第十話:定義者の帰還、あるいは上書きされる初日(後編)

愛とは、自己の領域を他者に明け渡す脆弱なシステムではない。それは、相手の論理を完全に理解し、その予測を上回る最適解を提示し続けることによる「支配」の別名だ。  

観測者が対象を完全にシミュレートしたとき、自由意志という名の変数は消滅し、残るのは決定論的な帰結のみとなる。その執着はあまりに美しく、毒を含んだ蜜のように、絡め取られた者の感覚を麻痺させていく。


休み時間。喧騒に包まれた教室の中で、僕たちの周囲だけはやはり、音が吸い込まれるような真空が維持されていた。  

だが、二度目の人生までの「拒絶」や「隠蔽」による真空ではない。それは、君臨する者への「畏怖」が生み出した、静謐な聖域だった。


「……玖島君。さっきの、あれは」


白砂が、僕の左隣で囁く。彼女の指先は、今や僕の制服の裾(すそ)を掴むだけでなく、まるで自分の一部をそこに繋ぎ止めるかのように、固く、執拗に僕の腕に触れていた。  

彼女の顔はいつも通り、氷のように無表情で、冷徹な美しさを保っている。しかし、僕の「定義」によって主導権を奪われた彼女の呼吸は浅く、白い首筋には、熱に浮かされたような微かな赤みが差していた。


「不服かな、白砂さん。君が望んでいたのは、僕を『標本』として管理することだったね」


「……ええ。それが最も論理的な救済だと、私は信じていたわ」


白砂は僕の目を見つめ返す。その瞳の奥には、知的な矜持と、それを蹂躙されたことによる悦楽が、危うい均衡で混ざり合っている。


「でも、あなたは私の想定をすべて棄却した。……私を観測する側に回るのではなく、私をその演算の一部に組み込んだ。……玖島君、あなたは、恐ろしい人ね。私の独占欲さえも、あなたの支配の燃料にしている」


彼女はそう言って、僕の腕に頬を寄せるようにして、小さく吐息を漏らした。  

知的な彼女が、自分の論理が破綻したことを認め、その破綻そのものに身を委ねる瞬間。氷が溶け出し、粘度の高い執着へと変わっていく様子は、何よりも蠱惑的(こわくてき)だった。


「いいわ。私はあなたの『隣の席』という座標に、永遠に固定されることを選ぶわ。……ただし、私以外のノイズは、私がすべて論理的に排除してあげる」


その宣戦布告のような囁きが終わるか終わらないかのうちに、背後に人の気配が立った。


「あら、それは私のセリフでもあるのだけれど」


凛とした、けれど刃のような鋭さを秘めた声。  


阿久津ななみが、僕の席の右側に立っていた。  

彼女は優雅に髪をかき上げ、僕と白砂の間に割って入るように、僕の机に手をついた。


「お兄ちゃん。……いいえ、今のあなたをそう呼ぶのは、少しばかり不正確かしら」


阿久津は僕の瞳を、蛇が獲物を射抜くような冷徹な視線で見つめる。  

一度目の人生で僕を陥れた悪意。二度目の人生で見せた、冷めた慈愛。そのどちらでもない、未知の熱量が彼女の瞳に宿っていた。


「私の仕掛けたシナリオを、初手からすべて書き換えるなんて。……あなたが私と同じ『血の再演』を使いこなし、あまつさえ私を管理しようとするなんて、私の計算にはなかったわ」


「計算できないのが人間だよ、阿久津。……君が僕に冤罪という悪意を向けたのは、僕を自分だけの『救済の対象』にするためだったんだろう?」


僕は彼女の視線を逸らさず、むしろ彼女の顎(あご)を軽く指先で持ち上げた。  教室内で息を呑む音が聞こえた。誰もが、女王のように振る舞う阿久津ななみが、この忌避された少年にこれほど無防備に触れられていることに驚愕していた。


「……気づいていたのね」


阿久津は拒絶しなかった。むしろ、僕の指先の熱を確かめるように、僅かに目を細める。


「ええ。私はあなたを壊したかった。壊して、欠片にして、私と一つになればいいと思っていたわ。……けれど、今のあなたは、壊れるどころか、私を飲み込もうとしている」


「壊す必要なんてない。……僕が君のすべてを支配してあげるから、君はその悪意を、僕への執着にだけ使えばいい。……それが、僕たちが『隣』にいるための、唯一の解だ」


阿久津の唇が、震えるような微笑を刻んだ。  

憎悪でも、親愛でもない。自分と同じ、あるいは自分を凌駕する「怪物」を見出した者の、狂おしいほどの歓喜。


「……いいわ。面白いじゃない。……白砂さん、あなたは左を。私は右を。……お兄ちゃんの隣という『特等席』が、どちらの執着に相応しいか、徹底的に演算し合いましょう?」


左からは、白砂が僕の裾を強く引き。  

右からは、阿久津が僕の腕にその細い指を絡める。


教室の中心で、僕は二人の美少女による、あまりに濃密で毒々しい「救済」の檻の中にいた。  


かつての灰色の世界は、今、彼女たちの剥き出しの執着によって、塗り潰されていく。

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