第一話:既視感の朝、沈黙の解像度(中編)
教室という空間は、一種の「調和」を強要する装置だ。
中心には光り輝く太陽が鎮座し、その周囲を惑星たちが一定の軌道で回る。その軌道から外れることは、この小宇宙における「死」を意味していた。
かつての僕は、その太陽の輝きを本物だと信じ、重力に惹かれるままに焼き尽くされた愚かな惑星に過ぎなかったのだ。
「ねえ、玖島君。さっきから難しい顔して、どうしたの?」
不意に、視界が鮮やかな色彩に塗り替えられた。
阿久津が僕の机に手をつき、覗き込んでくる。ふわりと漂う、甘く洗練された香水の匂い。それは春の陽光によく似た、人を疑わせないための完璧なデコレーションだ。 彼女は、クラスという群れの頂点に君臨するに相応しい美貌を持っていた。大きな瞳は常に好奇心に満ち、誰に対しても平等な親愛を向ける。その「光」に当てられて、抗える少年がこの教室に何人いるだろうか。
「……少し、考え事をしていただけだよ。阿久津さん」
「えー、入学式から考え事? 玖島君って意外とストイックなんだね。あ、そうだ! 今日この後、みんなでカラオケ行くんだけど、玖島君も来ない?」
彼女は小首を傾げ、最高の角度で微笑む。
一度目の人生で、僕はこの誘いに狂喜乱舞した。自分が「選ばれた」のだと錯覚した。だが、それは彼女にとって、自分を引き立てるための「都合の良い観客」を確保するための手続きに過ぎなかったのだ。
「悪いけど、先約があるんだ。また今度にしてよ」
「えっ、先約? 誰と?」
阿久津の瞳の奥に、一瞬だけ鋭い「鑑定」の色が走る。
自分の支配下に置こうとした獲物が、予想外の反応を示したことへの不快感。それは米澤穂信が描く「日常の謎」の裏側に潜む、毒を含んだ苦味によく似ていた。
答えに窮した僕の耳に、冷たく、そして硬質な音が届く。
隣の席の白砂が、重厚なハードカバーの本を机に置く音だった。
「私よ」
白砂は、阿久津の方を見ることさえせず、ただ前を向いたまま言い放った。
その声は、喧騒に満ちた教室の空気を一瞬で静謐なものへと変える。
「……白砂さん、だっけ? 玖島君と約束してたの?」
阿久津が、その「太陽」のような笑顔を維持したまま、白砂へと視線を向ける。クラスの二大美少女――陽の象徴である阿久津と、陰の極北である白砂。二人の視線が交差する瞬間、目に見えない火花が散った。
「そうよ。彼とは、放課後の時間を共有することになっているわ。……阿久津さん、あなたの『勧誘』は、彼の思考を阻害するノイズでしかないのだけれど」
白砂の言葉は、つんとしていて、一切の妥協を許さない拒絶に満ちていた。
阿久津は、まるで理解不能な言語を聞かされたかのように目を瞬かせ、やがて困ったように笑ってみせた。
「そっかー、残念! 白砂さんと約束してたなら仕方ないね。……でも玖島君、あんまり女の子を待たせちゃダメだよ?」
阿久津は僕の肩を軽く叩き、軽やかな足取りで自分の取り巻きたちの元へ戻っていった。その去り際の笑顔はどこまでも魅力的で、周囲の生徒たちは溜息を漏らす。 だが、僕は知っている。彼女が去り際、僕でも白砂でもなく、僕の「カバン」を一瞬だけ冷徹に観察していたことを。
嵐が去った後、白砂は再び本を開いた。
「……助かったよ。でも、約束なんてしてなかったはずだけど」
僕が小声で礼を言うと、彼女は本のページをめくる手を止めた。
彼女はゆっくりと僕の方を向き、その白い首筋を僅かに傾ける。
「勘違いしないで。私はただ、あのような下俗な虚飾が、私の隣で繰り広げられるのが不快だっただけよ」
彼女は相変わらず、つんとした態度で僕を突き放す。
だが、その切れ長の瞳が、僕の視線を一秒だけ長く捉えて離さなかった。
彼女の瞳の深淵に、僕は「一度目の人生」では決して出会わなかった、熱を帯びた「何か」が揺らめくのを見た。
「玖島君。あなたは、私だけを見ていればいいのよ」
その呟きは、あまりに小さく、教室の騒音に紛れて消えてしまった。
聞き間違いだろうか。
彼女は再び、氷のような無機質な美少女へと戻り、ページを捲る。
しかし、彼女の指先が、僕の机の端をなぞるように動いた。それは、まるで目に見えない境界線を引くような、密やかな主張だった。
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