凪の底のレゾナンス~島の記憶が未来を照らすとき~

ソコニ

第1話 残光のダイブ

 高速船の振動が、スマートフォンの画面を微かに揺らしている。湊蓮は折りたたまれた最新機種を手の中で弄びながら、電波の強度を示すアンテナマークが三本から二本へ、二本から一本へと減っていくのを眺めていた。


 二〇二六年、一月九日。東京では今頃、始業前のオフィスで同僚たちがエスプレッソマシンの前に列を作っているだろう。蓮はその光景を思い浮かべて、小さく息を吐いた。


「まもなく神池島でございます」


 船内アナウンスが流れる。蓮は顔を上げ、窓の外を見た。


 灰色の海の向こうに、島が浮かんでいた。


 いや、「浮かんでいる」という表現は正確ではない。むしろ「沈んでいる」――海面から僅かに頭を出している巨大な生物の背中のように、島は重たく、動かず、そこに在った。


 錆びた鉄骨の構造物が、島の中央で天を突いている。かつて炭鉱の櫓として数千人の命を地下へと運んだ第二竪坑。蓮が受け取った資料によれば、あの櫓は一九七〇年代から一度も塗装されていないという。


 エンジン音が弱まり、船が減速する。


 島に近づくにつれて、蓮の耳に変化が訪れた。東京では絶えることのなかった都市のノイズ――車のクラクション、工事現場の音、雑踏の喧騒――が、まるで音量を絞られたかのように消えていく。


 そして船が桟橋に接岸した瞬間、蓮は気づいた。


 何も聞こえない。


 波の音さえも、まるで息を潜めているかのように静かだった。


「……」


 蓮はタラップを降り、コンクリートの桟橋に足を踏み入れた。スニーカーの靴底が地面を叩く音が、やけに大きく響く。


 見渡す限り、人の気配がない。


 桟橋から続く道路には、雑草が生い茂っている。かつて商店街だったであろう建物は、シャッターが錆びつき、看板の文字は風雨に晒されて判読不能になっていた。


「東京の喧騒を逃げ出したかったはずなのに」


 蓮は独り言を呟いた。


「この静寂は、まるで見放された世界の終わりのようだ」


 スマートフォンを取り出す。電波は一本。圏外にはならないが、SNSのタイムラインは更新されない。


 ――ここは本当に、日本なのか?


 蓮の胸に、得体の知れない不安が広がっていった。


「兄ちゃん、湊さんか?」


 声に振り返ると、一人の老人が立っていた。


 七十代後半だろうか。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、作業服の上に着た防寒ジャケットは所々に補修の跡があった。しかし、その瞳には鋭い光が宿っている。


「あ、はい。湊蓮です。池島プロ……神池島プロジェクトの――」


「権藤たい。権藤秀雄。よう来たね」


 権藤と名乗った老人は、蓮の荷物を見もせずに踵を返した。


「ついて来い。案内するけん」


 蓮は慌てて小型のスーツケースを引きずりながら後を追った。


 権藤の足取りは確かで、迷いがない。崩れかけた階段も、割れたコンクリートも、まるで自分の家の廊下を歩くように進んでいく。


「権藤さんは、ずっとこの島に?」


「ああ。生まれも育ちもここたい。炭鉱が閉まって二十五年、島民がおらんようなってからも、ずっとな」


「一人で……ですか?」


「一人じゃなか」


 権藤は足を止めず、前を向いたまま答えた。


「ここには、まだ何千人もおるよ」


 蓮は周囲を見回した。崩れかけたアパート、割れた窓ガラス、錆びついた自転車。どこにも人の姿はない。


「……幽霊、とかですか?」


「幽霊かもしれんし、記憶かもしれん。お前さんには見えんやろうが、わしには見えるとよ」


 権藤は古びたアパートの前で立ち止まった。五階建ての鉄筋コンクリート造り。外壁は剥がれ落ち、鉄筋が露出している箇所もある。


「ここが、お前さんの泊まる部屋たい」


 階段を上り、三階の一室へ。権藤が鍵を開けると、意外なほど清潔な室内が現れた。


 六畳ほどの和室。畳は新しく張り替えられ、小さなテーブルと座布団が置かれている。窓からは海が見えた。


「掃除、されてたんですか?」


「週に一度はな。人が来ることを、信じとったけん」


 権藤はそう言って、部屋の隅に置かれたノートを手に取った。古びた大学ノート。表紙には「名簿」とだけ書かれている。


「権藤さん、それは……」


「ここで働いとった者たちの名前たい。毎日、読み上げとる」


 権藤はノートを開いた。そこには、びっしりと名前が書き連ねられていた。


「田中太郎、享年六十八。山田次郎、享年七十一。佐藤三郎……」


 淡々と読み上げる声。それは祈りでも供養でもなく、ただ事実を確認するような、静かな作業だった。


「兄ちゃん」


 権藤は顔を上げた。


「ここは死んだ島じゃなか。ただ『息を潜めてる』だけたい。石炭を掘り尽くしたあとの空洞に、何が詰まっとるか想像したことのあるか?」


「……何が、詰まってるんですか?」


「明日、見せたる。今日はゆっくり休め」


 権藤はそう言い残して、部屋を出ていった。


 一人残された蓮は、窓の外を見た。夕日が海を橙色に染めている。


 東京では、今頃仕事帰りの人々で駅が溢れているだろう。居酒屋では同僚たちが愚痴を言い合い、SNSには誰かの華やかな日常が投稿されている。


 蓮はスマートフォンを手に取りかけて、止めた。


 ここには、そんなものは必要ない気がした。


 翌朝、蓮が目を覚ますと、部屋の外から金属を叩く音が聞こえてきた。


 窓から外を見ると、権藤が古びたトラックの荷台で何かを整理している。


「おはようございます」


 蓮が声をかけると、権藤は手を止めて振り返った。


「起きたか。朝飯は食うたか?」


「いえ、まだ……」


「なら、これ食え」


 権藤が差し出したのは、弁当箱だった。開けると、カレーピラフの上にトンカツとナポリタンが乗っている。


「これ、トルコライス?」


「神池島炭鉱弁当たい。昔は坑内でこれ食うとったとよ。カロリーが高うてな」


 蓮は箸を取り、一口食べた。スパイスの効いたピラフと、ソースの染みたトンカツ。驚くほど美味かった。


「……美味いです」


「そうやろ。ここの飯は、東京のどこにも負けんばい」


 権藤はそう言って、トラックの助手席を叩いた。


「食うたら乗れ。今日は坑内に入る」


「坑内? でも、立ち入り禁止じゃ……」


「わしが案内するなら問題なか。お前さんの仕事は、この島をスマートアイランドにすることやろ? なら、島の心臓ば見んと始まらん」


 蓮は弁当を急いで平らげ、トラックに乗り込んだ。


 トラックは島の中央へと向かった。第二竪坑の櫓が、どんどん近づいてくる。


「ここが入口たい」


 櫓の脇にある、コンクリートで固められた小さな扉。権藤は鍵束から古びた鍵を取り出し、錠を開けた。


 扉の向こうは、暗闇だった。


「ヘルメット、被れ」


 権藤から渡されたヘルメットを被り、ヘッドライトのスイッチを入れる。


「行くぞ」


 階段を降りていく。一段、また一段。外の光が遠ざかり、周囲は完全な闇に包まれた。


 蓮の心臓が早鐘を打つ。


「権藤さん、ここって安全なんですか?」


「わしがおる限りは大丈夫たい。ただし、わしの言うことはきちんと聞けよ」


 階段が終わり、横穴へと続く坑道に入った。天井は低く、大人が中腰にならなければ進めない高さだった。


 ヘッドライトの光が、壁を照らす。黒い石炭の層が、地層のように重なっている。


「ここで、何千人もの男たちが命を削って石炭を掘ったとよ。日本の高度経済成長を支えた、黒いダイヤたい」


 権藤の声が、坑道に反響する。


 さらに奥へ進むと、突然、空間が開けた。


 そこは巨大な空洞だった。天井の高さは十メートル以上。まるで地下の大聖堂のようだった。


「ここは……」


「第八採掘場跡たい。一番深い場所でな、海面下千メートルまで掘ったとよ」


 蓮はスマートフォンを取り出そうとして、権藤に止められた。


「光を消せ」


「え?」


「ヘッドライトもスマホも、全部消せ。耳を澄ませ」


 言われた通りにすると、完全な暗闇に包まれた。


 最初は何も聞こえなかった。


 しかし、数秒後――


 微かな音が聞こえてきた。


「ブォーン……」


 低い、振動するような音。それは地面の奥深くから響いてくるようだった。


「……聞こえるか、日本の心臓の音が」


 権藤の声が、闇の中から聞こえた。


「これは……何の音ですか?」


「島の地下に設置された、最新の水素冷却システムの音たい。お前さんたちが持ち込んだ、未来の音やね」


 蓮は息を呑んだ。


「まさか、もう稼働してるんですか?」


「試験運転たい。この島の地下千メートルは、海水で満たされとる。その冷たさを利用して、日本で一番効率的な水素貯蔵施設になるとよ」


 権藤がヘッドライトを点けた。その光が、空洞の壁を照らす。


 そこには、無数の光ファイバーケーブルが張り巡らされていた。


「これも、お前さんたちが引いたもんか?」


「いえ……僕が来る前から、こんな設備があったなんて聞いてません」


「そうやろうな。この島はな、もう何年も前から、誰にも気づかれんうちに『進化』しとったとよ」


 権藤は坑道の奥を指差した。


「あっちに、もっと深い場所がある。興味があるなら、明日案内したる」


「明日……」


「今日はこれくらいにしとこう。一度に全部見せても、消化不良になるけんな」


 来た道を戻り、地上へ。外に出ると、眩しい陽光が目に刺さった。


 蓮は深呼吸をした。冷たい海風が肺を満たす。


「権藤さん」


「なんね?」


「この島、僕が思ってたのと全然違います」


「そうやろうな。お前さんは、ここを『ただの廃墟』やと思うとったやろ」


「はい……」


「でもな、兄ちゃん」


 権藤は蓮の肩を叩いた。


「ここは終わった場所じゃなか。むしろ、これから始まる場所たい」


 その夜、蓮は部屋で資料を読み返していた。


 神池島プロジェクトの概要書。水素貯蔵施設の設計図。データセンターの配置計画。


 しかし、どの資料にも、今日権藤が見せてくれた「既存の設備」については一切触れられていなかった。


 ――誰が、いつ、あんな光ファイバーを敷設したんだ?


 蓮は窓の外を見た。


 島は闇に包まれている。街灯もなく、建物に明かりもない。


 ただ、第二竪坑の櫓だけが、月明かりを受けて黒いシルエットを浮かび上がらせていた。


 その時。


 蓮は目を疑った。


 島中のアパートの窓――廃墟のはずの建物の窓が、一斉に光り始めたのだ。


 オレンジ色の、温かな光。


 まるで、かつて何千人もの人々が暮らしていた頃の、生活の灯りのように。


「何だ……これ……」


 蓮は窓に駆け寄った。


 よく見ると、光は実体ではなかった。半透明で、揺らめいている。ホログラムだ。


 窓の向こうに、人影が見える。子供たちが走り回り、主婦が洗濯物を干し、男たちが一杯やっている。


 すべて、ホログラム。


 すべて、過去の記憶。


「島全体が……巨大なプロジェクションマッピング装置になってる……?」


 その時、部屋のドアがノックされた。


「兄ちゃん、起きとるね?」


 権藤の声だった。蓮は慌ててドアを開けた。


「権藤さん! あの光は……」


「見たか。島の記憶たい」


 権藤は蓮を手招きし、外へ連れ出した。


 アパートの屋上へと続く階段を上る。


 屋上に出ると、島全体が見渡せた。


 すべての建物が、光に包まれている。


 それは幻想的で、美しく、そして悲しかった。


「権藤さん、これは一体……」


「お前さんたちが設置したサーバーにな、わしがちょっと細工したとよ」


「細工?」


「ここで働いとった者たちの記録――古い写真、音声テープ、日記、手紙。あらゆるもんをデジタル化して、AIに学習させたとたい」


 権藤は夜空を見上げた。


「そうしたら、AIが勝手に『再現』し始めたとよ。かつて、ここに何千人もの人間がおった頃の、日常をな」


「それって……」


「違法かもしれんな。勝手に国のサーバー使うたし、電力も失敬しとる」


 権藤は笑った。


「でもな、兄ちゃん。この島はね、誰も死んどらんとよ。みんな、データの中でまだ石炭を掘りよる。笑うとる。泣いとる。生きとる」


 蓮は言葉を失った。


「お前さんに頼みたいのは、その『記憶』を、新しい世界へ繋ぎ直すことたい」


「繋ぎ直す……?」


「ああ。この島をスマートアイランドにするんやろ? 効率的で、クリーンで、未来的な場所に」


 権藤は蓮の目を見た。


「でもな、その未来には、過去の『熱量』も一緒に持っていってほしかとよ。エネルギーは石炭からデータに変わった。ばってん、ここで働いとった奴らの熱量は、まだ一ビットも失われとらん」


 光に包まれた島。


 幻のような、しかし確かに存在する、過去の人々の営み。


 蓮は胸が熱くなるのを感じた。


「権藤さん……僕、この島のこと、何も分かってませんでした」


「当たり前たい。お前さんは、データしか見とらんかったけんな」


「でも、これから――」


 蓮はスマートフォンを取り出した。


「これから、ちゃんと見ます。この島の『熱量』を」


 蓮はカメラを起動し、光に包まれた島を撮影し始めた。


 そして、久しぶりにSNSを開き、投稿した。


 ――「ここは、終わった場所じゃない。未来の予行演習が始まっている場所だ。」


 投稿ボタンを押す。


 電波は弱いが、確かにデータは送信された。


 権藤が蓮の肩を叩いた。


「ええね。その調子たい」


 二人は、光に包まれた島を見下ろしていた。


 海の向こうから、冷たい風が吹いてくる。


 しかし、蓮の心は温かかった。


「権藤さん、明日も坑道に連れて行ってください」


「おう。もっと深い場所に、もっとすごいもんがあるとよ」


「楽しみにしてます」


 蓮は微笑んだ。


 東京での競争、挫折、逃避――そのすべてが、今は遠い過去のように感じられた。


 ここは、新しい何かが始まる場所だ。


 過去と未来が共鳴する場所。


 凪の底で、静かに、しかし確かに響く、レゾナンスの始まりだった。


 島の光は、夜明けまで消えることはなかった。

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