【序章: 渦潮の呼び声】
東京の郊外、狭いアパートの一室。悠真はベッドに横たわり、天井のシミをぼんやりと見つめていた。二十歳の大学生で、文学部に在籍しているものの、最近は講義に集中できない。レポートの締め切りが迫っているのに、キーボードに指を置く気力すら湧かない。理由はわかっていた。幼少期のトラウマ——父親の借金で家族が崩壊し、母親は蒸発、妹は事故で亡くなった。あれ以来、悠真は過去の記憶を避けるように生きてきた。思い出せば胸が痛むだけだ。大学では友達も少なく、授業後のサークル活動にも参加せず、ただ一人で本を読んで時間を潰す日々。今日も、文学史の講義で教授の話を聞き流し、ノートを取るふりをしてぼんやりしていた。
「またあの夢か……」悠真はスマホをベッドサイドに置き、目を閉じた。眠りに落ちる瞬間、いつものように世界が歪む感覚が訪れた。頭の中に霧のような渦が巻き起こり、現実の喧騒が遠ざかる。代わりに、風の音、葉ずれの音が耳に響く。
目を開けると、そこは深い森だった。巨木が空を覆い、葉の隙間から青みがかった光が差し込む。地面は柔らかな苔に覆われ、空気は湿り気を帯びて新鮮だ。悠真は慌てて立ち上がり、周囲を見回した。「ここ、どこだ? 夢……いや、夢じゃないみたい。体がちゃんと動くし、痛みも感じる……足の裏の苔の感触がリアルすぎる。大学から帰ってすぐ寝たはずなのに、どうしてこんなところに?」
彼は木の幹に手を置き、深呼吸した。心臓が早鐘のように鳴っている。「落ち着け、悠真。きっと夢だ。目覚めれば戻るはず……でも、なんだか違う。匂いまでするぞ、土の匂いと木の香り。」しかし、森の奥から微かな足音が聞こえてきた。枝を踏む音、息づかい。悠真は身を低くし、木陰に隠れた。
足音の主は少女だった。銀色の髪を肩まで伸ばし、青い瞳が鋭く周囲を警戒している。年齢は十八歳くらいか。着古した灰色のローブを纏い、腰に小さなナイフを下げている。彼女は悠真の隠れた木陰に近づき、突然立ち止まった。「誰だ? 出てこい。気配がするぞ。隠れてるつもりか? 森の獣じゃあるまいし。」声は低く、警戒心に満ちていて、少し苛立った調子だ。
悠真は観念して手を挙げ、ゆっくりと姿を現した。「ご、ごめん! 俺、悠真っていうんだけど……突然ここに来ちゃって、わけがわからないんだ。夢かなって思ってるんだけど……えっと、君は誰? ここはどこ? 俺の服、変だって言ってるけど、普通の大学生の服だよ。」悠真は自分のTシャツとジーンズを指さしながら、慌てて説明した。
少女はナイフを抜き、悠真を睨みつけたが、少し警戒を緩めた。「夢? ふん、そんな悠長なこと言ってる場合じゃない。ここはエコリアの森。よそ者か? 服が変だな。現実世界の人間か? 転移者ってやつか。まあ、見た感じ危害を加えそうにはないな。ナイフをしまおう。」彼女はナイフを腰に戻し、悠真に近づいた。「俺はリエル。記憶商人だ。この森は危険だぞ。記憶獣がうろついてる。早く隠れろ。」
悠真は戸惑いながら従った。「記憶獣? エコリア? 転移者? なんかファンタジー小説みたいだな……俺、日本から来てるんだけど、東京の大学に通ってる大学生でさ。講義が終わって家に帰って寝たら、突然ここに。夢じゃないなら、どうやって戻るの?」
リエルは悠真の腕を強く掴み、近くの茂みに引きずり込んだ。「説明は後だ。今は黙ってろ。獣が来てる。」その瞬間、奇妙な感覚が悠真を襲った。リエルの手が触れた部分から、暖かな電流のような流れが体中に広がる。視界が揺らぎ、フラッシュバックのように映像が次々と浮かぶ。貧しい村の風景、病床に伏す母親の姿、闇市場で記憶を売る喧騒と叫び声。リエルの過去の断片が、悠真の頭に直接流れ込んでくる。感情も一緒に——孤独、絶望、わずかな希望。母親の最後の言葉「リエル、生きて」が胸に響く。
「うわっ、何これ……お前の記憶が……俺の頭の中に流れ込んでくる? 母親の病気の苦しみ、市場の冷たい視線……全部感じる! 匂いまでするよ、市場の埃っぽい空気と、母親の薬の臭い。こんなの、ありえない!」悠真は驚いて手を振り払い、息を荒げた。体が震え、涙さえ浮かびそうになる。
リエルは目を丸くし、すぐに顔をしかめた。「お前……記憶共有の力が強いな。初めてか? エコリアでは、触れれば記憶が共有されるんだ。拒否できない。お前の記憶も俺に流れたよ。家族の崩壊、妹の事故……辛いな。父親の借金の記憶、母親の蒸発、妹の笑顔が消えていく瞬間……全部見えた。お前も、俺と同じような孤独を抱えてるんだな。」彼女の声に、少しの同情が混じる。リエル自身も、共有された悠真の記憶に胸を痛め、目を伏せた。「共有ってのは、そういうもんだ。相手の心が丸裸になる。恥ずかしい? まあ、慣れろよ。」
悠真は頭を抱えた。「共有? そんな力があるの? 俺のトラウマがお前に見られたなんて……恥ずかしいし、怖いよ。でも、なんか……お前の記憶も感じて、君のことが少しわかった気がする。母親を失った痛み、似てるかも。」
リエルは肩をすくめた。「似てるな。だから、お前の記憶が心地いいのかも。共有で互いの痛みがわかる。でも、今はそんな話してる場合じゃない。獣が近いぞ。」
森の奥から、低い咆哮が響いた。記憶獣——狼のような体躯だが、毛皮が半透明で、目が渦潮のように回転している。体長は二メートル近く、牙が光る。「来やがった! お前、戦えるか? 現実世界の人間でも、何かスキルあるだろ?」
悠真は慌てて首を振った。「無理無理! 俺、格闘技とかやったことないし、剣とか持ってないよ! 大学で体育の授業くらいしか……待って、獣がこっち来てる!」
リエルはナイフを構え、悠真に素早く指示した。「なら、共有しろ。俺の剣術の記憶を借りろ。触れれば一時的に使えるはずだ。ほら、手を伸ばせ! 怖がってる暇ないぞ、生き残りたいならやれ!」
悠真は迷いながらリエルの肩に触れた。再び記憶が流れる。リエルの訓練の日々——市場の裏で独り剣を振るう姿、汗と血の感覚、刃の軌道。悠真の体が自然に動く準備をする。「これ……すごい! 体が覚えてるみたいだ。剣の握り方、重心の置き方……全部わかるよ。まるで俺が訓練したみたい。」
記憶獣が飛びかかってきた。リエルが先制し、ナイフで獣の脇腹を斬る。「今だ、悠真! 首を狙え! 借りた記憶を信じろ、迷うな!」
悠真は地面に落ちた枝を拾い、借りた記憶で剣のように振るった。獣の首に命中し、獣は悲鳴を上げて倒れる。息を切らしながら、リエルが笑った。「よくやったな、よそ者。お前の記憶共有の適応が早い。普通の転移者は混乱するのに。お前、現実世界の知識が混ざってるからか? 剣術に、なんか変な動きが入ってたぞ。スポーツ?」
悠真は膝をつき、息を整えた。「ありがとう、リエル。でも、これ夢だよね? いつ目覚めるんだろう……体が疲れてるけど、達成感があるな。」
突然、悠真の視界がぼやけ、現実に戻る感覚が来た。体が軽くなり、森が遠ざかる。「待って、俺……戻るかも……リエル、どうやってまた来るの? 次はいつ?」
リエルは手を伸ばし、悠真の額に触れた。最後の共有。「記憶の渦潮が呼んでる。また来いよ。お前の力が必要だ。ヴォルドの陰謀が……エコリアを脅かしてる。お前みたいな転移者が、鍵かもな。現実で待ってるぞ。」言葉が途切れ、悠真は目を覚ました。
アパートのベッド。体は汗だくで、心臓がまだ鳴っている。「夢……じゃなかった。あの感覚、リアルすぎる。リエルの記憶がまだ頭に残ってる。剣術の動き……」彼は立ち上がり、鏡を見た。剣を振った記憶が体に染みつき、手が自然に動く。「本物だ……エコリア? あの少女、リエル……また会いたいかも。明日の講義、どうしよう。体が軽い気がする。」
翌朝、大学へ。文学史の講義で、教授が剣士の物語を語る。悠真は無意識に剣の仕草をし、周りの学生が驚く。「悠真、なんか変わった? 体育の時間、剣道やってたみたいに動いてるよ。」友達の言葉に、悠真は気づく。共有の影響だ。剣術の記憶が、現実の動作に反映されている。「ああ、なんか最近、夢で剣振ってるんだよね……」とごまかすが、心の中で思う。「エコリアのおかげで、俺、変われるかも。」
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