
リーダーが初めて本から顔を上げた。冷酷な微笑が消え、戸惑いが走る。
彼は知らない。私の血液の中には、彼自身の精液と血液と唾液から解析された、偽造不可能な「絶対的認証キー」が流れていることを。
「認証(ログイン)、開始」
私がヘアピンを指で弾いた瞬間、見えないナノマシンの霧がリーダーに殺到した。
彼の指紋、虹彩、DNAデータ。そのすべてが私のナノマシンによって奪われ、全世界のネットワークへと一斉に放流される。
モスクワ中の、そして北緯55度圏内の全市民の端末に、リーダーの醜い本性と、鉄道で妹を殺した「死の投票」の記録が、彼の「本物の署名」付きで表示されていく。
「何をした……私の権限が、消えていく……!」
リーダーが叫ぶ。彼の「電源キー」は、今やただの鉄屑だ。
相棒が銃を構え直す。だが、その銃口は小刻みに震えていた。
私は彼に歩み寄り、その胸元にあの青いヘアピンをそっと置いた。
「これは、ルシーが最後に遺したものよ。……お姉ちゃんはかっこよかったって、彼女は言ってくれたわ」
相棒は泣き崩れ、リーダーの身柄を確保することさえ忘れ、崩れ落ちた。
正義の「認証」は完了した。
エピローグ
一週間後。モスクワには、数十年ぶりの本物の雪が降っていた。
独裁体制は崩壊し、システムは「半分を救う」ための選別をやめた。
私は、ガリガリのままの脚を、新しいナノテク義足で支え、妹と約束した高台に立っていた。
風に吹かれる髪を、新しく買った、しかし妹が使っていたのと同じ青いヘアピンで留める。
「ルシー。見てる? ……お姉ちゃん、ちゃんと働いたよ」
私の瞳に映るモスクワは、完璧な電波シティではない。
美しくも残酷で、けれど誰もが「自分自身の命」でログインできる、不完全で愛おしい世界だ。
私は再生した足で、一歩、雪を踏みしめた。
私の物語は、ここからまた、始まる。
【完】
モスクワ認証 小林由和 @dty7612
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