第一話:既視感の朝、沈黙の解像度(後編)
放課後の図書室は、時間が結晶化して積み上げられたような静寂に満ちている。
窓から差し込む斜光が、背表紙の金文字を鈍く光らせ、浮遊する塵の一粒一粒が、まるで静止した宇宙の瞬きのように見えた。そこには、教室に溢れていた喧騒という名の「安価な熱」が入り込む余地はない。
僕は、約束の通り——あるいは、あの一方的な宣言に従う形で、閲覧室の奥、一番日当たりの悪い席に座っていた。
隣では、白砂が相変わらずの端然とした所作でページをめくっている。
「……本当に、何も話さないんだね」
僕が沈黙に耐えかねて声をかけると、彼女は視線を手元の書物に落としたまま、微かに唇を尖らせた。その小さな、けれど確かな感情の揺らぎに、僕は彼女が単なる「氷の彫像」ではないことを再確認する。
「言葉を交わすことが、必ずしも相互理解に繋がるわけではないわ。むしろ、不正確な言語の羅列は、観測の解像度を下げるだけだと思わない?」
「それは……そうかもしれないけれど」
彼女はゆっくりと本を閉じ、僕の方へ体を向けた。
至近距離で対峙する彼女の顔は、やはり非の打ち所がない。けれど、その頬が、夕暮れの陽光を浴びて、ほんのりと熱を帯びたように淡く色づいていることに僕は気づく。
「玖島君。あなたは、どうしてそんなに……自分を摩耗させるような生き方をするのかしら」
「摩耗?」
「ええ。周囲の期待に応えようとし、他者の悪意を甘んじて受け入れ、自分の輪郭を薄めていく。……あなたが今日、阿久津さんに向けていたあの視線。あれは、諦念という名の自傷行為よ」
白砂の手が、机の上を這うようにして僕の手に近づいてくる。
彼女の指先は驚くほど細く、そして繊細だ。彼女の態度はどこまでも「つん」としていて、高圧的でさえある。けれど、その指先が僕の制服の袖に触れた瞬間、伝わってきたのは、震えるような切実さと、逃げ場のないほどに濃密な熱だった。
「……君は、僕のことを知りすぎている。入学したばかりのクラスメイトに対して、抱く感想の範疇を超えているよ」
「そうね。あなたの言う通りだわ」
白砂は、初めて僕の瞳を、逸らさずにじっと見つめた。
その瞳の深淵には、一度目の人生で僕が味わったすべての絶望を、僕以上に深く理解し、愛し、慈しもうとする、歪なまでの「全肯定」が揺らめいていた。
「あなたが忘れていても、私には関係のないこと。……私はただ、この美しい沈黙が永遠に続くことを願っているだけ。あなたが誰にも汚されず、私という観測装置の一部として、ここで安らかに存在していればいい。……それだけで、私の世界は完成するの」
彼女の声は、祈りのように甘く、同時に逃れられない呪いのように重かった。
それは、僕が傷つくくらいなら、世界そのものを凍結させてしまいたいという、あまりに純粋で、孤独な願いだった。
ふと、図書室の入り口の方から、微かな物音がした。
振り返ると、そこには誰もいなかった。だが、開いたままの扉の向こう、薄暗い廊下の先から、あの甘い、けれど僕の記憶の中では「腐敗の予兆」を孕んだ香水の匂いが、かすかに漂ってきた気がした。
阿久津。
彼女は、この静止した聖域を、どのように壊そうと画策しているのか。
「……帰りましょう、玖島君。外はもう、あなたの嫌いな『他者の時間』に染まっているわ」
白砂はそう言って立ち上がり、僕の腕をそっと、けれど拒絶を許さない力強さで引いた。
彼女の横顔は、再び冷たい「つん」とした表情に戻っていた。
だが、僕を引くその手は、汗ばむほどに熱く、僕を絶対に離さないという意志に満ちていた。
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