第4話:鉄と油と埃の詰所

「……ねえ、アリサ。本当にここが、王都の警備隊本部なの?」

「うん? そうよ。王都の治安を守る要塞、かっこいいでしょ?」


 王都の中心部にそびえ立つ、巨大な石造りの建造物。

 『王都第三警備隊本部』。

 その威容を前に、マシロは呆然と立ち尽くしていた。


 アリサは誇らしげに胸を張っているが、マシロの目には全く別の光景として映っていた。

 かつては白かったであろう石壁は、長年の煤煙と油でドス黒く変色している。鉄格子のハマった窓ガラスは砂埃で曇り、中の様子は一切伺えない。

 そして何より、マシロの敏感な嗅覚を刺激する、この臭気。


「……鉄錆と、カビた紙と、あと……換気の悪い部屋で干した洗濯物の臭いがする」

「マシロ、感想が具体的すぎて辛辣ね!? まあ、確かに女所帯だから多少はね……」


 マシロは小さく咳払いをした。喉の奥がイガイガする。

 森の清浄な空気で育った彼にとって、この都市特有の、特にこの人が密集した詰所から漂う粉塵混じりの空気は天敵だった。


「とりあえず中に入りましょ。ロッテも待ってるし」

「う、うん……。でも、息ができるか不安だよ……」


 アリサがマシロの手を引く。

 その手が触れた瞬間、アリサの心臓がトクンと跳ねた。


(……やわらかっ。何この手。剣ダコ一つないし、吸い付くみたいにしっとりしてる……)


 普段、ゴツゴツした女の手ばかり見ているアリサにとって、マシロの手の感触は衝撃的だった。

 シルクのように滑らかで、少し冷たくて、壊れ物を扱うように優しく握り返してくる。

 アリサが自分の手の平の硬さに密かにショックを受けている間に、三人は庁舎の中へと足を踏み入れた。


 ギィィィ……と、錆びついた重い扉が開く。

 その瞬間、モワッとした熱気と共に、ブレンドされた異臭がマシロを襲った。


「うっ……!?」

「けほっ、けほっ……! す、すごい埃だね……」


 マシロが涙目になって口元を抑える。

 薄暗い廊下には、無数の足跡による泥汚れと、壁に染み付いたタバコのヤニ、そして革鎧の手入れに使われる獣脂の臭いが充満していた。

 行き交うのは、鎧に身を包んだ屈強な女たちばかりだ。彼女ら衛士たちはドスドスと床を鳴らして歩き、すれ違いざまにマシロを見て、一様に動きを止めた。


「(……おい、見たか今の。なにあの白い子)」

「(新人か? いや、あんな華奢なのが衛士になれるわけねぇだろ)」

「(……いい匂いがしたぞ。花のような……)」


 野卑な視線が突き刺さるが、マシロはそれどころではない。

 呼吸をするたびに、肺が汚れていくような感覚に襲われていたのだ。


「ごめん、ちょっと待って。……マスクを着ける」

「マスク?」


 マシロはリュックから、真っ白な布切れを取り出した。

 『多重濾過・シルクマスク』。

 極細の絹糸を何層にも重ねて縫い合わせた、マシロ特製の防塵マスクだ。


「これ、静電気を起こして微細な埃まで吸着するんだ。……ふぅ、これでやっと息ができる」


 マシロが耳に紐をかけ、鼻と口をすっぽりと覆う。

 その姿は、この世界では異様だった。

 顔の半分が隠れたことで、逆に、露出している部分の美しさが際立ってしまったのだ。

 長いまつ毛。濡れたような黒曜石の瞳。そして、マスクの縁から覗く、透き通るような白い肌。

 どこか「禁欲的な色気」とでも言うべきオーラが漂い始めた。


「……あら。隠されると逆に見たくなりますわね」


 背後から、楽しげな声がかかった。

 ロッテだ。彼女は既に庁舎内で待機しており、合流したのだ。


「ロッテ! 遅れてごめん」

「いいえ。いま到着したところですわ。……それにしてもマシロ君。その格好、非常にそそりますわね」

「そ、そそる?」

「ええ。あの布の下で、どんな唇が動いているのか……想像力が掻き立てられますわ。ねえ、アリサさん?」


 ロッテが同意を求めると、アリサも顔を赤らめて頷いた。


「わ、分かる。……なんかこう、見てはいけないものを見てる背徳感があるわね。……ちょっとマシロ、息してみて?」

「え? すー、はー? ……こう?」

「んっ……! マスクがペコペコ動くの……なんか、エッチね……」

「二人とも、何を言ってるの……?」


 マシロは二人の反応に首を傾げつつ、案内されて奥へと進む。


 †


「ここが、私たちが所属する第三小隊の詰所よ」


 案内された部屋は、まさに「無骨」そのものだった。

 石造りの床には泥がこびりつき、木製の机や椅子は傷だらけで、所々黒ずんでいる。

 壁の掲示板には、古びた手配書や通達が無造作に重ねて貼られ、端が黄色く変色していた。

 窓枠にはうっすらと砂が積もり、隅には蜘蛛の巣が張っている。


「……絶望的だね」


 マシロの口から、素直な感想が漏れた。


「えっ、そう? これでも先週、大掃除したんだけど……」


「これで大掃除!? ……信じられないよ。見てよ、あの机」


 マシロは自分の席になるであろう机に近づき、そっと人差し指で天板をなぞった。

 ズズッ。

 指先が、べっとりと黒くなる。


「ひっ……!」


「あー、まあ、手垢とか……鎧の油とかね」


「汚すぎるよ! こんな机で仕事をしたら、書類も袖も真っ黒になっちゃう!」


 マシロの潔癖症スイッチが入った。

 彼はリュックを床......に置こうしてあまりの汚さに躊躇い、とりあえず椅子の上に置き、ガサゴソと中身を漁り始めた。


「……もう我慢できない。俺が掃除する」


「掃除?」


 取り出したのは、オレンジ色の液体が入ったガラス瓶と、スプレーノズル、そしてふわふわの布だった。


「『オレンジオイル配合・万能クリーナー』。見てて」


 マシロはスプレーを構え、机に向かって噴射した。

 シュッ、シュッ、シュッ!

 細かな霧が舞う。

 その瞬間、詰所の、男臭く澱んだ空気が一変した。


「……っ!?」


 アリサとロッテが同時に息を吸い込む。

 弾けたのは、もぎたての果実のような、甘酸っぱく爽やかな柑橘系の香り。

 それは、汗と鉄の臭いが当たり前だったこの空間において、あまりにも鮮烈で、暴力的ですらある「癒やし」だった。


「い、いい匂い……! なにこれ、お花の匂い!?」

「オレンジの皮を大量に絞って、油分だけを抽出したんだ。油汚れを溶かす力が強くて、しかも香りでリラックス効果もあるんだよ」


 説明しながら、マシロは布巾で机を拭き始めた。

 力を込めるため、少し腰を落とし、机に上半身を預けるような体勢になる。

 キュッ、キュッ、という小気味よい音が響く。

 そして、その動きに合わせてリズミカルに揺れる、薄いズボンに包まれた丸いお尻。


「…………(ガン見)」


 アリサの視線は、ピカピカになっていく机ではなく、その動作の主、特に下半身に釘付けになっていた。


(……無防備すぎる。あんな体勢で……腰のライン、細っ。お尻ちっちゃ。ここが男騎士団だったら、間違いなく誰か理性を失って襲いかかってるわよ……いや、普通の職場でも危ないわ)


 ロッテもまた、扇子で口元を隠しながら、鋭い視線を送っている。


「(……なるほど。掃除をしているだけなのに、健康的で、それでいて妙に劣情を煽る……。これは『才能』ですわ)」


 数分後。

 机はあっという間に新品のような輝きを取り戻した。

 長年の手垢と油汚れが落ち、本来の木目が美しく浮き上がっている。触れればキュッキュッと音がしそうなほどだ。


「よし、綺麗になった。……次は椅子だね。これ、硬すぎてお尻痛くなりそう」


「警備隊員はお尻の皮が厚くなって一人前よ!」


「痔になっちゃうよ。体は大事にしないと」


 次にマシロが取り出したのは、奇妙な形に加工された革製品だ。

 『ハニカム構造・多層レザークッション』。


「薄くなめした革ハニカム構造……蜂の巣みたいな形に組んだんだ。これだと空気の層がクッションになって、体重を分散してくれるから。……アリサ、座ってみて」


 マシロに促され、アリサはおずおずと椅子に座った。

 瞬間。


「ひゃぅっ!?」


 変な声が出た。

 なんだこの浮遊感は。

 硬い木の感触など微塵もない。まるで雲の上に座っているような、あるいは誰かの膝の上に座っているような、包容力。

 お尻の形に合わせて革の構造体がたわみ、優しくフィットする。


「……すご。何これ、お尻が……吸われてるみたい……」


「でしょ? これなら長時間のデスクワークでも腰が痛くならないし、空気の通りがいいから蒸れないんだよ」


 マシロが得意げに笑う。

 その笑顔を見て、ロッテがふと真顔になった。


「ねえマシロ君。その『いい匂い』と『ピカピカの机』と『悪魔的な座り心地』……。これ、明日、他の隊員たちがいる前で披露したらどうなるか、分かっておいでで?」


「え? みんなも欲しがるかな? 量産すれば配れるけど」


 マシロの無垢な返答に、アリサが椅子から飛び起きた。


「ダメよ!!」


 詰所内に響き渡る大声。


「絶対にダメ! 配るなんて論外! マシロの匂いを他の女に嗅がせるなんて……じゃなかった、こんな快適グッズを配ったら、隊の規律が乱れるわ!」


「えぇ……? でも、環境改善は……」


「改善しすぎよ! ここは戦場なの! 貴族の邸宅じゃないの!」


 アリサが必死に説得(という名の独占欲の爆発)をしていると、いつの間にか、執務室の入り口周辺に人だかりができていた。

 異変を察知した、隣の小隊の衛士たちだ。

 薄汚れた女たちが、鼻をひくつかせながら覗き込んでいる。


「(……おい、なんだこのいい匂いは)」

「(柑橘系? すっげぇ爽やかだぞ)」

「(見ろよ、あそこ。……誰だあの白い子」


 ザワザワとした、湿度の高い視線。

 マシロはそれに気づき、ビクリと肩を震わせた。


「(……なに? すごく見られてる。やっぱり、俺が浮いてるから? マスクなんてしてるから、変な奴だと思われてるんだ……)」


 マシロは萎縮し、さらに背中を丸めた。

 その「儚げで、いじめ抜かれた深窓の令息」のような姿が、逆に男たちの庇護欲と歪んだ性癖を刺激していることに、彼は気づかない。


「……帰るわよ、マシロ」


 危機感を覚えたアリサが、マシロの腕をガシッと掴んだ。


「いいの! 今日はもう十分! ……家に帰って、作戦会議のやり直しよ! マスクだけじゃ足りないわ。もっとこう、全身を覆うフルプレートアーマーとかないの!?」

「ええ!? そんなの歩けないよ!」


 マシロを引きずって帰ろうとするアリサ。

 だが、その襟首を、ロッテが冷静に掴んで引き止めた。


「もう遅いですわ。……ほら、後ろ」


 ロッテが顎でしゃくる。

 入り口の方を見ると、人だかりがモーゼの海のように割れ、一人の人物が歩み寄ってくるところだった。

 鬼のような形相。全身から立ち上る、歴戦の猛者特有の威圧感。

 第三小隊長、ガルドだった。


「……おい。そこでイチャついてんのは誰だ」


 地響きのような低い声。


「……げっ、アリサ隊長!? 詰所で何シケこんでんすか……!」


 その迫力に、アリサもマシロも固まった。

 部下たちからの好奇の視線。そして、目の前に立ちはだかる明らかに歴戦といった様相の騎士からの冷たい視線。


 マシロの王都生活は、前途多難な予感に満ちていた。

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