緋色の静寂   完璧な幸福に喰われる町

ソコニ

第1話


第一章 聖餐の多幸

「新一、おはよう」

スタナ・カフェのオーナー、久美子が笑顔で迎えた。

久美子——四十七歳。二十年前、東京の広告代理店で働いていた。激務で心を壊し、故郷に逃げ帰ってきた。新一と同じ。

「これ、見て」

久美子が示した発泡スチロールの箱。中に、透明な蟹が横たわっている。

「綺麗でしょう? こんなの初めて見た」

新一は、その蟹から目が離せなかった。

昨夜、抱きしめた時の温もりが蘇る。あの優しい声が、また聞こえる気がする。

「今日のランチの目玉にするわ。インスタ映え間違いなし」

久美子の声が遠い。新一の視界は、蟹だけに集中していた。

午前十一時、最初の客が来た。

田村——地元の歯科医、五十八歳。離婚して十年。娘とは五年会っていない。毎日、一人で酒を飲み、朝は二日酔いで目を覚ます。人生に何の希望もない男。

「久美子さん、今日の特別メニューって?」

「ちょっと珍しい蟹が入ったの。食べてみる?」

「……ああ」

透明な蟹が蒸し上げられ、田村の前に置かれた。

その瞬間、店内の空気が変わった。

匂い。

甘い、あまりに甘い匂い。

しかし、それは単なる食欲を刺激する匂いではなかった。もっと深い、原始的な何か。母親の胸に抱かれた時の安心感。初恋の人の髪の匂い。生まれる前の、羊水の中で漂っていた頃の記憶。

全てが、この匂いの中にあった。

田村の手が震えた。

この土地の掟——沈黙の対価。

蟹を食べる時、言葉を発してはならない。

田村は無言で、殻を剥き始めた。しかし、その動きは機械的ではなかった。まるで、聖なる儀式を執り行うような、敬虔な所作だった。

パキ、パキ、パキ。

殻が割れる音が、静寂の中で響く。

新一は、その音に違和感を覚えた。

蟹の殻が割れる音——しかし、それは同時に、人間の指の関節が鳴る音にも聞こえた。

パキ、パキ、パキ。

田村の指が蟹の足を外すたびに、まるで自分の指の骨が鳴っているような錯覚。

新一は自分の手を見た。

無意識に、自分も指を曲げていた。関節が、ポキポキと鳴る。

蟹と、人間の境界が曖昧になる瞬間。

新一は、カウンターからその様子を見守っていた。何かがおかしい。しかし、何がおかしいのか分からない。

店内にいた他の客たちも、無意識に自分の指を曲げている。

パキ、パキ、パキ。

蟹の音なのか、人間の音なのか——もう、区別がつかない。

そして、甲羅が開かれた。

中の味噌が、光っている。

緋色の、生命の光。

田村は、スプーンでそれを掬い取り、ゆっくりと口に運んだ。

その瞬間——

田村の表情が、変わった。

それは、恍惚だった。

完全な、絶対的な、多幸感。

涙が、彼の頬を伝った。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。

「……ああ」

か細い声が、田村の喉から漏れた。

「こんなに……こんなに……」

彼の声は震えていた。

「幸せなことが……あったなんて……」

新一は、固唾を呑んだ。

田村の顔は、輝いていた。まるで、長年探し求めていた答えを見つけたような。まるで、全ての苦しみが報われたような。

「娘……娘に……会いたいな……謝りたいな……」

田村は立ち上がった。足取りは確かだった。二日酔いの男のそれではなく、明確な目的を持った人間の歩み。

「久美子さん、ありがとう。俺、変われる気がする」

彼は店を出ていった。会計も忘れて。しかし、その背中は、新一が今まで見たどの人間よりも真っ直ぐだった。

「……あれ、何?」

新一が呟くと、久美子は微笑んだ。

「幸せ、よ。あの人、何年ぶりに笑ったと思う?」


その日、透明な蟹は完売した。

食べたのは、全員で十二人。

地元の主婦、高齢の漁師、引きこもりの青年、シングルマザー、失業中の中年男性——

全員が、同じ表情になった。

涙を流しながら、笑顔で、まるで生まれ変わったように店を出ていった。

「新一、見た? みんな、すごく幸せそうだった」

久美子の声は、興奮していた。

「私、何か良いことをした気がする」

新一は、言葉を返せなかった。

確かに、あの人たちは幸せそうだった。

田村は、娘に会いに行くと言っていた。引きこもりの青年は、「明日から働く」と言っていた。シングルマザーは、「子供を愛せる気がする」と泣いていた。

何が悪いのだろう?

人々が幸せになることの、何が問題なのだろう?

しかし、新一の胸には、言葉にできない違和感が残っていた。

あの多幸感は、本物なのか?

それとも——


深夜、新一は一人、店に残っていた。

透明な蟹の殻が、厨房に残されている。

新一は、その殻を手に取った。

軽い。中身が全て食べられた後の、空っぽの殻。

しかし、内側がまだ微かに光っている。

新一は、その光に見入った。

すると、また声が聞こえた。

『あなたも、幸せになれる』

『もう、苦しまなくていい』

『完璧である必要はない。ただ、溶ければいい』

新一の手が震えた。

殻の内側に、まだ味噌が少し残っている。

指で掬い取れば、食べられる。

そうすれば、あの人たちのように——

田村のように、笑顔で生きられるのだろうか?

新一の指が、殻の内側に触れた。

冷たい。しかし、どこか温かい。

その時、祖父の言葉が蘇った。

『お前の居場所はある』

しかし、祖父は嘘をついた。

ここには、何もない。誰も新一を必要としていない。

東京で捨てられ、この田舎でも浮いている。

どこにも、居場所なんてない。

ならば——

新一の指が、緋色の味噌に触れようとした瞬間。

店のドアが、開いた。

「……新一くん?」

振り向くと、見知らぬ女性が立っていた。

二十代前半。肌が、雪のように白い。瞳は常に潤んでいて、どこか悲しげに見える。

彼女が店に入ると、潮騒の音が聞こえた気がした。

「遅い時間にごめんなさい。私、緋(あか)といいます」

彼女の声は、新一が今まで聞いた中で最も美しかった。

「この町に、今日、移住してきました」

緋は、カウンターに座った。

「あなたが、新一さんですよね。久美子さんから聞きました」

「あ、ああ……」

新一は、彼女から目が離せなかった。

美しい。完璧に美しい。

しかし、その完璧さには、どこか人間離れした何かがあった。

「あなた、今、食べようとしてましたね。蟹を」

緋の瞳が、新一を見つめた。

「でも、踏みとどまった。なぜ?」

「……分からない」

「あなたは、幸せになりたくないの?」

緋の問いに、新一は答えられなかった。

幸せになりたい。誰よりも。

しかし、あの幸福は——

「あなたは賢いのね」

緋が微笑んだ。

「みんな、すぐに食べてしまうのに。あなただけが、疑問を持った」

「あの蟹……普通じゃない」

「ええ。普通じゃないわ」

緋は、新一の手から殻を取り上げた。

「これは、贈り物よ。苦しんでいる人類への、救済」

「救済……?」

「そう。見て、この町の人たち。みんな、何かを失って、何かに傷ついて生きている。でも、誰も助けてくれない。誰も認めてくれない。ただ、孤独に耐えながら、死ぬまで生きるしかない」

緋の言葉は、新一の心臓を撃ち抜いた。

まるで、自分のことを言われているような。

「でも、私たちは違う。私たちは、あなたたちを解放できる。孤独から、競争から、自己否定から」

緋は立ち上がり、新一に近づいた。

彼女の手が、新一の頬に触れる。

冷たい。深海のように冷たい。

「ねえ、新一さん。自由でいるって、そんなに素敵なこと?」

緋の声が、新一の耳元で囁く。

「誰にも選ばれず、何者にもなれず、ただ砂粒のように個体であり続ける。それは『自由』ではなく、ただの『放逐』よ」

新一の呼吸が止まった。

「私たちの血に溶ければ、あなたはもう、二度と誰かに認められる必要なんてなくなるのに」

緋の瞳が、新一を見つめる。

その瞳の奥に、無数の光が渦巻いている。

「見て、あの街の灯り」

緋が窓の外を指差す。

「あの中に、心から満たされている人が一人でもいるかしら? みんな、自分の『正しさ』を証明するために、誰かを傷つけ、比較し、飢えている」

新一は、何も言えなかった。

その通りだから。

東京で見たもの、経験したこと——全てが、緋の言う通りだった。

「蟹(わたしたち)には、言葉も、嘘も、プライドもいらない。ただ一つの大きな幸福を分かち合う、赤い海」

緋の手が、新一の手を取る。

「そこには、あなたが東京で必死に探して見つからなかった『居場所』が、無限に広がっているのよ」

新一の目から、涙が溢れた。

欲しい。

その居場所が、欲しい。

もう、孤独は嫌だ。

もう、誰にも認められない人生は、嫌だ。

「おじい様の言う『歪みの美しさ』なんて、ただの呪いよ」

緋の声は、優しかった。

「歪んでいるから、ぶつかり合い、傷つけ合う。愛すれば愛するほど、その不完全さに絶望する……そんな不自由な美学、もう捨ててしまいなさい」

緋の唇が、新一の耳に近づく。

「私の味噌(なか)に溶けなさい。そうすれば、あなたの記憶も、痛みも、愛の欠片も、全てが完璧な多幸感へと書き換えられる」

「——さあ、殻を脱いで。人間を、卒業しましょう?」

新一の理性が、崩壊しようとしていた。

その時——

ポケットの中で、何かが震えた。

祖父が渡した、歪んだ茶碗のかけらだった。


第二章 傷ついた器

翌朝、新一は祖父の窯を訪れた。

倉寄——山奥の集落。ここには三軒しか家がない。そのうちの一軒が、宗悦の工房だった。

「じいちゃん」

新一が呼びかけると、窯の中から煙が上がった。宗悦が、何かを焼いている。

「来たか」

宗悦——荒田宗悦、八十七歳。耳が異常に大きい。若い頃、民藝運動に傾倒し、柳宗悦に師事した。しかし、ある理由で袂を分かち、この山奥に籠もった。

「昨日、変なことがあって……」

「蟹の話だろう」

宗悦は、窯から一つの茶碗を取り出した。

まだ熱い。布で包みながら、新一に差し出す。

「これを持っていけ」

新一は、その茶碗を受け取った。

歪んでいる。

ひどく歪んでいる。

左右非対称。縁の厚みもバラバラ。表面には、無数の細かい凹凸がある。

「これ……失敗作?」

「最高傑作だ」

宗悦は、新一の目を見た。

「この茶碗はな、お前の祖母が最後に触った茶碗だ」

新一の手が止まった。

祖母——新一が生まれる前に亡くなった。パーキンソン病で、晩年は手が震えていたという。

「祖母ちゃんが……?」

「ああ。あの人は、最期まで俺の仕事を手伝おうとした。手が震えて、碗を歪ませてしまうのに」

宗悦の声が、少し震えた。

「あの日、あの人は言った。『ごめんね、また歪んじゃった』って。俺は言ったよ。『これで良い』って」

宗悦は、窓の外を見た。

「あの人は笑った。『嘘つき。これは失敗よ』って。でも、俺は本当のことを言ったんだ」

宗悦は、茶碗を新一の手の中で回した。

「見ろ。この凹凸を。これはな、あの人の震えがそのまま形になったものだ。ここに、あの人の指があった。ここで、あの人は力を込めすぎた。ここで、あの人は諦めかけたが、もう一度挑戦した」

新一の目に、涙が滲んだ。

茶碗の表面の、不規則な歪み。

それは、祖母の震える手が、必死に形を作ろうとした痕跡だった。

「この歪みはな、計算できない。蟹には、理解できない」

宗悦の声が、厳しくなった。

「奴らは完璧を好む。整った波長を好む。だから、この『愛の傷跡』が、奴らの電波を狂わせる」

「愛の……傷跡?」

「そうだ。完璧な器には、愛がない。機械が作った器には、血が通っていない。しかし、人間が作った器には、その人の人生が刻まれている」

宗悦は、工房の奥から古びた木箱を引っ張り出した。

中には、大量の歪んだ器が詰まっていた。

「これは全部、この町の人間が作ったものだ。夫を亡くした女が泣きながら作った皿。息子を戦争で失った父親が、震える手で作った壺。不治の病で死んだ子供が、最期に握りしめた粘土の塊」

宗悦の目が、遠くを見ていた。

「昭和の初め、最初の侵略があった時、この町の人間は戦った。武器も、軍隊もなかった。ただ、この『不完全な器』だけがあった」

「それで……勝てたの?」

「勝てた。いや、正確には『追い返した』。奴らは、この歪みを処理できなかった。完璧な知性は、不完全な愛を理解できない」

宗悦は、新一の肩を掴んだ。

「新一。お前は昨日、あの女に会っただろう」

「……知ってるの?」

「砂が教えてくれた。あの女は、蟹の化身だ。最も人間に近い形で受肉した、侵略者の外交官だ」

新一の背筋が凍った。

「あの女は、お前を誘惑する。『幸せになれる』と囁く。そして、それは嘘じゃない」

「嘘じゃ……ない?」

「ああ。奴らに取り込まれれば、本当に幸せになれる。孤独も、痛みも、全て消える。完璧な多幸感の中で、一生を終えられる」

宗悦の目が、鋭くなった。

「しかし、それは『人間』としての幸せじゃない。『家畜』としての幸せだ」

新一は、言葉を失った。

「新一。お前は東京で、完璧な人間になろうとした。そして、壊れた。完璧であろうとすることが、どれだけ人を苦しめるか、お前は知っている」

宗悦の手が、茶碗に触れた。

「この茶碗の歪みを見ろ。これは、お前の祖母が病気と戦いながら、それでも『何かを作りたい』と願った証だ。不完全だ。醜い。しかし、これには魂がある」

新一は、茶碗を見つめた。

確かに、歪んでいる。

しかし、その歪みの一つ一つに、祖母の想いが込められている気がした。

「蟹が提供する幸福は、この歪みを消す。お前の痛みも、お前の苦しみも、全て『なかったこと』にする。そして、お前は何も感じない、完璧な存在になる」

宗悦は、新一の目を見た。

「それで良いのか? お前の東京での苦しみを、お前の祖母を失った悲しみを、全て『エラー』として削除されて、お前は幸せか?」

新一の目から、涙が溢れた。

「俺は……俺は……」

「泣け。その涙こそが、人間の証だ。痛みを感じられることこそが、生きている証だ」

宗悦は、茶碗を新一の手に握らせた。

「これを持っていけ。そして、覚えておけ。完璧なものは脆い。完璧なものは、侵入を許す。しかし、この歪みは、誰にも侵されない。なぜなら、これは愛だからだ」

新一は、茶碗を胸に抱いた。

温かい。まだ窯から出たばかりの温もりではなく、もっと深い、人間の温もりだった。

「じいちゃん……俺、どうすれば……」

「戦え。お前の歪みを、守れ。お前の不完全さを、誇れ」

宗悦の声が、力強く響いた。

「完璧な幸福を拒絶してでも、お前は『人間』として生きろ」


その夜、新一は自分の部屋で、茶碗を見つめていた。

外では、町の人々が砂丘に向かって歩いていく音が聞こえる。

みんな、幸せそうだ。

みんな、笑顔だ。

しかし、それは本当の笑顔なのだろうか?

新一のスマホが鳴った。

メールだ。送信者不明。

「新一さん、会いたいわ。砂丘で待ってる。一緒に、幸せになりましょう——緋」

新一の手が震えた。

行けば、楽になれる。

全ての苦しみから、解放される。

しかし、茶碗の表面を指でなぞると、祖母の震えが伝わってくる気がした。

この歪みを、守らなければ。

この不完全さを、守らなければ。

新一は、茶碗を抱きしめた。

そして、決意した。

戦う。

人間として。


第三章 赤い楽園

三日後、町は変わっていた。

いや、「良く」なっていた。

犯罪率がゼロになった。離婚調停中だった夫婦が仲直りした。引きこもりの若者たちが笑顔で外に出るようになった。

スタナ・カフェは、毎日満員だった。

透明な蟹が、毎日水揚げされるようになったからだ。

そして、食べた人々は例外なく「幸福」になった。

新一は、店のカウンターでその光景を見ていた。

かつてDVで警察沙汰になっていた夫が、妻の手を優しく握っている。

十年間、息子と会話をしなかった父親が、息子と笑顔で蟹を分け合っている。

うつ病で五年間引きこもっていた女性が、近所の人々と楽しそうに話している。

「素晴らしいでしょう?」

久美子が、新一の隣に立った。

彼女の目も、既に横長になっている。

「久美子さん……あなたも……」

「ええ。三日前に食べたわ。新一くん、本当に素晴らしいのよ」

久美子の笑顔は、穏やかだった。

「私ね、二十年間ずっと苦しかった。東京で壊れて、ここに逃げてきて、でも心の傷は癒えなくて。毎晩、あの頃の悪夢を見ていた」

彼女の手が、新一の手に触れる。

「でも、今は違う。もう、何も痛くない。何も怖くない。ただ、幸せ」

「それって……本当の幸せなの?」

新一の問いに、久美子は首を傾げた。

「本当の幸せって、何? 痛みがないこと、争いがないこと、みんなが仲良くいられること——それが幸せじゃないの?」

新一は、答えられなかった。

確かに、久美子の言う通りだ。

この町は、今、かつてないほど平和だ。

誰も傷つけ合わない。誰も争わない。

みんな、笑顔で、手を取り合って生きている。

「新一くん、あなたもそろそろ食べたら? 一人だけ苦しんでいるなんて、可哀想よ」

久美子の手が、新一の頬に触れる。

「みんな、あなたを待ってるわ」

その時、店のドアが開いた。

田村が入ってきた。

彼は、完全に変わっていた。

以前の暗い影は消え、目は輝き、姿勢も真っ直ぐだ。

「新一くん!」

田村が新一に駆け寄ってきた。

「聞いてくれよ! 娘と和解できたんだ! 十年ぶりに、娘が俺を『お父さん』って呼んでくれた!」

田村の目には、涙が浮かんでいた。

しかし、それは喜びの涙だった。

「これも全部、蟹のおかげなんだ。俺、変われたんだ。本当に変われた」

田村は新一の肩を掴んだ。

「新一くんも、早く食べた方がいい。苦しむ必要なんてないんだ。みんな、幸せになれるんだから」

新一は、田村の目を見た。

確かに、幸せそうだ。

演技ではない。心の底から、幸福を感じている。

ならば、何が悪いのだろう?

新一の心が、揺らいだ。


夜、新一は砂丘に向かった。

緋に呼ばれたわけではない。

自分から、行こうと思った。

砂丘には、数百人の人々が集まっていた。

全員が、手を繋ぎ、円を作って座っている。

その中心に、緋がいた。

月光の下、彼女は神々しいほど美しかった。

「新一さん」

緋が微笑んだ。

「来てくれたのね」

新一は、円の中に入っていった。

人々が、彼を温かく迎えた。

かつて新一を陰で笑っていた同級生。

新一の就職失敗を噂した近所の人々。

東京から逃げ帰ってきた新一を哀れんでいた親戚。

全員が、今は優しい笑顔で新一を見ている。

「新一」

「新一くん」

「おいで、こっちに」

彼らの手が、新一に伸びる。

拒絶されることへの恐怖がない手。

評価することへの欲求がない目。

ただ、受け入れようとする温もり。

新一の目から、涙が溢れた。

これが、欲しかった。

東京で、必死に探していた。

誰かに受け入れられること。

誰かに必要とされること。

ただ、存在を肯定されること。

「新一さん」

緋が、新一の前に立った。

彼女の手が、新一の頬を撫でる。

「あなたは、ずっと孤独だったのね」

新一は、頷いた。

「完璧であろうとして、壊れて、逃げて——でも、どこにも居場所がなかった」

緋の声は、優しかった。

「でも、もう大丈夫。ここには、あなたの居場所がある」

緋の手が、新一の手を取る。

「さあ、殻を脱ぎなさい。その痛みも、その孤独も、全部捨てて——」

新一の意識が、溶けていく。

楽だ。

こんなに楽なことが、あったのか。

もう、戦わなくていい。

もう、証明しなくていい。

ただ、溶ければいい。

新一の手が、緋の手を握り返そうとした。

その時——

ポケットの中の茶碗が、熱くなった。

祖母の震える手。

祖母の愛。

祖母の、不完全な人生。

新一の手が、止まった。

「……待って」

新一の声は、かすれていた。

「待って……これは……」

新一は、茶碗を取り出した。

歪んだ茶碗。

不完全な茶碗。

しかし、そこには魂がある。

「これは……違う」

新一の声が、強くなった。

「これは……本当の幸せじゃない」

緋の表情が、初めて歪んだ。

「何を言っているの? みんな、幸せよ。争いもない、痛みもない、完璧な調和——」

「完璧すぎる」

新一は、緋の目を見た。

「人間は、完璧じゃない。歪んでる。不完全だ。傷つけ合う。間違える。後悔する」

新一は、茶碗を掲げた。

「でも、それが人間だ。この歪みが、俺たちの証だ」

緋の顔が、崩れ始めた。

美しい皮膚の下から、甲殻が現れる。

「あなた……愚かね」

緋の声が、変わった。

複数の声が重なったような、不協和音。

「痛みを選ぶの? 孤独を選ぶの? 拒絶される恐怖を、また抱えて生きるの?」

「そうだ」

新一の目から、涙が流れた。

「俺は、人間として生きる。痛くても、苦しくても、孤独でも——それが、俺の人生だ」

新一は、茶碗を砂の上に叩きつけた。

パリン!

乾いた音が、夜空に響いた。

茶碗が砕け、無数の破片が砂の上に散らばる。

その瞬間——

破片の一つが、母体の透明な殻に触れた。

ジジジッ!

火花が散った。

母体の完璧に滑らかな表面に、亀裂が走る。

「な……何?」

緋が驚愕の声を上げた。

「ありえない……完璧な殻に、傷が……」

新一は目を見開いた。

茶碗の破片の断面——祖母の震えが作った、不規則な歪み。

その歪んだ断面だけが、カニの完璧な殻を傷つけることができた。

完璧な表面は、完璧な刃を弾く。

しかし、不規則な歪みには、対応できない。

計算できない角度。予測できない凹凸。

それは、母体の防御システムにとって、処理不可能なエラーだった。

破片がもう一つ、母体に触れた。

ジジジッ!

また亀裂が広がる。

「やめて! その歪み……解析できない……防げない……!」

緋の声が悲鳴に変わった。

砂丘全体が、鳴り始めた。

地の底から響く、荘厳な音。

それは、何千年も前から刻まれていた、この土地の記憶。

人々が目を覚まし始めた。

「あれ……俺、何を……」

「ここは……どこ?」

混乱する声。

緋が、耳を押さえた。

「この音……やめて……処理できない……」

新一は、幼い頃に祖父から教わったステップを思い出した。

不規則な歩み。

左、右、左、左、右。

彼が歩くたびに、砂の音が強くなる。

「やめて! やめてええええ!」

緋の美しい姿が完全に崩れ、巨大な甲殻類の姿が現れた。

砂丘の中心から、母体が現れる。

透明な巨大な殻。

その内部で、無数の神経が断線していく。

「まだ……まだ終わらない……」

緋の声が、遠ざかっていく。

「次は……もっと大きな……もっと完璧な……」

母体が、砂の中に沈んでいく。

そして、静寂。


エピローグ 歪みの讃歌

一週間後。

町は、徐々に日常を取り戻していた。

しかし、蟹を食べた人々の記憶は曖昧だった。

ただ、全員が同じことを言った。

「あの幸せは、本物だった」と。

「でも、何かが足りなかった」と。

新一は、スタナ・カフェのカウンターに座っていた。

久美子が、コーヒーを淹れてくれる。

彼女の目は、人間に戻っていた。

「新一くん、ありがとう」

「何が?」

「目を覚まさせてくれて」

久美子は、窓の外を見た。

「あの幸福は、確かに気持ち良かった。全ての痛みが消えて、全てが許されて——でも」

久美子は、自分の手を見た。

「これは、私の手じゃなかった。私の心じゃなかった。私は、私じゃなくなっていた」

彼女は、新一を見た。

「人間って、不完全で、醜くて、愚かよね」

「ああ」

「でも、それが良いのかもね」

久美子が微笑んだ。

その笑顔には、かつての暗さが少し残っていた。

しかし、それが本物の笑顔だった。


新一は、祖父の窯を訪れた。

宗悦が、新しい茶碗を作っている。

やはり、歪んでいる。

「じいちゃん、これで終わり?」

「終わりじゃない。始まりだ」

宗悦は、窯から茶碗を取り出した。

「緋は、また来る。今度は、もっと大規模に。世界中に」

「世界……」

「ああ。東京、ニューヨーク、ロンドン——完璧な都市ほど、奴らの餌食になりやすい」

宗悦は、茶碗を新一に渡した。

「お前は、戦わなければならん。この歪みを、世界に伝えなければならん」

新一は、茶碗を受け取った。

表面には、また無数の凹凸がある。

「じいちゃん、これは……」

「お前が昨夜、砂丘で流した涙で作った」

新一の目が、見開かれた。

「お前の涙には、お前の人生が込められていた。その塩分が、粘土に染み込んだ。だから、この茶碗には、お前の魂が刻まれている」

宗悦の目が、優しくなった。

「美しさとは、整っていることではない。生きようとする『あがき』が形になったものだ。お前の美しさには、血が通っている」

新一は、茶碗を胸に抱いた。

温かい。

人間の、温もりだった。


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