天の川の約束
王堕王
ナナ
その川には、音がない。 流れているのは水ではなく、数えきれないほどの「生」が残した記憶の滓である。 青白く、あるいは黄金色に輝く星屑の奔流――それが天の川の正体だった。
カイは、その銀色の砂浜に立ち、静かに岸辺を見つめていた。 彼の纏う衣は、星の光を反射して仄白く発光している。顔立ちは生前、二十歳の頃のままだが、その瞳には数百年を過ごした者だけが持つ、深い静寂が宿っていた。
「……また、一人か」
遠くから、頼りない光の塊が揺れながら近づいてくる。 それは一つの魂だった。肉体を脱ぎ捨て、剥き出しの意識だけになった存在。
カイは足元の砂を蹴り、一艘の小舟に乗り込んだ。 舟は「静寂」という名の材木で造られており、櫂を水面に――いや、星の海に差し込んでも、飛沫一つ上がらない。ただ、銀色の光が波紋となって、幾重にも広がっていくだけだ。
岸辺にたどり着くと、そこには一人の男が立ち尽くしていた。 五十代半ばといったところだろうか。現世の服の影を纏っているが、その輪郭は朧げで、今にも風に溶けてしまいそうだった。
「ここは……どこだ?」 男が掠れた声で問う。
「天の川の入り口です」
カイは淡々と答えた。その声には、冷たさと同時に、不思議な慈しみがあった。
「あなたは今、長い旅を終えました。私は渡し守のカイ。対岸の『忘却の門』まで、あなたをお送りします」
男は怯えたように周囲を見渡した。
「忘却……? 俺の人生を、すべて忘れるというのか」
「左様です。忘れることは、この世界における最大の救いですから」
カイは男を舟に乗るよう促した。男は躊躇いながらも、小舟の縁を掴んだ。 舟がゆっくりと岸を離れる。 天の川の中ほどに差し掛かると、男の身体から小さな光の粒が次々と剥がれ落ち、川へと溶け込んでいった。それが「記憶の浄化」だった。
「ああ……思い出していく」 男が虚空を見つめ、涙を流した。
「妻と初めて会った日のこと。娘が生まれた時の、あの小さな手の温かさ。……あいつらを置いて、俺は死んだのか」
カイは何も言わず、ただ一定のリズムで櫂を漕ぎ続ける。 渡し守の仕事は、魂を運ぶことだけではない。彼らが抱えてきた人生の重荷が、光となって川に還るのを、ただ黙って見届けることにある。
「寂しいな」 男が呟いた。
「俺が忘れてしまったら、俺が生きた証はどこに残るんだ?」
「……この川が、覚えています」 カイは、自分でも驚くほど優しい声を出した。
「あなたが愛した記憶も、苦しんだ記憶も、すべては星の輝きとなって、後に続く人々を照らす光になります。無駄なことなど、一つもありません」
男は、カイの言葉を噛みしめるように目を閉じた。 やがて舟が対岸に着く頃には、男の姿は眩いばかりの純白の光に変わっていた。 かつての苦悩も、未練も、重力も。すべてを脱ぎ捨てた魂は、ふわりと宙に浮き、対岸にそびえる巨大な光の門へと吸い込まれていった。
「お疲れ様でした」
カイは誰もいなくなった舟の上で、小さく頭を下げた。 これで、今日の一人目が終わった。 明日も、その次も、同じことが繰り返される。 永遠にも等しい時間。
ふと、カイは自らの左胸に手を当てた。 そこには、渡し守になった代償として、一つの「呪い」が刻まれている。 他の魂が記憶を捨て去る中で、カイだけは自分の記憶を捨てることを許されない。
(ミナ……)
その名を心の中で呼ぶだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。 カイが渡し守に志願したのは、彼女のためだった。
七十年前。地上の片隅にあった小さな病院。 結核に侵され、青白い顔で横たわっていたミナ。 彼女の細い指を握り締めながら、カイは絶望の淵にいた。
『カイくん……泣かないで』
ミナは、死の影が差し込んでいるとは思えないほど、穏やかに微笑んでいた。
『私は、幸せだったよ。あなたに出会えて、短いけれど、世界で一番幸せな時間を過ごせたから』
『嫌だ、ミナ。行かないでくれ。僕を一人にしないでくれ』
『……ねえ、約束して。もし私が先に行っても、あなたは頑張って生きて。そして、ずっと、ずっと先……おじいちゃんになってから、私を迎えに来て』
カイは、その約束を守れなかった。 ミナが逝った一週間後、彼は彼女を追うような事故で、呆気なく命を落としたのだ。
だが、あの世の入り口で、彼は神に縋(すが)った。
「彼女は、僕がいないと迷ってしまう。どうか、僕をこの川の渡し守にしてください。彼女が来るまで、何年でも、何百年でも待ち続けます。そのために自分の輪廻を捨てても構わない」
神は答えた。
「それは、途方もない孤独だ。彼女が幸せな一生を終えてここに来る時、君は彼女の物語の一部ですらなくなっているだろう。それでも良いのか」
「構いません。彼女が笑顔でここを渡れるなら、僕はただの影でいい」
そうして、カイは渡し守になった。 自分の寿命を、未来を、名前以外のすべてを捧げて。
川のせせらぎが、微かに「ミナ」という音に聞こえる。 カイは再び岸辺へと戻り、次の魂を待つ。
空には、彼女が生きているであろう「地上」の時間が流れているはずだ。 今、彼女は何歳だろうか。 誰かと恋に落ちただろうか。 それとも、まだ僕のことを覚えているだろうか。
「……遅くなってもいい。君が最高の人生だったと、笑ってここに来るまで」
カイは星屑の混じった砂浜に腰を下ろし、銀色の空を見上げた。 そこには、地上の人々が決して見ることのできない、永遠という名の孤独が広がっていた。
天の川の渡し守。 彼は、世界で一番美しい墓守であり、世界で一番愚かな恋人だった。
天の川には季節がない。 常に一定の温度で、常に銀色の光が満ちている。しかし、カイが目を閉じれば、そこには鮮やかな四季が蘇る。彼にとっての記憶は、この停滞した世界で唯一の、生きた「熱」だった。
櫂を漕ぐカイの脳裏に、不意に、ある夏の日の情景が浮かぶ。
それは、夕立が上がったばかりの午後だった。 アスファルトから立ち上る雨の匂いと、激しく鳴き続ける蝉の声。 高校生だったカイは、自転車の荷台にミナを乗せて、坂道を下っていた。
「ねえ、カイくん。さっきの虹、見た?」 背中でミナが、彼のシャツの裾を掴みながら言った。
「ああ。あんなに大きくてはっきりしたやつ、初めて見たよ」
「虹の橋の向こうには、幸せな世界があるんだって。おばあちゃんが言ってた」
「……そんなのあるわけないだろ」
カイは少しぶっきらぼうに答えたが、心の中では「今この瞬間以上に幸せな場所なんてない」と思っていた。 ミナの笑い声、坂道を駆け抜ける風、彼女の細い腕の感触。 それだけで、世界は完璧に完成されていた。
あの頃、死なんて言葉は、自分たちとは無縁の遠い星の話だと思っていた。 永遠は、手を伸ばせばいつでもそこにあるものだと信じて疑わなかった。
「……守さん。渡し守さん!」
鋭い声に呼び戻され、カイは現実に視線を戻した。 舟の上には、一人の青年が座っていた。年齢は二十代前半。まだ新しく、濃い色彩を残した魂だ。
「……すみません。少し、昔のことを考えていました」
カイが謝ると、青年は苛立ったように頭を掻いた。
「昔のことなんて、どうでもいいんだよ。俺は、あいつに……婚約者に、まだ何も言ってないんだ。指輪だって、来週渡すつもりだったのに」
青年の名はレン。バイクの事故で、一瞬のうちに命を落としたという。 彼の魂はまだ、自分の「死」という事実を拒絶していた。
「戻してください。あいつが、一人で泣いてるんだ。俺が行かなきゃ……!」
レンが小舟から身を乗り出し、激しく川面を叩いた。 銀色の砂が舞い上がり、静かな天の川に波紋が広がる。しかし、その手は空しく銀色の光を通り抜けるだけだ。
「無理です」 カイは静かに、しかし断固として告げた。
「この川を遡ることは、誰にもできません。一度岸を離れれば、向かうべきは対岸だけです」
「あんたに、俺の何がわかるんだ!」 レンが叫んだ。その声は、かつてのカイ自身の叫びと、痛いほど重なった。
「わかりますよ。痛いほどに」
カイは櫂を止め、レンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私も、愛する人を残してここへ来ました。彼女に、さよならも言えないまま。……だからこそ、あなたに伝えたい。今あなたが抱えているその『後悔』も、いつか彼女を守る『光』に変わるのだと」
「……どういう意味だよ」
「あなたが彼女を想う心は、地上の彼女には『理由のない温もり』として届きます。ふとした瞬間に吹く風や、窓から差し込む陽だまり……。あなたはもう言葉を伝えることはできませんが、彼女の人生の一部として、彼女を支え続けることができるんです」
レンの肩の力が、ゆっくりと抜けていった。 彼は膝をつき、声を殺して泣き始めた。 カイは、彼が泣き止むのをただ待った。この川の上では、涙もまた、魂を浄化するための大切な儀式なのだ。
やがて、レンの身体から一粒の、ひときわ眩しい光の種がこぼれ落ちた。 それは、彼が婚約者に贈るはずだった「愛の言葉」の結晶だった。
カイはその光の種をそっと掌で受け止め、空へと放った。 光は彗星のように尾を引いて、はるか地上の空へと飛んでいく。
「それは、彼女のもとへ届くのですか?」 レンが弱々しく尋ねた。
「ええ。彼女がいつか空を見上げた時、一筋の流れ星として、彼女の心を癒やすでしょう」
舟は、対岸に近づいていく。 レンの姿が、少しずつ透明に、そして穏やかな光へと変わっていく。
「渡し守さん……あんたは、誰かを待ってるのか?」 消え入りそうな声で、レンが訊いた。
「……はい。もう、ずっと長い間」
「そうか。……あんたの待ってる人も、きっと、あんたと同じくらい、あんたに会いたがってるはずだぜ」
レンは最後に、少しだけ誇らしげに笑った。 そして、対岸の光の中へと溶けていった。
一人になったカイは、静まり返った川の上で、自分の掌を見つめた。 レンの「愛の言葉」に触れたせいか、手が僅かに温かかった。
(ミナ……君も、僕の送った流れ星を、見てくれただろうか)
カイは再び、孤独な帰路につく。 七十年の間、彼は何千、何万という「後悔」と「愛」を見送ってきた。 そのたびに、彼は自らの愛を再確認し、同時に、途方もない時の長さに心が削られていくのを感じていた。
その時だった。 遠くの岸辺、魂たちが漂着する「生の終端」に、今まで見たこともないような、激しい光の揺らぎが見えた。
まるで、巨大な星が爆発したかのような、圧倒的な生命の輝き。 それは、長い、長い人生を、余すことなく燃やし尽くした者だけが放つ、究極の浄化の光だった。
カイの心臓が、存在しないはずの鼓動を打つ。
(まさか……)
彼は、我を忘れて櫂を漕いだ。 銀色の水面が激しく波立ち、舟が光の矢となって進む。
彼が七十年間、ただの一秒も忘れることなく待ち続けた、その時が。 ついに、動き出そうとしていた。
天の川の岸辺に打ち寄せられたその光は、これまでカイが見てきたどの魂とも違っていた。
通常、魂というものは、現世への未練や死への恐怖、あるいは生への執着によって、色が濁ったり、形が歪んだりしているものだ。しかし、目の前にあるその光は、まるで磨き抜かれたダイヤモンドのように純粋で、それでいて、幾層にも重なる夕焼け空のような、深く温かな色彩を放っていた。
カイは、波打ち際に小舟を乗り捨て、砂を蹴って駆け寄った。 心臓がないはずの胸が、熱を帯びて苦しいほどに疼く。
「……ミナ」
その光の塊が、ゆっくりと形を成していく。 現れたのは、一人の老婆だった。 白髪は美しく整えられ、深い皺が刻まれた顔には、穏やかな凪のような微笑みが浮かんでいる。その姿は、カイの記憶の中にある二十歳のミナとは似ても似つかない。
だが、カイにはわかった。 魂の芯にある、あの夏の日の向日葵のような、強くて優しい輝き。 それは間違いなく、彼が人生のすべてを賭して待ち続けた、唯一無二の女性だった。
ミナは、おぼつかない足取りで銀の砂の上に立ち、不思議そうに周囲を見渡した。 そして、目の前で立ち尽くすカイへと視線を向けた。
「……ここは、どこかしら」
その声。 七十年の歳月を経て、鈴を転がすような若々しさは消え、穏やかで落ち着いた、包み込むような声音に変わっていた。 カイは、危うく彼女の名前を叫び、その細い肩を抱きしめそうになった。
(いけない……)
渡し守としての本能が、彼を押し止める。 今の彼は、死者の記憶を浄化し、安らぎへと導く「装置」でなければならない。もし今、彼が「カイ」として彼女に接し、彼女の心を激しく揺さぶってしまえば、彼女が七十年かけて積み上げてきた「美しい生の完成」を乱してしまう恐れがあった。
「……天の川の渡し守です」 カイは、震えそうになる声を無理やり抑え込み、深く一礼した。
「お疲れ様でした。あなたを対岸までお連れするために参りました」
ミナは、カイの顔をじっと見つめた。 その瞳の奥に、かつての面影を探すような光が宿る。
「渡し守さん。……あなた、私の知っている誰かに、とてもよく似ているわ」
カイの指先が、微かに震えた。
「……渡し守は、見る者の記憶を映し出す鏡のような存在ですから。きっと、あなたの心の中にある大切な誰かの姿を、私に重ねているのでしょう」
「そう……そうね。あの子も、あなたのような真っ直ぐな目をしていたわ」
ミナは小さく笑い、カイが差し出した手を取った。 その手は、驚くほどカサカサに乾いていて、それでいて、たくさんの人の手を引き、たくさんのパンを捏ね、たくさんの命を慈しんできた「重み」があった。
カイは彼女をエスコートし、慎重に小舟へと乗せた。 舟が岸を離れる。 銀色の水面が、彼女の放つ黄金色の光を反射して、幻想的な模様を描き出す。
「とても……綺麗ね。この川は」 ミナは、舟の縁から身を乗り出し、流れていく星屑を見つめた。
「ええ。ここは、世界で一番美しい場所です。あなたがたが生きてきた証が、すべてここに集まってくるのですから」
「私の証も、そこにあるのかしら」
「もちろんです。あなたの魂の輝きを見ればわかります。あなたは、とても素晴らしい人生を歩んでこられたのですね」
カイの言葉に、ミナは少しだけ寂しそうに目を細めた。
「……いいえ。私は、ずるい人間なのですよ」
「ずるい……?」
「ええ。私にはね、若い頃に誓い合った人がいたの。彼は先に逝ってしまったけれど、『待っている』と言ってくれた。……それなのに、私は彼を一人ぼっちにして、別の男性と添い遂げて、こんなに長生きをしてしまった」
カイは櫂を漕ぐ手を止めそうになった。 彼女が語り始めたのは、彼がずっと知りたくて、同時に、知るのが怖かった「彼女の不在の七十年」だった。
「夫だった人はね、とても不器用で、でも実直な人でした。子供たちも立派に育って、孫も生まれて……。私はいつの間にか、彼のことを思い出す時間が少なくなっていった。幸せになればなるほど、先に逝ったあの人に、申し訳ない気持ちでいっぱいになって……」
「……そんなことはありません」 カイは、遮るように言った。 声が、どうしても熱を帯びてしまう。
「あの方は……そのカイという男性は、あなたが不幸せになることなんて、一秒たりとも望んでいなかったはずです。あなたが誰かを愛し、笑い、豊かな人生を過ごすことこそが、彼にとっての唯一の願いだった。……私は、そう確信しています」
ミナは驚いたように、カイを見上げた。
「どうして、あなたがそんなことを言い切れるの?」
カイは、ハッとして言葉を呑み込んだ。 言い過ぎた。 だが、溢れ出す想いを止めることができなかった。
「……渡し守は、多くの魂の『後悔』を見てきました。愛する人を遺して死んだ者は、皆一様に同じことを願うのです。『自分を忘れてもいいから、どうか幸せになってくれ』と」
ミナは、しばらくの間、黙って川面を見つめていた。 やがて、彼女の目から、一筋の雫が零れ落ちた。 それは星の砂と混ざり合い、青白く発光しながら川の底へと沈んでいった。
「ありがとう、渡し守さん。……あなたの言葉を聞いて、少しだけ心が軽くなったわ。……ああ、なんだか急に、眠くなってきてしまった」
浄化が始まっていた。 対岸に近づくにつれ、魂は重い記憶を脱ぎ捨て、深い安らぎ――忘却へと向かっていく。
ミナの身体が、徐々に淡い光に包まれ、その輪郭が揺らぎ始める。 老婆の姿が、少しずつ若返っていく。 六十代、四十代、二十代……。
カイの目の前で、彼が愛した「あの頃のミナ」が、時間を巻き戻すように姿を現していく。
「……カイ……くん?」
夢うつつの中で、彼女が小さく呟いた。 記憶が消える直前、意識が最も純粋になった瞬間に、彼女の魂が真実を捉えようとしていた。
カイは、もう耐えられなかった。 彼は櫂を放り出し、彼女の前に膝をついた。
「ミナ。……おかえり」
舟は、もうすぐ対岸の「忘却の門」にたどり着く。 二人の時間が、再び交わるのは、ほんの数十秒の奇跡だった。小舟の舳先が、静かに白い砂浜へと乗り上げた。 そこは天の川の終着点。目の前には、天を衝くほどに巨大な、水晶でできたような「忘却の門」がそびえ立っている。門の向こう側からは、すべてを無に帰すような、圧倒的で清らかな白光が溢れ出していた。
舟の上で、ミナは完全に二十歳の姿に戻っていた。 病に侵されていた頃の青白さはなく、頬には朱が差し、瞳は夏の夜空のように深く澄んでいる。
「……思い出したわ」
彼女の声は、もう老婆のものではなかった。 カイが何度も夢にまで見た、あの愛らしい、少し甘えるような響きを含んだ少女の声。
「カイくん。あなたなのね。ずっと、ずっと、ここで私を待っていてくれたのね」
ミナは震える手で、カイの頬に触れた。 渡し守の身体は、本来なら魂が触れられるほどの実体を持たない。しかし、今のカイの心は、規則を破ってでも「一人の男」に戻っていた。彼女の指先の温かさが、魂に直接染み込んでくる。
「……バカだよ、ミナ」 カイは、彼女の手を自分の手で包み込んだ。
「あんなに、幸せになれって言ったのに。僕のことなんて忘れて、もっと早くここに来ればよかったのに」
「忘れるわけないじゃない」 ミナは涙を流しながら笑った。
「あなたがくれたあの言葉があったから、私は独りになっても、顔を上げて歩けたの。別の誰かと歩んだ時間も、子供たちを愛した時間も、その根っこには、いつもあなたからもらった『愛された記憶』があったんだよ」
カイは絶句した。 自分が彼女を縛り付けていたのではないかと、何十年も自責の念に駆られていた。しかし、彼女にとって彼の記憶は、鎖ではなく「杖」だったのだ。
「……ミナ。もう、時間だ」
カイは門を指差した。 門の向こう側へ行けば、彼女の魂は真っ白に洗浄される。彼との出会いも、彼を待たせた罪悪感も、そして七十年の豊かな人生の記憶も、すべては星の塵となって川へ還る。
「行きたくない……!」 ミナがカイの胸に顔を埋めた。
「ここへ来れば会えると思って、一生懸命生きてきた。なのに、会えた瞬間にすべてを忘れるなんて……そんなの、あんまりだわ。私は、あなたを覚えたまま、あなたと一緒にいたい!」
「それはできないんだ」 カイは彼女の背中を、壊れ物を扱うように優しく叩いた。
「君をここへ留めることは、君を『無』にしてしまうことと同じだ。君は新しい命になって、新しい太陽の下で、また誰かと出会わなきゃいけない。それが、君が繋いできた命への責任なんだよ」
「でも……!」
「大丈夫。君が忘れても、僕が覚えている」 カイは彼女の顔を両手で包み込み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君がパンを焼いた匂いも、子供たちの手を引いた手の感触も、孫に聞かせた子守唄も……君が語ってくれた『幸せなお土産話』は、全部僕が預かった。僕が渡し守である限り、君の人生は、この宇宙から消えたりしない」
それが、カイがこの七十年、そしてこれからも永遠に背負い続ける「愛の形」だった。 彼女に真っさらな未来を与える代わりに、自分が彼女の過去をすべて肩代わりする。
「カイくん……あなた、ずっと独りで、それを背負い続けるつもりなの?」
「独りじゃないさ。君の記憶と一緒にいるんだから、これほど贅沢な孤独はないよ」
カイは微笑んだ。その笑顔は、かつて坂道で自転車を漕いでいた時と同じ、混じりけのない少年のものだった。
門の光が強まり、ミナの身体が砂のように崩れ、光の粒子へと変わり始めた。 不可逆の浄化。もう、一秒の猶予もなかった。
「最後に、一つだけ約束して」 カイは彼女の耳元で、祈るように囁いた。
「次の人生でも、君は君のままでいい。でも、もしどこかで、理由もなく空を見上げたくなったり、銀色の川の夢を見たりしたら……その時は、誰かが君のことを、宇宙で一番愛しているんだってことだけ、思い出してほしい」
ミナの姿が、光の中に溶けていく。
「……大好きだよ、カイくん。……ありがとう」
その言葉を最後に、彼女の意識は光の奔流へと吸い込まれていった。 門の向こう側で、一つの新しい、純白の光が生まれたのが見えた。 それは、重力からも記憶からも解放された、祝福された命の種だった。
門が重々しく閉まり、周囲に元の静寂が戻る。
カイは、誰もいなくなった白い砂浜に、たった一人で立ち尽くしていた。 彼の胸の中には、今、一人の女性の七十年にわたる人生の重みが、ずっしりと鎮座している。 彼女が愛した夫のこと、育てた子供たちの名前、晩年に見た庭の景色……。 それらは、彼が直接体験したことのない、けれど彼が守り抜いた「彼女の幸せ」の証拠だった。
「……さあ、仕事に戻ろうか」
カイは目元を拭い、再び小舟に乗り込んだ。 彼の身体は、先ほどよりも少しだけ透明度を増していた。 魂を一つ見送るたびに、渡し守は自らの存在を削り、川の一部となっていく。 いつか、彼自身が完全に消えてなくなるその日まで、彼はこの川を漕ぎ続ける。
その時、銀色の水面に、一筋の強い光が差し込んだ。 それは地上の夜空に流れる、巨大な彗星の尾だった。
カイは櫂を止め、その光を見上げた。 もしかしたら、あの中のどれかが、新しく生まれ変わる彼女の「合図」かもしれない。
「行ってらっしゃい、ミナ。……いい人生を」
銀色の川に、渡し守の低い歌声が響く。 それは、決して届くことのない、けれど永遠に消えることのない、世界で一番静かなラブソングだった。ミナを見送ってから、天の川の時間はさらに重なり続けました。 地上では、文明が興り、滅び、また新しい街が作られていく。人々の祈りの形や言葉は変わっても、この川に辿り着く魂たちが抱える「愛」と「後悔」の本質だけは、何ひとつ変わりませんでした。
カイの身体は、いよいよ透き通り始めていました。 渡し守としての役目を数百年――あるいは数千年果たし続けた代償。彼はもはや、個体としての「カイ」ではなく、天の川の現象の一部になりつつあったのです。
櫂を漕ぐその手は、星屑が透けて見えるほどに薄い。 けれど、彼の内側に灯る「ミナの記憶」だけは、時を経るごとにその純度を増し、暗い川面を照らす道標となっていました。
ある「時」、カイの前に一人の奇妙な魂がやってきました。 それは、まだ死んでいないはずの、淡く、けれど力強い光を放つ「生霊」のような存在でした。
「渡し守さん。……ここへ来れば、答えが見つかると聞いたの」
その声に、カイは櫂を止める。 舟の前に立っていたのは、現代の服を纏った若い女性でした。その顔立ち、その声、その魂の波形。 カイの胸に保管されている「ミナの記憶」が、共鳴するように熱く激しく震え出しました。
(……ミナ? いや、違う。彼女はもう、新しい命を……)
「私は、ずっと夢を見てきたわ」 彼女はカイを見つめ、涙を流しながら語りました。
「銀色の川と、そこで私を待っている誰かの夢。その人はいつも悲しそうな顔をして、でも世界で一番優しい声で私に『幸せになれ』って言うの。……私は、その人に『ありがとう』を言いたくて、ずっと空を探していた」
カイは声が出ませんでした。 ミナが転生し、何世代もの命を巡り、今の彼女へと繋がっている。 そして、彼が守り続けていた彼女の「お土産話(記憶)」が、見えない絆となって、今の彼女をここまで呼び寄せたのです。
「……あなたは、幸せですか?」
カイは、絞り出すような声で問いかけました。
「ええ。とても」
彼女は微笑みました。その笑顔は、かつてのミナのどの時代とも重なり、それでいて、今を懸命に生きる一人の女性としての強さに満ちていました。
「でも、あなたを見つけたら、もっと幸せになれる気がしたの」
その瞬間、天の川がかつてないほど激しく輝きました。 神との契約が、終わりを告げようとしていたのです。
『渡し守カイよ』 虚空から、重厚な声が響きました。
『お前は十分すぎるほどに務めを果たした。彼女の記憶を守り抜き、彼女の魂に道を示し続けた。……今、その絆が、お前を「永遠の孤独」から解き放とうとしている』
カイの持っていた櫂が、光となって崩れ落ちました。 小舟も、星の砂へと還っていきます。 彼はもう、魂を運ぶ必要がなくなったのです。
「カイくん!」 目の前の女性が、彼へと手を伸ばしました。
カイは悟りました。 彼女は「ミナ」であって、ミナではない。 けれど、彼が愛した魂の根源は、今、目の前で確かに呼吸をしている。
「……待たせてごめんね。今度は、僕が会いに行くよ」
カイの透明だった身体が、眩い白光に包まれました。 彼の中にあった数千年の記憶が、すべて彼女の魂へと還っていく。 彼が守り続けた「彼女の人生」が、彼女自身の力となって、その未来を照らす。
渡し守という役割を脱ぎ捨て、彼は真っ白な「命」の粒へと還っていきました。
二十一世紀、初夏の東京。 激しい夕立が止み、アスファルトからは雨上がりの独特な匂いが立ち上っています。
大学のキャンパスへ向かう坂道。 美波(みなみ)は、ふと足を止めて空を見上げました。 雲の切れ間から大きな虹が架かり、世界を鮮やかに彩っています。
「……あ」
なぜか、涙が溢れてきました。 悲しいわけではない。ただ、途方もなく懐かしくて、温かな何かが、胸の奥いっぱいに広がったのです。 彼女は自分の左胸に手を当てました。そこには、ずっと前から大切に預かっていた「誰かからの贈り物」があるような気がしていました。
「すみません!」
後ろから走ってきた学生が、彼女の肩に軽くぶつかりました。 教科書を落としそうになった彼女を、その学生が慌てて支えます。
「大丈夫ですか?……あ、ごめんなさい、急いでたもんで」
立ち止まったその青年は、首に巻いたスポーツタオルで汗を拭いながら、申し訳なさそうに笑いました。 その瞳を見た瞬間、美波の時が止まりました。
真っ直ぐで、澄んでいて、どこか遠い星の光を宿したような、優しい目。
「……いえ、大丈夫です」 美波は、自分でも驚くほど自然に微笑んでいました。 「綺麗な虹ですね」
青年は空を見上げ、驚いたように目を見開きました。
「うわ、本当だ。……不思議だな、初めて見たわけじゃないのに、なんだかすごく懐かしい気がする」
二人は、虹の下でしばらくの間、言葉を交わしました。 昨日までの他人が、まるで数千年の時を共に過ごしてきた親友のように、ごく自然に、惹かれ合っていく。
「俺、海(かい)って言います。……変なこと言いますけど、あなたにどこかで会ったこと、ありませんか?」
「私も……今、同じことを言おうとしていました」
美波は笑いました。 天の川で渡し守が守り続けた「記憶」は、今、二人の新しい物語として動き出したのです。
もう、川を隔てて待つ必要はありません。 二人の足元には、銀色の砂ではなく、確かな土の匂いと、続いていく明日の景色がありました。
「……海くん」
「はい?」
「これから、少し歩きませんか? どこまでも、ゆっくりと」
「ええ。喜んで」
天の川の約束 王堕王 @oosoo
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