裕福な避暑地
ペンギン内閣
本編
"三日前から始まったゼネラル・ストライキによって、景況感指数は三十ポイント減少した。専門家の間で、長期化するのではないかという懸念が根強い。労働者たちはパンを要求し、当局との間で多数の衝突が発生している。"
"ある議員は『富裕層への課税が少なすぎる。貧困問題に対して真剣に取り組むべきだ』と主張し、『高貴な者の義務』の復活を訴えている。"
私は、ホテルの一室にて、父親の高級紙を読んでいた。反抗期をこじらせていた頃は、タブロイド紙ばかり読んでいたが、もうやめた。やはり、あれは私の性に合わない。
身分的自由を獲得してからというものの、貴族制は無くなって、成功の尺度はお金だけになってしまった。もちろん、経済的成功には資本が必要なので、元貴族たちが多い。しかしそう言った人間も、身分的自由をいいことに、『高貴な者の義務』を放棄し始めていた。権利は貴族、義務は庶民だと言わんばかりに。
一人の人間としては強力なエリートも、社会から見れば矮小な存在だ。エリートは庶民よりも平均寿命が長いものの、歴史と比べれば、どんぐりの背比べ。大衆は、このホテルに泊まっている人々のことを、陰謀を立て世界征服を目論む何かだと思っているようだが、実際はそうではない。
私は今、個人的な悩みを抱えている。例えば、今夜演奏するピアノの曲を、どれにしようかとか。だから、自分が大衆と同じ一人の人間に過ぎず、矮小な存在だと受け入れよう。
私の父親は、有名な学者だ。しかし、三代たどれば、行き着く先祖は農民。所詮は成金だ。それにいくら有名な学者と言ったって、上流階級から見れば全くすごくない。普通にしていれば、裕福な庶民であったのに、私にピアノをやらせたり、こうして避暑地の会員制ホテルで交流させようとする。
私は、そんな父親が嫌いだった。しかし、十九になった今なら、私は父親の気持ちがわかる。それに、父親が私を愛していなかったわけではないのは、知っていたから。
夜のパーティー。私は黒のドレスに身をまとい、ピアノの前に立つ。拍手が起こった。ドレスコードで身を纏った中年男性、しっかりと化粧をした中年女性、そしてその間にいるのがご子息たちだ。最初のピアノコンクールでは緊張したけれど、もうそんなもの消え去った。何度やっても緊張するというピアニストは、きっと誠実な人達なんだろうと思う。
私は大きなミスを犯さなかった。もちろん、小さなミスは数え切れないほどあるけれど、演奏全体でみれば全く分からない。機械のような精密さを求められていないのは分かっていたし、素人耳で上手く思えるならそれでいい。ここはコンクールじゃない。私はピアノに命を賭けていない。せいぜい、上手く弾けるのが楽しいという気持ちだけだ。
私が演奏を終え、両親の元に戻ると、父親が感慨深げに頷いていた。すると、一組の家族が近づいてきた。見覚えのある顔であったため、すぐに思い出した。二大財閥の分家だ。両親に連れられて、歩いてきた男の子が一人。多分高校生くらいだと思う。表面上は落ち着き払っているが、顔がこわばっているのが分かった。私は、彼を初めて見た。
「お見事な演奏でした。多くの賞を頂かれたそうですが、生で聞くと素晴らしいですね」
「ありがとうございます」
私の父親が照れてヘコヘコとしているけれど、褒められているのは私だ。すると、その男の子の肩を、そちらの父親が押す。彼は一歩前に出た。短髪にもかかわらず、ケアされた美しい毛。すべすべの肌。分かりやすく愛らしい、くりっとした目。小顔。華奢で美しい細身の身体。目が合うと、彼は慌ててそっぽを向いた。
「息子は野鳥の観察が趣味でしてね。もしご興味おありでしたら、いかがでしょう?」
私はまずいと思い、口をはさむ。
「しかし、お父さん。私は、勉強を」
「何を言う。ずっと部屋にいて、煮詰まるのもつらかろう。せっかくのお誘いだ。行ってみては」
向こうの両親や、そのボンボンもニコニコしている。ここで拒絶という選択肢は事実上無いと言って、差し支えなかった。私が承諾すると、父親は上機嫌になる。そこで子供たちは奇麗に排除されて、親の間でドンドン段取りが決まっていった。私は居心地の悪さしか感じなかったが、向こうの息子はさも整然としており、腹立たしかった。親が自分のことを決めてしまう気持ち悪さが理解できない、子供に見えた。
翌日、私たちはエントランスで落ち合うことになっている。私は──高級ブランドの良い生地の──ジーパンと細い縞々模様の長袖Tシャツを着ていった。もちろん、スニーカーである。髪の毛は、邪魔になりそうだったため、ポニーテールにした。あれはボリューム感を出さないと、老いて見えるものだから面倒くさいんだ。
彼は前のパーティーと同様、橙色のセーターに、白いシャツ、そしてグレーのスラックスであった。唯一の差異は、ローファーではなくスニーカーである点だ。
「服、汚れないの?」
「慣れているもので」
「そう」
慣れているなら良い。逆に誘っておいて、慣れていないと言おうものなら、腹立たしい。彼の「行きますか?」という問いに対して、私が同意する。ホテルの入り口には屋根があり、円状を描く石造りの道路があった。タクシーが三台ほど止まっていたが、多くの宿泊客は自前の運転手を持っているため、中の男性は暇そうにしていた。タクシーを使うのなんて、私の家族くらいだろう。
「三分くらいですが、乗りますか?」
「いい。歩きましょう」
彼は、微笑みを返してきた。九月下旬は残暑が残るものの、避暑地はカラッとした晴天であった。時々現れる風は、音を立てない優しいものであった。羽織要らずで長袖がちょうどいいこの季節は、好きだ。ホテルを出た二車線の私道には、大きな歩道が付随していた。これは珍しいことで、他の道の歩道は異様に狭い。車ファーストなのである。そこから一度も公道に出ずに、その湿地へたどり着くことができる。
道路の側に、木々で囲まれた細い小道が現れる。そこを通ると、空間は大きく開け、草原が広がっていた。一面に広がる薄緑色の低い草本植物、その先にある緑の山々は空の青さと調和している。ライトグレーの木材で作られた道は地味であり、自然の繊細な美しさを壊さない。
人類は自然に対して、謙虚な心持で接しなければならないのだ。全て同じに見える低い草本植物も、決して同じではない。例えば、高さが揃っていない。お調子者のように、にょきっと現れる茎があれば、隅っこで気弱に読書をする文学少女のごとく、慎ましくある植物もあった。
また、花が咲くものと咲いていないものがある。しかしそれは、花が咲かないからと言って、劣っているわけではない。例えば、あの植物は春の訪れと共に甘美な青い花を咲かす。しかし、今、それを見ることはできない。
短絡的で粗暴な人間は、この局所的な事実を切り取って、誤謬する。真の美しさを目撃するために、観測者は辛抱強く待たなければならない。愚者の前に、優美さは現れないのである。
彼は前を歩いていたが、私の方をしばし、振り返ってきた。気にしているみたいだった。今日は勉強をするつもりだったのだが、親たちの政略のせいで、見知らぬ男と散策する羽目になったのである。私と彼の歩くスピードは一致しないようで、いつも彼が少し先に行ってしまって、振り返って待つということの繰り返しだった。私は、せかされているような気がして不快であったし、彼のペースに飲み込まれるのは癪だったから、決して速度を変えなかった。そのうち、彼のほうが合わせてきて、私たちは一定の間隔になった。
「突然、両親が誘ってしまって、すみません」
「いいえ。全く。むしろ、光栄でしたよ」
私は、我儘で下品な人間だと思われたくなかったから、それを認めなかった。ここで、自分の本心を曝け出すのは、どこか"敗北"な気がした。不満、嫌悪、拒絶。どれも貧相な感情である。現実には拒否したいことは山ほどあって、実際に拒否しなければならないこともあるのだけれど、正面から拒否することを無粋だと思ってしまうのはなぜだろう。
「僕も光栄です。美しい方と一緒に出かけられるわけで」
「それは嬉しい。私のどこを美しく感じたんですか?」
私が意地悪な質問をぶつけたのは、美しいと称されたのに対して、腹が立ったからだろう。美しいという言葉は素晴らしい賞賛の言葉である、と私は思う。だからこそ、それを軽々しく使う彼に苛立ちを覚えた。彼は予想外だったのか、顔をしかめる。そのまま怒り出すかと思いきや、神妙な顔つきになって悩み始めた。悩んでいる間、彼は止まったために、私も足止めを食らう。こんな面倒なことになるのであれば、聞かないほうが良かったかも。
「あなたの内面的な美しさに惹かれたからです」
「内面? 私とあなたは一時間も過ごしていないのに?」
「いえ。ピアノを弾いた指の美しさです」
彼は今までの沈着とした表情があっけなく崩れた。恥ずかしい失敗をさらけ出したかのように、顔を紅潮させていた。急に彼が、どこか幼い男の子じみて見えてきて、可愛らしかった。私に弟がいたら、こんな気持ちになるのかと思う。
これはルッキズムなのだろうけど、初対面で内面が分からない以上、外見のみの美しさに頼ってしまうのは致し方の無いことだと思う。実際問題、こうして散策に行っているのは、彼の顔と家柄が良いからだ。私の美しさと釣り合ったのだろう。逆に、内面的な美しさを説いたところで、私に実家と美しさがなければ、こうして彼と会うことはできなかっただろう。階層が固定されていくのは、人間社会にとって良いことなのか、分からなかった。
ただ言えることは、私は彼の内面が全く分からないということだ。ギザな台詞を吐いたりする割に、詰めが甘くて、背伸びした男の子なのか、と私は考える。彼は一件、落ち着いているように見えるのに、どうにも方針が定まらないというか、口説きたいのか、仲良くなりたいのか、判然としない。
草原を通り、小さな森を通ると、池に着く頃には、もう私は彼のことばかり考えていた。それは恋したためではなく、危なっかしすぎたからだ。挙動や言動一つ一つが身の丈に合わないというか、子供が大人の物まねをしているみたいであった。
池の周りに設置された、木の柵に近づく。池は深い緑色の透明で、水底を見ることができる。水草がところどころで生えていた。いくつかの落ち葉が浮いていて、それが右へ左へ動いていた。周りには誰もいなかった。この敷地一帯はホテルの所有物であるために、会員しか入ることができない。人口密度が極端に低いのも、そのためかな、なんて考えた。ここにいると、土地が有り余っているように感じてしまう。土地を持っていない貧民がこの世に沢山いるのに。
彼が突然、指し示す。
「見えますか?」
彼の指の先には、黄色っぽい小さい何かがあった。それは向こう側の池の浅瀬を歩いており、時折止まっては、瞬時に動き出すという、せわしい行為を繰り返していた。鳥は常にどこかを向いているのだが、なぜか水面のほうを見ない。水中に餌があるのだから、そちらを見ていればいいのに、と私は思ってしまう。餌を取るよりも、天敵を素早く見つけるほうが、重要なのか。餌は複数あっても、自分の命は一つしかない。
「確かに。でも、ちょっと裸眼だと見づらい」
さも困った口調を心掛ける。そして、不服そうに残念そうに視線を下げた。「で? どうなの?」と、私が視線を彼のほうに向けると、予想通りだった。
「ふふ…。双眼鏡です」
彼は誇示するかの如く自信に満ち溢れた表情で、それを二つ分、出す。単純な男…。しかし、ちゃんと持って来てくれた気遣いというものは、好感だった。
「太陽を見ないでください。危ないから」
「ありがとう」
知っている。彼は、私のこと、小学生か何かだと思っているのかもしれない。しかし、私は大人なので、にっこりと笑ってあげた。私のための善意なわけで、笑顔くらいしておこう。
私は、双眼鏡を手に取って、まずは鳥の位置を再確認する。そして、それらに合わせるよう、慎重に双眼鏡を覗く。そこには池の水面のみが写っていた。無風状態だと思っていたのだが、実際は違くて、あっちに行ったりこっちに行ったり小さい波が現れては、そのうち消えていた。それらの波は互いに干渉し打ち消しあうものだから、全体として大きな波は生まれない。
私は裸眼で見た情報を頼りに、左右と微妙に動かしてみると、例の鳥が現れた。私からの視線に気が付いたように、固まっていたが、数秒後、また小さく首を動かし始めて、水中の何かを食べていた。一秒くらい固まり、首を動かして周りを警戒し、動く。そして、また食べ始める。
その繰り返しだった。私は、飽きないのかなと思ったけれど、人間だって同じルーティンを繰り返し、ご飯を食べる。人間自身が社会的に高度な意味合いを付与しようとも、他の生き物から見れば奇行に思えるかもしれない。
同じ事が何度も続くと、それが永遠だと思いたくなるが、そうではない。首を二、三回動かし、きょとんとしていたそいつは、突如として飛び上がった。こうなってしまえば、観察も何もない。飛び立つそれは、今までのギクシャクとした動きが嘘に思えるほど、滑らかであった。
双眼鏡から目を離すと、どうにも裸眼に対して違和感を感じた。それは多分、お風呂にずっと浸かっていた後の外気や、ずっと目を瞑っていた後の日差し、と同一のものなんだろうと思った。退屈に思うことも多かった観察だが、いざ終わってみると、名残惜しいものだ。私はあの鳥に対して、愛着が湧いてしまった様であった。私が寂しさに身を浸していると、彼が手招きをしてくれた。
この広い池だ。代わりの鳥はいくらでも見つかった。この人気のなさで、鳥たちは自分たちの世界を謳歌している。都会にいる、人が近づいても全く意を返さない擦れた鳩とは違い、少しの音で飛んで行ってしまいそうな浮世離れした雰囲気でる。彼は親にいたずらする子供みたいに、「しー」っと、私にジェスチャーをする。私は苦笑いをするしかなかった。彼の顔が良いため、お茶目っ気のある王子様みたいである。
池ではなく、池のそばの木に、そいつはいた。その木の幹と枝はずいぶんと細く、薄緑から黄色の葉が生い茂っていた。そこには貧相な枝しかない。私の表情を察した彼が、もう一度指し示してくれた。私がもう一度よく探すと、すぐに理解した。
堂々と居座っていたのである。幹の灰色とその鳥の色が重なって、見つけられなかったのだ。一度見つかると、随分としっくり馴染んでいる。不自然に感じるのは、最初の一瞬だけなのだ。しかし、馴染んで当たり前になってしまい、そのありがたみを理解できなくなるくらいなら、違和感を感じ続けるほうがマシなのかもしれないと思った。
それの生態を観察していくうちに、私は飽きてしまった。さっきの鳥の時は、気にならなかったが、今回はそうではなかった。この鳥の挙動が魅力的ではなかったのか、あるいは前の鳥の観察でもう既に野鳥観察に飽きてしまったのか、原因は分からない。誰を責めていいかも不明だ。彼を責めても、帰宅時間が早まるわけではない。帰りたければ、「帰る」と言って帰ればいい。そちらの方が早く帰ることができる。
それに、行くことを承諾したのは私だ。鳥を責め立てるか? 馬鹿げた話だ。鳥からすれば、勝手に見てきて、勝手に失望されたも同然だ。こんな身勝手な話が存在するのか。
心の中で「帰る」と言っても、実際には言えない。双眼鏡を覗き込んだ彼が、真剣そのものだったから? 彼の髪からは、甘い匂いがした。生クリームほどくどくない、爽やかなフルーツの香り。私は、年下の男の子にこんな感情を抱くのが癪だったけれど、魅力的だと思わざる終えなかった。彼に察してほしい。分かってもらいたい。私の事を考えてもらいたい。それは謙虚さなどでは無く、私の願望だ。言ってしまえば、伝わるが、それでは美しさが足りない。カンニングして満点を取ったテストに、果たして何の意味があろう? 分厚い壁で覆われた心の中を手探りで考え、相手の気持ちを理解しようとする、そのプロセスこそに美しさが宿る。
彼は察しが悪い。腹立たしい、分かってよ。いいや、違うのかな、と私は思う。多分彼が、女心をよく理解して、私が野鳥観察に飽きつつあるのも見抜いていたら、それはそれでがっかりするかもしれない。彼の容姿がかっこいいから、尚更そう思う。彼がこの美しさを持っていながら、どこか女性に対して察しが悪い。
そして、その間抜けさが「女心が分からない」などという愚劣な開き直りではなく、純然たる努力の結果によるものだからだ。すなわち、健気なんだ。運動神経が悪い男の子が、延々と鉄棒に挑戦するのを、見ている感覚である。やはり、その要領の悪さにしばし苛立ちを覚えるけれど、どこかで最終的に報われてほしいと思う。
飽きているのが彼に伝わらないよう、しばし私は双眼鏡を覗いて観察する。最初の方は、この鳥のことを魅力的に思えたんだけど、と私は悩む。一度、魅力的ではないと──そこに美しさが宿っていないと──、確信してしまえば、もう二度と後戻りできないのだ。魅力的に思えないものを魅力的だと思うのは、難しいけれど、魅力的に思えるものを実は魅力的ではないと気が付くのは簡単なのかもしれない。私はここでまた、飽きて双眼鏡を外す。こうやって、鳥の挙動以外の色々なことを考え出してしまった時点で、やはり飽きているのだ。ピアノと違って、自分で制御できない点が特に、退屈なポイントである気がしてきた。
果たして、彼はこんなもののどこがいいのだろう、と改めて見てみる。そういえば、昨日彼を紹介された際、どうにもいけ好かない未熟な男の子だと思った。美形で、確かに挙動一つ一つは上品であったけれど、青臭い。ただ、実際に会って話してみれば、まあ悪くないなって、思えた。第一印象とその後の行動に、大きな差異が無かったにもかかわらず、そうである。私は彼を評価する立場ではないが、内心どう思おうが私の自由だ。
長いこと、彼の横顔を見ていることに気が付いた。先輩に初恋する女子中学生みたいでダサいな、と私は内心で自嘲する。他人に対して、内心は隠せても、行動は隠せない。当然、彼のことが好きなわけじゃない。そんな、爽やかな彼が察してくれて、私を愛してくれるなんて願望、思春期と共に捨て去った。ただそうではなくて、必死に背伸びをして、爽やかに振舞う男の子に対して応援するのは、少女の受動的な片想いと全く違う感情だろう。
一時間ほどで、休むことになって、池の近くのベンチに座る。遠くから鳴き声が、響く。山々に囲まれた盆地であるために、よく声が返ってくる。池のベンチには土はもちろん、汚れ一つなかったことから、誰かしらがここにやってきて、掃除していることが伺えた。座って、腰かけても、彼は何かを話すわけではない。私も、ぼうっと池の先にある濃い緑の森を眺めていた。
「どうして、ピアノを始められたんですか?」
「両親の勧めでね。特段、意味はないよ」
私はそれに、曖昧な笑みを返して、伸びをする。
「少し驚きました。あんなに上手いのに」
「みんな、そう言うんだよ。求めているコメントができなくて申し訳ないね。もっと、天才らしいこと言ったほうがいいのかな」
「じゃあ、楽しくないんですか?」
「いいや? 楽しいよ。なんたって上手いからね。物事を自由自在に操れるのは、どんなものでも快感」
「あと、父親が褒めてくれるのが嬉しかったから」と付け加えようとして、やめた。自分の動機を、他人のせいにするのは、嫌だった。仮に父親がピアノを勧めなくとも、私は何かしらを始めて、それに快感を覚えて、続けていただろう。
結局のところ、そんなに私の人生に違いは生まれなさそうだった。だから、意味が無くても上手いから続けているという部分が肝心であって、誰に勧められたからとか、何をやるかとかはどうでもいい話なんだ。ピアノをやらないなら、数学の証明に快感を覚えていたかもしれない。あるいは哲学に、文学に。それとも、油絵だろうか?
どっちにしたって、同じだ。私もコンクールの記事がインターネット上に残っているし、彼は家系図上で生き続けるだろう。だが、それに何の意味があろうか? どんなに粋がったって、突き詰めて考えれば、宇宙の存在の一つである限り、最後は情報さえも消えてなくなってしまうのに。エリートたちは、自分の存在を無名の貧民と違うものだと思いたがるが、何も変わらない。私たちは消えてなくなる運命を持つ、無名の人間だ。
「あなたは? 何か、楽しいことはあるの?」
「僕はあんまり。何をやらしても、兄の方が優秀でしたから」
「ふうん。私とのデートはお兄さんへの当てつけ?」
「いえ…」
彼が目を泳がしたから、大体真実が確定した。もちろん、私たちの両親がセッティングしたのだから、彼がすべて仕組んだわけではない。ただ、誰かの当て付けと、内心思っていなければ、こうはならないはずだ。私と一緒にいたのに、私以外の人間のことを考えていたのは、少々心外だ。まあただ、そんな優秀な兄の当て付けに使いたいと思わせるほどの美人さだというなら、悪くはない。私の寛大な心に免じて許そう。十四の私だったら、ここで帰っていた。
彼は、顔に感情を出さない練習をするべきだ。さもなくば、こんな美形でも、いつまでも女性から足元を見られる。私は、説教をしたかったが、どうにもそれは美しくなかったから止めた。失敗を積み重ねて、自分で気づくその過程が美しいと思う。
「いい高台があるんです。見晴らしがいい場所なんですよ」
帰るのか、まだ野鳥の観察をするのか。野鳥の観察はもう飽きたよ。と思っていた矢先の、彼からの提案だった。私は若干迷ったものの、承諾した。そこは草原のほうの来た道ではなく、池の奥にある森の中の道だった。一応、木の棒が敷かれた道路であるものの、横幅一人分の狭さだ。どうにも、池の周りの開けた所から、枝と葉で覆われた所に入るというのは、抵抗感がある。
十分くらい歩いた。彼が前、私が後ろ、距離は二メートルくらい。坂が思ったより急だ。足が踏み込むたびに、重力を強く感じる。下の木の道は、しばし軋む音がした。両端の土には夏落葉が積もっている。段々と不安は強くなってきた。後、どのくらいなのだろうか。しかし、時間を聞くのも、何となく嫌だ。それとなく何か言ってくれないかと思って、彼の華奢な背中を眺めていると、突然振り返ってきた。
気が付いてくれたか。私は、彼が分かりやすいよう露骨に大変そうな表情をした。頑張って登る女性に、何か一言労いをかけるべきである。できれば、今後の見通しについても教えてほしい。見た目だけじゃなくて、気遣いもできるようになったら、君は無敵だよ! 私は心の中で、祝砲を上げた。
「おぶりましょうか?」
「ありがとう。大丈夫。歩けるから」
「はい」
違う! 違う! 乙女をおぶっていく馬鹿がどこにいる?! よく考えて! 今ここで、おぶってくれなんて、頼めるわけないでしょう! 直接伝えれば、確実なんだろうけど、どうにも野暮だ。美しくない。やっぱり、ここは男の子に決断させたいという、私の願望が消えない。彼がここまでして行きたがる場所に、私は興味がある。まあ、もう少し、付き合ってから判断しよう。
それにしてもこの付近には、トイレもなさそうだ。私が今、尿意を催したら、彼は一体どうするつもりなのだろう? 気にしてほしい。いいや、色々気を遣っているのは分かるんだけども、時々、肝心なところが抜けている。尿意のことを考えると、尿意が現れるのは自明な話だ。私は、このことについて考えるのをやめた。
いつまでも同じ道が続くように思えた。しかし、物事はそうではない。突然、空間が開け、光が差し込む。森から出ると野原が広まっていた。そこは山のふもとにある、斜面だ。前転すれば、転げ落ちていけそうな角度であった。
「ここです! ここ!」
彼がその空間の解放感を表現するかのごとく、両手を広げ、走る。そして、そのまま、砂場で遊ぶ少年みたく草原に飛び込んだ。そこで二、三回、寝返りを打つ。私は彼に対して呆れながら、この草原に体育座りをした。そして、顔を上げた時、視線を移せなくなった。新鮮な風が驚くほど、入ってくる。登っている時には、全く気が付かなかったが、相当な高さであった。遠くにある山は、まるで私たちと同じ目線の先にあるように思えた。私たちのいた池を見た。私たちがその傍にいたときはあんなに大きく感じたのに、今ではあんなに小さい。かつて自分たちがいた場所を、高い位置から俯瞰できるのは、とても気持ちがよかった。
寝返りをうっていた彼はいつの間にか、戻ってきて、私の隣に座っていた。彼は何も言わず、風景に熱っぽい視線を向ける。黙ると、急に大人びて見える。挙動と言動さえ、どうにかなれば、とまた考えて、やめた。彼は、彼らしく成長してくべきで、それを無理やり変えることはできない。私も多分、そうだったのだ。解放的な気分に身を任せると、心の鎖が溶け落ちる気がした。
「私たちって、肩身が狭いと思わない?」
「僕も時々思いますけど、その分、美味しいものを食べられるので。満足していますよ」
彼が唐突に、男性の落ち着いた色気を持ったものだから、甘酸っぱい気分を思い出す。ただ、それは一瞬のことで、すぐに我に返った。私はもう、この熱病にうなされる歳ではないのだ。
どの家庭だって、不満はある。私の場合、完全に希望が無いわけじゃない。不可逆的な信頼の破壊はなかった。父親との距離感だって、模索し始めたばかりだ。いくら思春期の時期があったからと言って、それを放り投げてしまうのは、もったいない。いいや、もったいないのではなく、もはや…
「避暑地で優雅に過ごし、こんな美しい風景を見れる。悪くは無いか」
私は小さく、独り言のつもりで喋る。恵まれた人間が自己の裕福さを自覚できないというのは、恵まれない人間に対する最大の冒涜ではないかと、思った。私は自分の指一本一本を眺めた。彼が美しいと評してくれた指。私が改めて見て、──たとえ、自惚れと言われようとも言わなくてはいけない──、美しいと確信した。
美しさは謙虚な人間の前に現れる。自分自身の美しさや能力を卑下するのは、謙虚と言えないのかもしれない。
裕福な避暑地 ペンギン内閣 @penguincabinet
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