幽世の誘い人
水無月 氷泉
還りて誘いて
全ての感覚が喪失している。
音も、においもない。
立っているのか寝ているのか、あるいは浮遊しているのか。
瞳が開いているのか、閉じているのか。一切分からない。
「ここ、どこだろう。わたし、どうなってるのかな」
言葉となって外に
それでも、一つだけ確かなことがあった。
誰よりも大切な、愛する人だけは忘れていない。
記憶となって、強く深く刻み込まれている。
時の流れさえも感じられない、一瞬とも永遠とも思える
最初に目覚めたのは視覚だった。
揺らめく光がゆっくりと近づいてきている。
「目覚めましたか。我が
次に目覚めのは聴覚だ。
魂ごと
「恐れる必要はありません。我が愛し子を迎えに来たのです」
見渡す限り、漆黒で覆われる中、目の前に立つ女だけは柔らかな光に包まれ、輪郭が淡く
戻ってきたばかりの視覚には
「あ、あなた様は」
自然と口をついて言葉が
「我が愛し子よ。約束を
静寂が支配する闇の湖面に、波紋が広がっていくかのように、優しく聴覚を震わせる。
間違いない。この美しい声音には聞き覚えがある。
女が軽やかに右手を振るなり、清浄で優美な鈴の音が広がり、漆黒の濃度が次第に薄められていく。
ふいに意識の奥底を揺さ振るかのごとく、
「
唇から神秘的な女神の名前だけが
頭が割れそうなほどの負荷に、思わずしゃがみ込んでしまう。
「しばしの辛抱です。すぐに終わります」
女神の言葉にどうにか
同時に心の中で強烈な飢餓感が芽生えていた。
このままでは愛する人の記憶が奪われてしまう。
他のことなら我慢もできようが、この記憶だけは絶対に手放したくない。手放せない。
「我が愛し子よ。あなたは特別なのです。かの者の記憶を失うことはありません」
それだけ聞けたら十分だ。
誰からも、たとえ神であろうとも、絶対にこの記憶だけは奪わせない。
ようやく奔流が止まったところで、心配そうに見つめてくる
以前と変わらない、全てを包み込んでくれる優しい慈母の目だった。
「痛みを
言葉の節々に慈愛が満ちている。
右手にした鈴を三度打ち鳴らし、荘厳な音色が響き渡る。鈴の音の効果もあったのか、頭の痛みはすっかり収まっていた。
差し出された左手に、恐る恐る手を伸ばし、不敬ではないかと思いながらもそっと重ねる。
ここには重力がないのだろうか。身体が羽のように持ち上げられていた。
「我が愛し子よ。名前を憶えていますね」
首を縦に振って、名乗ろうとしたところで、
喉元まで出かけていた言葉は封じられていた。
戸惑い、
「決して
理由を問おうとした。
口を
いずれにせよ、ここにいる限り、女神の意向は威光であり、かつ絶対だ。
「我が愛し子よ。あなたは私の
想像さえしていなかった。女神の言葉といえども、束の間嘘だとも思った。
よもや
「そ、それでは、私は」
「あなたとかの者だけは例外です。私は申しましたよ。特別だと」
見間違うはずもない。
「かの者は、
直接言葉にされてしまうと動揺が
いったいどれほどの時を要するのだろう。その間に愛する人が、と思うと居ても立っても居られなくなる。
知らず知らずのうちに大きなため息が漏れていた。
「私には私の権能があり、幽世を統べられる御方のようには参りませんが、生者に死者を逢わせることは可能です」
「時はかかりますが、少しばかり縮めることができるとなれば」
女神の真意は分からないまでも、それがどんなことであれ、迷わず飛びつくに決まっている。今は黙って
「我が愛し子よ。一度現世に戻った際につけられた、仮の名前がありましたね」
叔父さんが便宜的に娘とするために授けてくれた名前だ。響きが美しく、存外に気に入っていた。
「真名を知られてはならない以上、この時より
二度と名乗ることはないと思っていた。
よもやここに来て、もう一度凪柚と呼ばれることになろうとは想像さえしていなかった。
「我が愛し子。凪柚は那由他に通じるものがあります。途方もなき永遠の世、幽世において、あなたに大切な仕事を与えます」
遠くまで行き渡った音色をはじめとして、あらゆる余韻が消え、静寂と調和が戻ってきたところで、
まさかと思った。
現世で随分と世話になった思い出が蘇ってくる。
「
呟きは即座に否定された。
誰あろう、黒猫によって。
浮かべた驚愕の表情を面白がっているのか、何とも陽気な鳴き声だった。
「違うにゃ。
続くべき言葉は、
「
命じられるがままに、黒猫が変身していく。
しなやかな背中を覆っていた漆黒の毛並みが、淡い光を浴びて透き通るほどの白い肌へと変じていく。
鋭い
「はじめまして、凪柚。私は早宮埜、季堯様をご存じなら、聞いているはずね」
どうにか首を縦に振る。
闇の中で
「凪柚には幽世側の誘い人を務めてもらいます。死者を幽世から現世へ
早宮埜が零した小さな笑みに頬が熱くなっている。魅了されるばかりで、
「早宮埜さん、反則です」
ひとしきり笑い声をあげた早宮埜、口元を左手で押さえ上品な笑みを落とす
「早宮埜でいいわ。凪柚、架け橋に案内するわ。道々いろいろ話をしてあげる」
まるで黒猫のごとく、俊敏な動きで早宮埜が一人で立ち去っていく。
「我が愛し子。構いません。早宮埜を追いなさい」
「早宮埜さん、待ってください」
<了>
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