幽世の誘い人

水無月 氷泉

還りて誘いて

 全ての感覚が喪失している。


 音も、においもない。


 立っているのか寝ているのか、あるいは浮遊しているのか。


 瞳が開いているのか、閉じているのか。一切分からない。



「ここ、どこだろう。わたし、どうなってるのかな」



 言葉となって外にほどかれたのか、心の思いとなって内に閉じられたのか。それさえもはっきりしない。


 分厚ぶあつもやがかかったまま、五感のない状態が続いている。



 それでも、一つだけ確かなことがあった。


 誰よりも大切な、愛する人だけは忘れていない。


 記憶となって、強く深く刻み込まれている。




 時の流れさえも感じられない、一瞬とも永遠とも思える彷徨さまよいの果て、それは突然訪れた。



 最初に目覚めたのは視覚だった。


 ほのかにともる明かりのようなものが飛び込んでくる。無意識のうちに瞳が開いていたのだろう。


 揺らめく光がゆっくりと近づいてきている。



「目覚めましたか。我がいとし子よ」



 次に目覚めのは聴覚だ。


 魂ごとからめ取られてしまいそうなほど甘美でありながら、どこか毒をはらんだあでやかな声に全身が強張こわばってしまう。



「恐れる必要はありません。我が愛し子を迎えに来たのです」



 見渡す限り、漆黒で覆われる中、目の前に立つ女だけは柔らかな光に包まれ、輪郭が淡くきらめいている。


 戻ってきたばかりの視覚にはまぶしすぎるほどの神々こうごうしさだ。



「あ、あなた様は」



 自然と口をついて言葉がこぼれ落ちる。



「我が愛し子よ。約束をたがえず、一年の時を経てかえってきましたね。嬉しく思います」



 静寂が支配する闇の湖面に、波紋が広がっていくかのように、優しく聴覚を震わせる。


 間違いない。この美しい声音には聞き覚えがある。



 女が軽やかに右手を振るなり、清浄で優美な鈴の音が広がり、漆黒の濃度が次第に薄められていく。



 ふいに意識の奥底を揺さ振るかのごとく、かそけき香気こうきが周囲を包み込み、嗅覚きゅうかくを刺激したところで、全ての感覚が解き放たれた。



木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様」



 唇から神秘的な女神の名前だけがれ出る。



 るべき場所に還ってきたこと、意識が完全に覚醒したことで、想像を絶する勢いで記憶の奔流ほんりゅうが始まった。


 頭が割れそうなほどの負荷に、思わずしゃがみ込んでしまう。



「しばしの辛抱です。すぐに終わります」



 女神の言葉にどうにかうなづき、奔流が過ぎ去ってくれるのをひたすら待ち続ける。



 同時に心の中で強烈な飢餓感が芽生えていた。



 このままでは愛する人の記憶が奪われてしまう。


 他のことなら我慢もできようが、この記憶だけは絶対に手放したくない。手放せない。



「我が愛し子よ。あなたは特別なのです。かの者の記憶を失うことはありません」



 それだけ聞けたら十分だ。


 誰からも、たとえ神であろうとも、絶対にこの記憶だけは奪わせない。


 傲慢ごうまんそしられようともだ。



 ようやく奔流が止まったところで、心配そうに見つめてくる木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめと視線が交錯する。


 以前と変わらない、全てを包み込んでくれる優しい慈母の目だった。



「痛みをやわらげてやれなくて申し訳なく思います」



 言葉の節々に慈愛が満ちている。



 右手にした鈴を三度打ち鳴らし、荘厳な音色が響き渡る。鈴の音の効果もあったのか、頭の痛みはすっかり収まっていた。



 差し出された左手に、恐る恐る手を伸ばし、不敬ではないかと思いながらもそっと重ねる。


 ここには重力がないのだろうか。身体が羽のように持ち上げられていた。



「我が愛し子よ。名前を憶えていますね」



 首を縦に振って、名乗ろうとしたところで、りんとした硬質の鈴の音がただ一度鳴り響く。


 喉元まで出かけていた言葉は封じられていた。


 戸惑い、狼狽ろうばいする中で、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめおごそかに告げてくる。



「決して真名まなを言ってはなりません。迂闊うかつに口に出せば、盗まれる可能性がなきにしもあらずです。努々ゆめゆめ忘れることなきよう」



 理由を問おうとした。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの鋭い目は、明白なまでに拒絶を示している。


 口をつぐむしかなかった。


 いずれにせよ、ここにいる限り、女神の意向は威光であり、かつ絶対だ。



「我が愛し子よ。あなたは私の恩寵おんちょうのみならず、幽世かくりよべられる御方の恩寵をもけているのです」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは語ってくれた。



 想像さえしていなかった。女神の言葉といえども、束の間嘘だとも思った。


 よもや神月代櫻じんげつだいざくらの権能が消し去られ、二度と黄泉還よみがえりの軌跡が起こり得ないなど、にわかに信じられる話ではなかった。



「そ、それでは、私は」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは首を横に振ってみせ、女神として言葉をつむぐ。



「あなたとかの者だけは例外です。私は申しましたよ。特別だと」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの開いた左手のひらに五枚花弁かべんが悠然と乗っている。


 見間違うはずもない。



 月影櫻つきかげざくらだ。



 石竹色せきちくいろに美しく染められ、つややかに輝いている。そこだけがまるで異空間のようでもあった。



「かの者は、現世うつしよで月影櫻が咲き誇る時を待ち詫びています。何年かかるかは、この私にも分かりません」



 直接言葉にされてしまうと動揺がおさえきれない。


 いったいどれほどの時を要するのだろう。その間に愛する人が、と思うと居ても立っても居られなくなる。


 知らず知らずのうちに大きなため息が漏れていた。



「私には私の権能があり、幽世を統べられる御方のようには参りませんが、生者に死者を逢わせることは可能です」



 唐突とうとつに話し始めた木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめを前に、怪訝けげんな表情を浮かべるしかできなかった。


 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめがいささかの苦笑の後、おもむろに核心へと迫った。



「時はかかりますが、少しばかり縮めることができるとなれば」



 女神の真意は分からないまでも、それがどんなことであれ、迷わず飛びつくに決まっている。今は黙って真摯しんしに耳を傾けるだけだ。



「我が愛し子よ。一度現世に戻った際につけられた、仮の名前がありましたね」



 叔父さんが便宜的に娘とするために授けてくれた名前だ。響きが美しく、存外に気に入っていた。



「真名を知られてはならない以上、この時より凪柚なゆと名乗りなさい」



 二度と名乗ることはないと思っていた。


 よもやここに来て、もう一度凪柚と呼ばれることになろうとは想像さえしていなかった。



「我が愛し子。凪柚は那由他に通じるものがあります。途方もなき永遠の世、幽世において、あなたに大切な仕事を与えます」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめは優雅に鈴を等間隔で六度打ち鳴らす。


 遠くまで行き渡った音色をはじめとして、あらゆる余韻が消え、静寂と調和が戻ってきたところで、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの足元には一匹の黒猫がうずくまっていた。



 まさかと思った。


 現世で随分と世話になった思い出が蘇ってくる。



季堯すえたか様」



 呟きは即座に否定された。


 誰あろう、黒猫によって。



 浮かべた驚愕の表情を面白がっているのか、何とも陽気な鳴き声だった。



「違うにゃ。あながち、ほど遠いわけじゃないけどにゃ。季堯様は」



 続くべき言葉は、木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめによってさえぎられていた。



早宮埜さくや、ここからの説明はそなたに任せます。幽世での姿を見せなさい」



 命じられるがままに、黒猫が変身していく。


 しなやかな背中を覆っていた漆黒の毛並みが、淡い光を浴びて透き通るほどの白い肌へと変じていく。


 とがった高貴な耳は、静寂の中に落ちるわずかな音を聞き逃がすことがないよう、丸く、柔らかな形へと伏せられる。


 鋭い鉤爪かぎづめは温もりを確かめるための繊細な指先へと移り、太めの尾は、細く長い黒髪の揺らめきとなって背中に溶けていった。


 四肢ししを伸ばして立ち上がった姿は感嘆に値する。あまりの美貌に言葉を失うしかなかった。



「はじめまして、凪柚。私は早宮埜、季堯様をご存じなら、聞いているはずね」



 どうにか首を縦に振る。


 闇の中できらめく瑠璃るりの瞳と、なまめかしい声に、意識の全てを持っていかれそうになる。



「凪柚には幽世側の誘い人を務めてもらいます。死者を幽世から現世へいざなう。その逆もまたしかり。木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ様がおっしゃったとおり、とても大切で重要な仕事よ」



 早宮埜が零した小さな笑みに頬が熱くなっている。魅了されるばかりで、嫉妬しっとすることさえ馬鹿らしく思えてしまう。



「早宮埜さん、反則です」



 ひとしきり笑い声をあげた早宮埜、口元を左手で押さえ上品な笑みを落とす木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ、何とも対照的な二人に何度も視線を泳がせる。



「早宮埜でいいわ。凪柚、架け橋に案内するわ。道々いろいろ話をしてあげる」



 まるで黒猫のごとく、俊敏な動きで早宮埜が一人で立ち去っていく。



「我が愛し子。構いません。早宮埜を追いなさい」



 木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめの了承を待って深々と一礼、あっという間に小さくなってしまった背中を慌てて追いかけた。



「早宮埜さん、待ってください」




<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る