追憶は、名を持たない

梦月みい

【前編】

自分の中で何かが欠けた、いや、抜け落ちた。

そんな感覚でエリナは目を覚ました。

言いようのない違和感と喪失感に、カーテンの隙間から差し込む光で眼球を焼かれそうな不安感に支配された。

両手で瞼を覆い、深く息を吐き出す。白い息が室内に溶け、違和感の正体に気付いてしまい、慌てて身体を起こす。

ぎし、と音を立てるベッドの纏うシーツが不穏な皺を刻んでいた。


「……ない」


小さく、しかしはっきりと吐き出されたその呟きは、絶望の色を濃く深く纏っていた。

エリナは慌てて本棚に陳列する適当な一冊に手を伸ばし、擦り切れるまで読み込んだページを震える手でぱら、と開いた。

開いたページはどこを開いても何も記載されていない。

「う、そ…読めない、読めない、なんで、なんでどうして…!」


手にしていた本を乱雑に床に投げ捨てる。次の一冊を手に取っては同じように開き、何も記載されていないページをパラパラと追い、また床に放る。同じように手に取っては投げ、次の本へ。

ある程度のところで『無駄だ』と理解すると同時に、本格的になった絶望感に全身から血の気は引く。膝に力が入らず、そのまま床に座り込んでしまった。


———どうしよう、どうしよう


エリナの胸は騒ぐばかりで、頭もざわついてまともに思考が追いつかない。

どのくらいの時間そうしていたかはわからない。


普段ならとっくに顔を出すエリナが姿を見せないと、彼女の幼馴染であるローワンがエリナの控えめなサイズの家の木製の扉をノックする。

「おーい、エリナまだ寝てんの?」

しん、として応答のない家屋。元々そんなに大きくない家で、ドアからはちょっとした物音も割と聞こえるくらいの簡素なものであった。人の気配のようはあるのに、反応がない。ローワンはエリナが室内で倒れでもしているのかと懸念し、少しだけ躊躇うもドアノブを捻った。

あっさりと開くドアに、第一の違和感。

「…エリナ?」

玄関を入った目の前にある、リビングダイニングの役割をする空間。朝に食事を取ったような痕跡はなく、ローワンは控えめに「お邪魔しまーす」と声をかけてから一歩室内へと入った。

部屋を少し進んだ先にある廊下と、その向かいにある換気の為の小さな窓しかない部屋。

彼女は大体いつもここにいると、警戒しながらドアを開くも無情にも空振り。がらんとした室内にはフラスコや何の草なのかわからない葉っぱの入った袋、その奥には瓶詰めされた虫やトカゲ。何をどうしたらそうなったのかわからない毒々しい色の液体や謎の粉。ローワンは相変わらずの言いようのない悍ましい部屋に小さく息を呑む。何度見ても見慣れない『魔女の部屋』を見廻し、目的のエリナはここにはいないことを確認する。そうなると、人の気配だけは感じる以上、残った可能性は廊下の突き当たりにある階段を登った先にあるエリナの寝室兼書庫だった。

古い床材の軋む音を奏でながら、ローワンは「一応オンナノコ?の部屋だし?」とよくわからない言い訳を呟きながら階段を登っていく。

プライベート空間、とでも言わんばかりに鎮座する部屋の扉を前に、ローワンは意を決して扉を叩く。

「エリナ、いるのか?起きてる?具合悪い?」

微かに人の吐息のようなものを感じはするも、相変わらず応答はない。ローワンは「女の子」で「幼馴染」である以前に、地域では一番実力のある「魔女」である彼女に、ただ事ではない何かを感じてノブに手をかけた。

「エリナ、入るからな」

ガチャ、とドアを開く音のした直後、床に呆然とへたり込むエリナの姿が目に入る。ローワンは「無事か」と安堵するも、ここでまた違和感を覚え慌ててエリナに駆け寄った。

「…おい、どうした」

「……ローワン、どうしよう、なくなっちゃった」

ぽろぽろと涙を溢れさせるエリナの姿は、ただの年相応の女の子にしか見えずにローワンは不覚にも息を飲み込んでしまった。


「なく、なったって…金か?薬草?それとも」

「私の!…私の、ま、魔法〜…!」

再びべそっと涙を手の甲で拭いながら、すんすんと鼻を啜るエリナの背中を遠慮がちに撫でるしか出来ずにいた。ローワンは散らばった件の「魔導書」に目を向けると、今までびっしりと記されたエリナの「魔法」は綺麗さっぱり白紙の状態になっており、状況の不穏さを物語っていた。

魔法が使えない、となると、今ローワンの目の前にいるのは「国でも有数の魔女」ではなく、「ただの17歳の女の子」でしかない状態である。これは非常に危険だ、ということはあまり魔法には明るくないローワンにも想像に難くない。

「…エリナ、魔法は全く何も全部使えないのか?」

「出来ないっ何度も試した!火も出せない、水も湧かない、探知も出来ない…!」

ローワンはそれだけ聞くと、自分の纏っていたローブをエリナの頭からすっぽりと被せた。

「わぷ、ッろ、ろーわん…!?」

エリナの間抜けな声を聞きながら、兎にも角にも見つからない場所へ、とローワンはエリナの華奢な身体をまるで米俵のように雑に肩に担いで自宅へ連れ帰る。


エリナの家から少し森の奥へと進んだ、植物で鬱蒼とした雰囲気のある屋敷。

ローワンは自分の仕事場にしているガラス張りの温室にエリナを連れ込むと、来客用のソファに座らせた。

気休め程度に匂いを消す効果のある薬草を燃やす。煙が燻り、周囲に充満したところで、ただの女の子になったエリナの気配はこれで完全に消えた。と、思われる。

「…これで少しは平気だろ」

「……ローワン、ごめん」

ローワンが懸念していたのは、エリナの身の安全であった。前述の通り彼女は国有数の魔女である為、万が一魔法が使えない状態となればその地位を狙う輩や他国の刺客が彼女の命を狙いかねない。そも、この状態も既に敵の手にかかった結果の可能性ですらあった。とても一時的なもの、とは考えつかない。

ローワンは不安そうに瞳を揺らすエリナを見て、庇護欲のような何かを感じつつ近くにあった仕事用の椅子に腰を落とす。

「…エリナ、『こう』なったきっかけ、とか何かあったのか?変なもん食ったとか、奇襲にあったとか」

「わ、わかんない!探知魔法にも結界にも変なのは何も引っかかってないし、変なものはた、た、食べ…て、ない!し!」

「なんでちょっと自信ねーんだよ」

「と、とにかくぅ!明け方になんか、急に『落ちた』ような、『欠けた』ような!変な感じして起きたら、お、起きたらぁ…!」

再びぐすんと大きな丸い目に涙が滲む。ローワンは反射的にその涙を見たくなくて、袖で乱雑にエリナの目元を拭った。

「あーもう泣くなって!…悪いけど、俺は知っての通り薬師であって魔法は壊滅的にセンスがない、使えても超初歩の魔法くらいだ。よってお前は真っ裸で獰猛な魔獣の檻にぶち込まれてるような状態なのにまともに助けてやることが出来ねぇ。ここまではいいな?」

「……役立たず!」

「…覚えておけよ。人の情をお前は…」

ともかく、と、ローワンは短く咳払いをするとエリナに向き直る。


「魔法が無くなる、とか、奪われる?とか…俺は詳しくないからわかんねーけど、そういう魔法ってあんのか」

エリナはローワンのその言葉に考えるように顎先に指を置き、視線を斜め下に置いた。これはエリナが「考え事」をする時の癖で、ローワンは小さい頃から変わってないな…と、どこか安心したように小さく息を吐いた。

少ししてからエリナの視線はローワンへと戻されるも、視線が絡んだ瞬間にふわりと泳いでしまった。これも彼女の幼少の頃からの癖で、何か言いにくいことがあるのだと察した。

「…なんだよ、別に怒んないし…、つーか怒ったところでどうしようもないだろ。結果今『こう』なんだから、心当たりがあるならそれを解決するしかないだろ?」

「………禁術…」

ローワンの眉が僅かに動いた。

「…禁、術?」

穏やかではない単語に空気がピリついて、肌を刺すようだった。

禁術と言えば、いくつか種類がある。


一つ、死を生とする事を禁ず。

一つ、心を乱し惑わす事を禁ず。

一つ、生を死とする事を禁ず。


要は、「魔法で死人は生き返らせるな」「魔法で人の心を好き勝手させるな」「魔法で人を殺すな」、という事である。

これは魔法においての禁忌というよりは、『人の世界の道徳として』国が禁忌と定めた法であった。

とは言え、もしこの状態がエリナの言う『禁術』によるものだとすれば、と、ローワンはおずおずと言葉を選ぶように口を開いた。


「…殺されそうに、なったって事…、……か…?」

「……正確に言えば、多分…殺す、とかじゃなくて、私の存在をなかった事にする類の古い封印魔法だと思う」

「ますます穏やかじゃねーな、一体誰が」

「心当たりは死ぬほどあるからなぁ。でもここまで上手くやられたって事は、相当な手練か、あるいは———ううん、ともかく。『これ』で済んだというか、『ここで終わった』理由はなんとなくわかった」


一瞬、見慣れたエリナの顔が本物の魔女に見えた気がして、ローワンはごくりと唾を飲んだ。

得体の知れない恐怖心に似た何かを悟られないように、振り払うように小さく頭を振る。

「理由?が分かってんなら、解決方法は」

「そこまでは流石に」

ぺろ、と舌を出して「えへへ」と笑うエリナの姿は、とても先ほどまで狼狽していた『奪われた魔女』ではなく、17歳の年相応の一人の女の子であった。


「そういうのに詳しい人、って言ってもなぁ…この地域はお前が管轄してっから…俺はただの薬師、親父は弱小錬金術師、…母さんが生きてりゃ、いや、うーん」

ローワンは考え込むように椅子の上で胡座をかき、盛り上がった膝の上に肘を固定した。そこから伸びた腕が、傾いた頭を支えるように頬杖をついて、頼りなさげに視線をやや右上で漂わせた。

『占い師』である彼の母が存命であれば、あるいはこの状態に対抗する術があったかもしれない。しかし母はいない。八方塞がりの状況に、ローワンは忌々しげに髪を掻き乱した。

「つーかエリナ、その理由ってなんだ」

ふと、この非常事態を重く受け止めているのかいないのかわからないこの状況を『理由はわかった』程度に収めたエリナへ怪訝そうな視線を向けた。対してエリナは、さも飄々とした様子でこう言った。


———私を呪った相手は、私の『真名』を知らない


真名?エリナは、ずっとエリナだと思っていたが、エリナではない?

ひゅ、と、言いようのない不安感や恐怖感に息が詰まるローワンに、悪戯っ子のような屈託のない笑顔を向けてエリナは追撃した。

「そ、だから『真名』が別にある、って他に言っちゃだめだよ。ローワンがそれを知ったからって私の事どうこうできるなんてちっとも思ってないけど〜!あはは!」

言葉のテンションも声も、白々しい程に軽い。

しかしその言葉の纏うものは、何よりも重くドス黒いものを孕んでいる。

魔法が使えようとなかろうと、エリナが『魔女』であると知らしめるには充分過ぎる程であった。


「…心当たりが出来た。親父には言っとくから、エリナは絶対この温室から出るなよ。茶でもココアでも、好きなの飲んでいいから」

「はーい、『気を付けて』ね」


———最後の最後に、『気を付けて』と釘を刺された。あいつは本当に、『魔法』を奪われたのかと猜疑心を持ってしまう。


しかし、事態はそれどころではない。手早く、手近にあった茶葉や薬草を慣れた手付きで混ぜ合わせ紙袋に詰める。ローワンは自宅の奥で呑気に読書している父に「温室でエリナを匿ってる、ちょっと出かけるから帰るまで頼む」とだけ言い残し、下手に茶化す間を与えずに森を抜ける。

少し開けてくると、ぽつぽつと民家や牧場が目に入り始めた。

踏み固められた道が少しずつ石造りに舗装されたものに変わってくると、街はそれに比例するように賑やかなものへと変わっていく。大通りから少しだけ外れた箇所にある、比較的豪華な集合住宅。ローワンは勝手を知っているらしく、ずんずんと最上階へ階段を登っていく。とは言え所謂低層高級住宅、という部類の建物であるため、最上階は三階だった。重厚な石造りの扉には厳かにノッカーが付いており、ローワンはそれを握ると扉に打ち付ける。

ゴン、ゴン。重低音が響く。

中の住人は少しだけ警戒したように、扉の向こうから声だけ返した。

「……どなた?」

「ダリア。俺」

「ローワン!?」

急に声色が弾み、扉が見た目よりも軽い音を立てて開いた。

ダリア、と呼ばれた少女は、寝起きなのか生地の薄い濃紺のネグリジェにカーディガンを羽織った姿でローワンを嬉しそうに出迎える。

「…く、来るなら連絡くらいしてよ。こっちにも都合とかあるかもしれないじゃない?」

甘ったるく、妙に『女』を全面に出した声。

一卵性双生児なだけあって、エリナと顔は瓜二つであった。エリナとの違いは、髪。

エリナが長い銀髪なのに対し、ダリアは黄色の強い金髪であった。


ダリアはローワンを広いリビングの高そうなソファへ座らせると、機嫌よく鼻歌交じりにポットを指先で手繰り寄せた。ふわりと浮いた中身の入っていないポットはローワンの目の前の机に音も立てずに鎮座すると、見る見る間に中身が湯気の立つ湯が満ちていく。

ローワンは無意識に「そうだよなぁ」とその光景を眺めて独り言ちる。隣室で簡単に着替えて来たらしいダリアが「なぁに?」と首を傾げるのを見て、ローワンは「いや、」とだけ簡単に返す。

目のやり場に困るような、胸元や足元を主張する服に落ち着かずに持参した茶葉を差し出した。

「…ダリアに、飲んでもらおうと思って調合してきた」

「アタシに!?嬉しい!」

花の綻ぶような笑顔を向けてダリアは嬉しそうに紙袋を受け取る。袋を開け、立ち込める花の香りと茶葉の香りにうっとりと目を細める。

「いい香り…」

「こういうハーブティーみたいなの、好きだろ?ほら、俺しがない薬師だから茶葉くらいしか手土産に出来そうなの思い浮かばなくて」

「ううん、嬉しい!ありがとう」

そう言ってティーポットに茶葉を2匙、適温になった湯を注いで適度に蒸らす。とっておき、と言って食器棚から出した二脚のティーカップにそれぞれ茶を注ぐと、ふわりと華やかで爽やかな香りが立ち込める。

「…それで、どうしたの?なにかご用事?」

ダリアがカップに口をつけ、一口嚥下する。細い首の奥の方で、喉が動くのが見える。

「いや……つーか、随分儲かってんな」

調度品の豪華さに目を奪われながらローワンは無遠慮に返すと、愉快そうにクスクスと笑いながらダリアはもう一口茶を飲んだ。

「まぁ、私はそれ程でも無いんだけどね」


──── それは、誰と比較して?

そう言いたいのを飲み込んでローワンは正面に座るダリアを見つめる。

急に視線に熱が籠ったような感じに、ダリアは頬を赤く染めてそれを誤魔化すようにこくこくと半分程喉の奥に茶を流し込んだ。


「エリナが、」

エリナ。そう名前を紡いだ瞬間、ダリアはガシャンと『とっておき』のティーカップを乱雑に机に置いた。

「…………エリナって、誰?」


その一言で、ローワンには充分だった。


「お前がやったのか」

「やったってなに?アタシ知らな」

「知らないはずないよな」

「…………」


沈黙、静寂。

窓の外の喧騒だけが、切り取られたようによそよそしく室内に微かに滲む。


「ふ、あは。バレちゃってるのかぁ」

毒を纏ったような、ねっとりとした声と笑顔。目の前にいるこのエリナに瓜二つの少女もまた、魔女であった。殺し合いになれば間違いなく勝てない。刺し違えるなんて生易しい。おそらく、瞬きをしている間には死んでいるだろう。ローワンはその事実を改めて突き付けられるような背筋の寒い感覚に小さく息を飲む。


「バレちゃってる上に、そっかぁ失敗しちゃったかー」

小さくまるでイタズラがバレた子供のようにくすくすと笑いながら、ちょこんと小首を傾げて見せた。

「腹立たしい」

乱雑に置いたティーカップの中では、半分程に減った茶が揺らめいて浮かんだ小さな青紫の花びらを揺らしていた。

ダリアは恐らくそれが『核』であろう、一冊の本を手中に手繰り寄せた。


表紙には、「エリナ」と書かれていた。


魔法に明るくないローワンでも、先程のエリナとの話しや状況から恐らくあの本に『封じられた』のだろう事は想像がついた。

そして、エリナの言う『真名』が明かされていない事から、半端に封印されたのだと結びついた。

「まぁ、いいわ。ね、ローワン。お姉ちゃん、生きてるんでしょ?どんな感じ?瀕死?それとも生気吸い取られてババァになってる?あ、逆に産まれたての赤ちゃんになってる、って線もあるのか。うーん、この手の禁術魔法って資料少なくてねぇ」

悪びれた様子もなくヒラヒラと本を見せびらかすダリアの隙を狙ってローワンは大人しくしていた。まずは、自分が殺られでもしたら元も子もない事をよくよく理解していたからだ。とは言え、ローワンもダリアの『好意』に気が付いていない訳ではない。自分を殺す事はしないかもしれないし、殺す事も厭わないかもしれない。とにかく下手なことはまだできない──── と、思っていた所でようやく仕掛けが効いたらしい。


「……ッ、かはっ!ろ、わん…ッ何、……うぐ…!」

全身の強烈な痺れに抗えず、手中の本は重量のある音を伴って床に落下する。数拍遅れてダリアの身体も、追いかけるように床に倒れ込んだ。

「ぐ、ガハッ!きさ、まッなにを…!」

「流石魔女だな、毒耐性きちんと持ってんのか。まぁどうせ少ししたら解毒出来んだろ自分で。それにしても効くまで時間かかったなぁ、カブトリ花」

「ぅげ、ぐっげほ、げえぇっ!」

無様に床に泡や吐瀉物を撒き散らすダリアを心配する素振りも無く、ローワンは冷ややかに女の子なら見られたくないであろう嘔吐する姿を無感情に眺めながらエリナの本を拾い上げる。

一介の薬師である自分が煎じた、魔女の鼻と舌をほんの僅かに欺く程度の調合しか出来ない毒でダリアが死ぬとは到底思っていなかったローワンは、本を鞄に丁重にしまって玄関に向かった。

「ま、って、ローワンやだ、くるし、げぇッたす、け…!いやだぁ…!」

嗚咽混じりのダリアの訴えに振り返る事なく、隔てるようにローワンの姿は扉の向こうへ消えた。

────ばたん、と無慈悲な音を立て、ダリアは吐瀉物に塗れた空間に取り残された。


許さない、エリナ、憎い、どうして消えなかった!

消えてくれたら、あの人はアタシのモノだったのに…!!


────許さない…!


その言葉は、誰にも届かないまま、静かな部屋に沈んだ。



*****



薄ら寒いものを感じて、エリナは温室のソファでココアを啜っていた。


エリナにはわかっていた。双子の妹のダリアが、いつか仕掛けてくるであろう事を。

それがたまたま今日だっただけだ。多分、今日であった事に意味など無いだろう。

こうなる事を見越した訳では無かったが、エリナは母がつけた『エリナ』という名前の裏に、祖母が付けた真名を隠していてよかったと息を吐いた。


『魔女になるなら、将来心から愛した夫が出来ても、お前の『真名』は明かしちゃいけないよ』


祖母の最期の言葉を思い出しながら、エリナはソファに身を沈め直して目を瞑った。


普段ならば肌で、空気で感じる気配や魔力の動きが一切分からない。

どんなに感覚を研ぎ澄ましても、ただの獣である魔獣の動きも、ただのヒトである人間の動きも、何もわからない。

今までわかっていたものや見えていたものが急に欠落した感覚が、酷く恐ろしい。


例えば今、ただの暴漢が棍棒を振り下ろして来ても。私は、怯えてただ走って逃げる事しか出来ないだろう。

例えば、ただの盗賊がこの温室に押し寄せたとしても。私は、侵入された事すら気付かずにむざむざ捕まってしまうだけかもしれない。

その状況が『人にとっては当たり前』なのだと思い知ったら、怖くて怖くて堪らなかった。


確かに、エリナは元々持って生まれた魔力と、魔法に対する才能はあった。それは生まれた直後から発現したもので、その影響でエリナには自分が生まれた直後からの記憶が全てあった。

だが、エリナは持って生まれたモノを自分のモノとして余す事無く扱う事ができるように、祖母の教えもあってそれこそ時には死ぬかと思うほどの研鑽は幼少の頃から、現在に至るまで欠かす事は無かった。魔法然り、魔法学然り、魔法薬の調合然り。エリナはとにかく、自分の力が『持ち腐れ』と評価される事を恐れ、毎日毎日努力に努力を重ねて生きてきた。

そんなのは、近くで見てきた町の人間だけでなく、幼馴染のローワン、まして血を分けた双子の妹だって、わかっているはずだった。いや、わかっていて欲しかった。エリナは再び滲んだ涙を、纏ったままのローワンの匂いと薬草の匂いが染みついたローブでそっと拭う。

純粋に、悔しい。ただそれを上手く感情としての処理が追いつかない。


がたん、と扉が開く音に酷く身体が震えた。

こわい、こわい、たすけて、だれか。そう思っても、かちかちと歯が震えて重なるだけで声らしい声は出ない。近くには、ローワンが栽培した薬や魔法薬に使う薬草や調合する事で効力を変えられるような花などしかない。


──── …いざとなれば、爆発効果のある草を火属性魔法で​​──── いや、『そんなモノ』は、今の私には無い。



とにかく最低限、自分の身は自分で、…そう思ったところで現れた人影がローワンのそれであった為、エリナは安堵して深く深く、震える吐息を吐き出した。


「……ただいま、エリナ」

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追憶は、名を持たない 梦月みい @mii_Mutsuki131

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