人生涙パン問題
アイリッシュ・アシュモノフ
人生涙パン問題
なにか気分が落ち込んだ日は、
いかに自分がダメな奴かを、嫌でも自覚させられる。
競艇場の端で、ハズレた舟券(ふなけん)を握りしめながら、そう思う。
このレースは固い決着のはずだった。
走る前から一号艇の勝利は決まっていて、二着、三着を予想するだけのレースだと思っていた。
なにせ、ボートレースの一号艇の勝率は大体55%だ。強い選手が乗れば鬼に金棒。
一号艇に賭けないなんて、晴れの日に、あえて傘を持って出かけるようなものだ。
しかし、蓋を開けてみれば、一号艇は掲示板から消え、
僕の財布からも、数万円が消えた。
……いや、そんなことある?
と、自分に突っ込みたくなる。
オケラ(※一文無し)になった僕は、なんとも言えない無常さに打ちひしがれていた。
ゲーテが言うところの、
「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」
というやつだ。
期待は裏切られ、財布は空っぽ。心の中は大雨。
おまけに、ふきっさらしのベンチはひどく冷たい。
つくづく、世界が自分を中心に回っていないことが、嫌というほどわかった。
こんなしょうもないことで人生を語るのも馬鹿らしいが、
とにかく、今はブルーな気持ちなのだ。
たぶん、傍から見たら、すごく滑稽な男なのだろう。
寒さしのぎに手をポケットに突っ込み、頭をフードで深く覆っている。
すでに賭ける物もなく、次のレースは傍観者。
過ぎたレースを、いつまでも悔やんでいる。
周囲を見渡すと、次のレースに挑むため、勇んで発券機へ向かう若者がいる。
その光景に、自分の無力さが際立つ。
そして、底抜けた若さに嫉妬する。
僕だけが、一足先に勝負から弾き出された気がした。
若者から見れば、脱落した僕の存在なんて背景の一部だ。
せいぜい「寒そうな人がいるな」くらいの認識だろう。
彼らにとって外れた舟券は、ただの一過性の出来事で、
すぐ次のレースに上書きされていくらしい。
負けたことより、賭けない時間のほうがよほど耐えられない。
そんな顔をしている。
その様子を眺めながら、思う。
自分にはもう、あの軽さがない。
切り替えの速さも、負けを冗談に変える余裕も、
どこかに置き忘れてきてしまった。
たぶん、あの頃から財布は軽かったが、
気持ちはもっと軽かったのだと思う。
今の状況も、
「運が悪かった」
その一言で片づけられれば、どんなに気が楽だろう。
今日は、思っていたより、ずっと深く落ち込んでいる。
昔、競艇場で膝をつき、嘆くオジサンを見て、
「あぁはなりたくない」と思った。
その背中に、少しずつ近づいている自分を想像して、正直嫌になる。
結局のところ、選択を誤ってきた結果が、今の僕なのだろう。
まぁ、ここまで来ると、
もはや「誤った選択」というより、
「なるべくしてなった」という気もしてくる。
過去の負けは笑い話だった。
あの頃は、負けても明日があった。
金額は問題じゃない。
負けても取り返せると、本気で思えていた。
失敗しても、まだ時間がある。
また次がある。
そう思えるうちは、負けさえも、人生のスパイスにできた。
どんなに負けても、友達と騒いで済ませた。
だが今は、その「次」が、少しずつ見えにくくなっている。
今は、同じ金額でも重く、苦い。
時と共に、笑えない負けが増えた。
それを身をもって知る、悲しい実感だ。
なんだか、湿っぽくなっちゃったけど、
こういう人生涙パン問題ってのは本当に厄介で、
涙のあいだは、物事を肯定できず、
後味の悪い後悔だけが残る。
僕は賭け事で、幾千回も繰り返してきた。
それでも、こういうとき、
少しだけ脱却する術(すべ)は見つけてある。
いまある現実を直視すること。
いかに自分がダメな奴かを、
認めざるを得ないと腹をくくること。
正直、肯定なんてできていないが、
目を背けるのをやめるくらいはできる。
生まれ持った生き方は、そう簡単に変わらない。
僕の行く先は、
競艇場の隅でむせび泣くジジイかもしれない。
そう認めてしまえば、幾分か心は軽くなる。
もっとも、簡単に認められないのが人の業(ごう)というものだ。
本当は、まだ心のどこかで淡い期待をしている。
次こそはと、根拠のない希望を手放せずにいる。
だからこそ、過ちを認めきれず、
また同じ場所で立ち尽くす。
それでもこの未来が嫌なら、
小さな変化を起こす必要があるのかもしれない。
人生をひっくり返すような革命じゃなくていい。
熱くならない、と決めること。
時期じゃないと感じたら、身を引くこと。
あるいは、
世界の中心は自分じゃないと言い聞かせるのもいいかもしれない。
それが何度目かの決意だったとしても、
それでもいいじゃないか。
僕だって、大負けするたびに、
もう賭け事はしないと決意する。
もっとも、
今日の僕には、もう賭けるお金がない。
選択肢も、誇れる余裕もない。
だから今夜は、
スーパーで買った食パンを、生のままでかじる。
それでも、噛めばちゃんと味はする。
涙と一緒でも、パンは、パンの味がした。
人生涙パン問題 アイリッシュ・アシュモノフ @ddd2000
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