まじょのつぼみ
ユリ
序章 沈黙の底で
ベルデセラータ近代魔女術学院。
森の中の湖に建てられた、魔法使いたちの学び舎。
入学はおよそ十二歳、卒業は十八ーー
つまり、この場所での生活は、人生の大半を占める。
それだけ長い時間を過ごすのだから、最初の“振り分け”は重要だった。
学院には三つの寮がある。
セレスタリア、シルヴェリア、ノクタリウム。
入学初日の儀式ーー“サバト”で、黒山羊に名を呼ばれ、振り分けられる。
黒山羊は、魔力の“揺らぎ”を読み取るのだと言われている。
生徒の資質、性格、気質ーー目に見えないものを嗅ぎ分けて、
それにあった寮へと振り分ける。
教師たちはそれを“適性に基づいた配置”と説明する。
でも生徒たちはよく知っている。
どの寮に入るかで、六年後の顔つきまで変わるということを。
選ばれる寮は、
そのままこの学院での“見られ方”になる。
セレスタリア寮。
学院の上層ーー水上階に位置する、光がよく差し込むフロア。
空が見える窓も多く、開放感がある。
天体の名をもつこの寮に集まるのは、
集団で力を発揮し、協調性に富んだ生徒たち。
彼らは仲間を大切にし、自然と輪を作る。
学院の表の顔、という印象を与えることも多い。
シルヴェリア寮。
学院の中層ーー中間階に位置し、
上層ほど明るくはないが、静かで落ち着いた空気が漂っている。
植物と調和の象徴。堅実で、地味で、でも諦めない者の寮。
教師たちはよく「努力できる伸び代がある子が行く」と褒めるけど、
生徒の間じゃ、こうも言われているーー
“どっちにも入れなかったあまりもの”だって。
言葉には出さないけれど、そう言う空気がある。
そして俺も、その空気の中にいた。
ノクタリウム寮。
学院の最下層ーー水中階に位置する暗く、湿った構造。
窓の外には湖の中が広がり、陽の光は届かない。
深海の名を持つ、静かで、冷たい場所。
魔法や知識の才に優れた者ーーだが、
群れに向かず、感情を表に出さない生徒たちが集まる寮。
“才能がある” “選ばれた”という教師もいるけれど、生徒たちはそう思っていない。
「あいつ、“沈んだ”な」
「あそこに行って戻ってくるやつ、いないよ」
「まぁ…そのうち“溺れ死ぬ”でしょ」
笑いながら、誰かがそう言う。
言葉の重さに気づかないまま、
選ばれたという言葉が
ただの皮肉にしか聞こえないのがこの寮だった。
今年もまた、黒山羊が首をもたげる。
誰かの名前が、深い湖の底に吸い込まれていくように、静かに呼ばれた。
そしてまた一人、黒いローブの影が前に進み出る。
名を呼ばれた少年は、ほんの一瞬だけ、誰かを探すようにあたりを見まわし、
それから無言で、頭を垂れた。
拍手も、歓声もない。
ただ、湖の底に沈んだ石のように、その姿は静かに消えていく。
その後ろ姿に、もう目を向けるものはいなかった。
それが、ノクタリウムに行くということだ。
名を呼ばれることは、選ばれることのはずだった。
けれどここでは、それが誰にも見られないまま終わる別れに似ていた。
名を呼ばれるたびに、何かが始まる。
けれど、ノクタリウムに振り分けられたときだけはーー
まるで“何も始まらない”ように見えた。
沈んでいったその子の名前を、
数日後に思い出せる生徒が、どれほどいるだろうか。
誰も答えない。誰も問わない。
だからこそ、この儀式は“サバト”と呼ばれている。
願いを捧げるのではなく、沈黙の契約を交わすための夜。
「ブラッドリー・アウベール」
その名が響いた瞬間、場にわずかに明るさが戻る。
ざわめきが広がったわけではないが、数人の新入生が顔を上げた。
名前に聞き覚えがあったのか、それともその少年の雰囲気が目を引いたのか。
ブラッドリーは一歩前へ進んだ。
癖のある栗色の髪が揺れる。
きゅっと結んだ制服の帯が少しだけ崩れていて、
それがかえって彼の柔らかく、親しみやすい空気を引き立てていた。
黒山羊がゆっくりと、首をもたげた。
ぐるりと回る視線の先で、何かが測られている。
「セレスタリア寮」
一拍おいてそう告げられたときーー
周囲に、微かな安堵の空気が走った。
そしてすぐに、小さな拍手がパラパラと起きる。
「ああ、やっぱりね」
「雰囲気、セレスっぽいもんな」
「うまくやっていけそう」
そんな声が聞こえたかどうか、本人にはわからなかったかもしれない。
けれどブラッドリーは、振り返ることなく、黒山羊に頭を下げた。
その背中には、まだ沈む気配なんてどこにもなかった。
*
「おはよう!」
教室のドアを開けた瞬間、ブラッドリーはいつもより声を張った。
明るく、爽やかに。自分でも「よし」と思えるくらいの挨拶だった。
だが、返ってきたのは数人の軽い頷きと、
「ああ、おはよ」と誰かの曖昧な声がひとつだけ。
視線は、一瞬だけこちらに向けられ、すぐノートや話題に戻っていった。
(あれ、ちょっと早すぎたかな。みんな眠いのかも)
気にしないふりをして、空いている席に鞄を置いた。
授業前。ノートを開きながら、前の席の男子に声をかける。
「昨日の魔導理論、ちょっと難しくなかった?
あの転写式のとこ、俺ぜんぜん分かんなくてさ」
相手は一拍遅れて、顔だけ半分振り返った。
「あー……うん、まあ……慣れれば」
そしてすぐ隣の子に向き直り、別の話題を始めた。
ブラッドリーの返事は、空中にぶら下がったままだった。
(“うん、まあ”ってそれだけかよ……。
でもまあ、そういう日もあるよな)
笑って誤魔化す。
気にしてないよって顔をする。
そうやって次の話題を探す。
昼休み。
カフェテリアで見かけた三人組のテーブルに声をかけた。
「ここ空いてる?ちょっと混んでるよな、今日」
一人が顔を上げ、ほんの一瞬間を置いて言った。
「あ、ごめん。ここ……後でユリーカが来るから」
「あ、そっか。了解〜」
笑って背を向けた。そのまま窓際の二人席に一人で腰を下ろし、
トレイのスープを黙ってすくった。
その席にユリーカという子が来ることはなかった。
(“あとで来る”ってやつか。
なんか、もう一回くらい、聞いた気がするな)
放課後、セレスタリア寮の階段を昇る。
先を歩いていた男子の背中を見ながら、話しかけようと一瞬、息を吸った。
「……ねえ」
声が出る前に、その男子は振り返ることなく曲がり角を曲がった。
“今はいいや”と言おうとした声は、喉の奥に引っ込んだ。
(自分の声が、教室で一番響いている気がするの、俺だけかな)
セレスタリア寮のホールの後ろで女子二人が話していた。
「なんか、話しやすそうだけど…ちょっとテンション浮いてない?」
「わかる、セレスタリアっていうより、なんか別のとこの感じ」
「うちの寮ってさ、もっと空気読むよね」
「うん…ノクタ向きってわけじゃないけど、なんか……違うよね」
名前は出ていない。
でも、声の届く場所でその言葉を聞くのが、一番堪える。
*
午後の授業が終わっても、部屋に戻る気にはなれなかった。
中庭。
石造のベンチと、真ん中にぽつんと咲いた青白い花。
上階の窓から溢れる光が、かすかに地面を照らしている。
誰もいないと思っていた。
でもベンチの端にひとり、座る姿があった。
男子生徒だった。
年上、大きめの眼鏡をかけていて、髪が少し伸びすぎで、フードをかぶっていないのに、
どこか隠れているような気配がした。
ジェフリー・ドルマー。
名前はどこかで聞いたことがあった。
「……先輩ですよね?」
不意に話しかけると、彼はほんの少しだけこちらを見た。
だが返事はすぐに来なかった。
「あ、すみません。邪魔だったら…」
「別に。座れば?」
返事はそっけなかったが、拒絶ではなかった。
黙って、ベンチの反対側に腰をおろす。石の冷たさが、服越しにじんわりと伝わる。
しばらく、風の音と魔導灯の点滅音だけが響いていた。
「なんか、静かですね。こういうの、落ち着くっていうか…」
「教室よりはな」
「……ですよね」
ブラッドリーは、つい笑った。
それは本当に、久しぶりの素直な笑顔だったかもしれない。
「セレスタリアなんですけど、なんか…馴染めなくて。
うまくいってないとかじゃ、ないと思うんですけど。
でも、話すと、ちょっと浮いている感じっていうか……」
「話しすぎなんじゃね?」
唐突にジェフリーが言った。
目は合わなかった。空のどこかを見ていた。
「話しすぎ、ですか?」
「声、でかい。あと返事求めすぎ」
ブラッドリーは言葉を失いかけてーー
でもどこか納得していた。
「……そっかありがとうございます。
俺、頑張っているつもりだったんだけど…
“自然”って意外と難しいですね」
ジェフリーは何も答えなかった。
でも、席を立つことも、顔を背けることもなかった。
…と思っていたそのとき。
「……ブラッドリー、だったな」
小さな声だった。誰に言ったのかも、わからないような。
ブラッドリーは、ふと顔を上げた。
目の前に広がるのは、夕闇に沈みはじめた空。
さっきまでほんのりと赤みを帯びていた光が、
ゆっくりと青に溶けていく。
横を向けば、ジェフリーの姿はそのままだった。
けれど、ほんのわずかに首がこちらに傾いているのが見えた。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
「……はい」
返事はそれだけだったが、声はまっすぐに届いた。
ジェフリーが頷いたかどうか、暗さのせいで分からなかった。
だが、ブラッドリーは立ち上がらなかった。
そして、ジェフリーも、立ち上がろうとはしなかった。
ただ、しばらくーー誰ともなく、同じ空を見上げていた。
*
ブラッドリーは、カフェテリアの扉をくぐってすぐに立ち止まりたくなった。
声、笑い声、食器の音。
あまりにも軽やかで、賑やかでーーどこかうるさかった。
「あんた、寝てたでしょ、また」
「起こしに行こうかと思ってたけど、起きてきたからセーフ!」
そう言って笑ったのは、寮の同級生。確か名前は……。
思い出そうとしても、舌の先に引っかかって出てこなかった。
「……うん」
笑うこともできず、曖昧に返して席につく。
話題の輪に加わるのが、妙に遠く感じた。
「何か言おう」と思っても、言葉が浮かばなかった。
すでにみんなの間では何周もしている会話だったから。
(自分がここにいるのが、どうしてこんなに不自然なんだろう)
そう思った時には、食べかけのパンを半分残したまま、席を立っていた。
静かな場所に行きたかったわけじゃない。
誰もいないところに、逃げたかったわけでもない。
けれど、あの時の空気ーー
ジェフリーと並んで座った、何も語らずに過ごしたあの時間。
(……あれは、悪くなかった)
ブラッドリーはふと、視線を巡らせる。
誰にも気づかれないようにそっと立ち上がると、
教室ではないどこかへ歩き出した。
その足がどこに向かっていたのかーー
本人は、まだ知らなかった。
水の音が響く場所。
水中寮。沈められた者たちの寮、ノクタリウムへとーー
*
ノクタリウム寮ーー
そこは“沈められた者”が住む場所だと、噂ではそう聞いていた。
水中にある寮への通路は石造りの螺旋階段の奥。
授業後のざわめきも届かない、ひんやりとした空気が漂っていた。
(どうせ俺は、どこにいたって浮いてる。だったらーー)
そう考えながら、ブラッドリーは扉をそっと開いた。
そこは、別世界だった。
広がるのは、深い青に満ちた空間。アーチ状の天井と、壁のステンドグラスの向こうには、水の流れと、ゆったり泳ぐ魚影。
室内には誰もいないかと思ったがーー奥の一角に二人の人影があった。
一人は壁に背を預けて静かに座る青年。
もう一人は、テーブルに向かい、何かを手にしている。
精巧な人形だった。
「…ジェフリー先輩?と、もうひとりは…」
声には出さなかった。けれど、向こうはこちらに気づいていた。
ジェフリーは視線だけこちらを向け、少し首をかしげた。そして何も言わず、
そっと隣の椅子に目をやった。
まるで、
「座れば?」と、前と同じように。
ジェフリーの視線を追って、ブラッドリーはそっと歩み寄った。
その隣にはもう一人の生徒がいた。
淡い金の髪が額にかかり、目元の影に沈んでいる
ダークグリーンの制服の詰襟はきちんと閉められていたが、指先には針と糸ーー
彼は静かに人形の服を縫っていた。
誰とも目を合わせない。
けれど、ブラッドリーが椅子を引く音にも、まったく動じることはなかった。
(……なんだろう、この感じ)
話しかけても、返される気はしなかった。
でも、追い返されるとも思わなかった。
「こいつはビリーだ」
ジェフリーが彼を親指で差して、一言だけ言った。
端正な横顔は、風変わりとも、優しさともつかない。
けれどただ一つ、確かなことがあった。
ーーこの空間の空気を壊してはいけない。
そんな静かな重みが、そこにはあった。
ブラッドリーは、そっと椅子に腰を下ろした。
三人の間に、言葉のない時間が落ちる。
でもそれは、孤独とは違っていた。
ノクタリウム寮がこんなに静かで、きれいな場所だとは思わなかった。
水の揺らぎが壁に映って、青く揺れている。
窓の外を魚が横切るたびに、光が柔らかく屈折して、
まるで空間ごと呼吸しているみたいだった。
誰も声をあげない。
でも、それは“無関心”ではなく、ただ“音を必要としない”だけのように思えた。
(……ノクタリウム寮って、悪いところじゃないのかもしれない)
噂で聞いた“辺獄”や“沈んだ者の墓場”ーー
それよりも、もっとずっと静かで、ちゃんと息ができる場所だった。
ここでは、誰も無理に笑っていない。
無理に輪に入る必要もない。
ただ、黙っていても許される。
そのことが、少しだけ、安心だった。
*
セレスタリア寮の朝はいつも賑やかだった。
朝の光が差し込む窓と、真っ白なテーブルクロス。笑い声と食器の音が交差する。
パンを半分に割って、蜂蜜を塗りながら話す女子生徒。
手帳を開いたまま、相槌を打つ男子生徒。
声が重なり合っているのに、どこか整っていて、静謐な絵のようだった。
ーーでも、そこにブラッドリーの席はなかった。
“端のほうに座っていれば誰にも邪魔にならない”
そう思って選んだ席だったのに、ふと目があった誰かが気まずそうに目をそらすとき、
その端さえも“余計なもの”のように思えた。
どう話せばいいのか。どのタイミングで笑えばいいのか。分かっているつもりだったのに、
いつも少しずれている。
「浮いているわけじゃないよ」
「いい子だとは思うんだけどね」
耳に入る、優しい言葉。
それはまるで、薄いガラス越しの音のように冷たかった。
それからも、ノクタリウム寮へ足を運ぶ日が続いた。
セレスタリア寮へ戻るたびに、違和感は強くなる一方だった。
白く光る壁、明るすぎる照明。誰かの笑い声。会話の間に差し込む沈黙すら、
どこか決められた空気のようでーー
「ここにいていい」と思える瞬間は、ついになかった。
「ねえ、最近いないこと多くない?」
同級生に言われたとき、返事ができなかった。
それでも最後の決定打になったのは、何気ない一言だった。
「あんたって、ノクタリウムの方が似合いそうね。ちょっと暗い感じ。ふふっ」
冗談めかして言った声には、悪意も嘲りもなかった。
けれど、ブラッドリーにはそれが決定打だった。
彼は翌日、転寮届を提出した。
ノクタリウム寮で迎えた最初の夜。
消灯の合図はなかった。だが、廊下の明かりが自然に落ち、
館内の温度がさらに下がることで「夜」がきたことを知った。
水音の鳴り止まぬ静寂の中、誰にも会わずに眠るのは怖かった。
ブラッドリーは寮のホールに出た。
あの時と同じ空間、水に包まれた、沈黙のような雰囲気。
その片隅に、誰かがいた。
明かりのほとんどない部屋で、彼の白い指が淡く浮かんでいた。
人形に針を通している。目を伏せ、微動だにせず、まるで祈るように。
「……あの」
声は自分のものなのに、遠くで誰かが発したように感じられた。
青年は顔を上げなかった。だが、確かに気づいたのだろう。
針を動かす手が止まった。
「ジェフリー先輩は……ここにはいないんですか?」
沈黙。水の音が間を埋める。
しばらくして、彼ーービリーはふと呟いた。
「彼は……シルヴェリア寮」
それだけだった。
言い終えた後、また針が布を貫く音が戻った。
その背中には、拒絶も歓迎もなかった。
ただ、何かを知っている人の静けさがあった。
ブラッドリーは深く息を吸って、すぐに吐いた。
「……そうですか。ありがとうございます」
返事はなかった。だが、それ以上、何も求める気にはなれなかった。
ノクタリウム寮の朝は、音がしない。
誰かの目覚ましの音も、あくびの音も、
誰かに「おはよう」と呼びかける声もない。
ただ、湖の水圧に軋む構造音と、水が管を流れるわずかな響きが、
いつも耳の奥に残っていた。
最初は、それを静寂と呼んでもいいと思っていた。
けれどある日、その音が「止まないこと」に気づいてから、静けさは不安の代名詞になった。
寮室に差し込むのは、朝の光ではなく、鈍く濁った青。
どれだけカーテンを開けても、時間の移り変わりが見えない。
ブラッドリーは、ある日から時計を壁に貼った。
けれどそれも、そのうち見なくなった。
夜はもっと深い。
天井に波の影が揺らぎ、床に光の層が走る。
最初はそれが美しくて仕方なかったのに、
次第に“魚の影”が現れるように思えて、布団を被って眠るようになった。
誰もいじめたりはしない。
誰も悪意を向けたりはしない。
だからこそ、辛かった。
すれ違っても、誰も話しかけない。
話しかけたら、困ったような笑みを浮かべて、黙って背を向ける。
それが何度も続くと、もう口を開くことすらためらわれるようになった。
『話す必要がないなら、黙っていればいい』
それがこの寮の“優しさ”だったのかもしれない。
けれど、ブラッドリーには、ただの“遮断”にしか思えなかった。
カフェテリアでは、端の席に座る。
トレイの上に乗せる量も、だんだん減っていった。
喉を通らないからじゃない。
誰も見ていないのに、誰も何も言わないのに、
「食べ方すら間違えている気がして」食べられなくなったのだ。
(どうして、あのとき移ろうと思ったんだろう)
その問いは何度も浮かんだ。
けれどすぐ自分の声でかき消される。
(ここしかなかったんだ)
そう思ってしまったのは、誰のせいでもなかった。
ある日、ふと気づく。
誰かが目の前を通っても、瞼が反応しなくなっている。
誰かの話し声が耳に入っても、何を言っているのか理解できなくなっていた。
これは、きっと心が薄くなっていくということなんだ。
少しずつ、少しずつ、輪郭が削れていく。
そうして最後に残るのは、自分の中にすら、何もないという感覚ーー
それでも、誰も助けてはくれなかった。
誰も自分の異変に気づいてなどいなかった。
もしかすると、ここにいる誰もが、そうして静かに沈んでいったのかもしれない。
夜ーー。
眠れなかった。
天井の波紋がゆっくりと揺れ続け、耳の奥で水が流れているような音が消えなかった。
布団の中は冷たく、呼吸をしても心が温まることはなかった。
ブラッドリーは音を立てないように部屋を出た。
寮のホールの隅にある、深いソファに腰を沈める。
寮の誰も使わないそこは、かつて静けさに安堵した場所だった。
目を閉じてみても、眠気はこなかった。
心臓の音ばかりが響く。
水中にいるような感覚ーー動くことができず、ただ沈んでいく。
ふいに、足音がした。
革靴が、ゆっくりと絨毯の上を踏み締めて近づいてくる。
反射的に体がこわばる。
話しかけようとしたが、言葉が喉につかえて出ない。
ソファのすぐ後ろに、誰かが立ち止まった。
長い沈黙ーー。
そして、低く、湿ったような声がぽつりと、ひとこと。
「……“上”が合わないやつは、どこでも余る」
その言葉は、冷たく、刃のように背中に突き立った。
それだけだった。
言い終えた相手は、何も言わずに立ち去っていった。
足音も、すぐに消えた。
ブラッドリーは動けなかった。
反論の言葉も、怒りも、浮かばなかった。
ただーーその“初めて向けられた言葉”があまりに重たくて、
その場から身を起こすこともできなかった。
(やっぱり、俺は……違うんだ)
ようやく自分に届いた声が、否定のための一言だったことに、
じわじわと胸が熱くなった。
水の音だけが、また、静かに戻ってきていた。
*
寮のホールは夜の静けさに沈んでいた。
空調の音と、水の軋むような響き。
その中に、たった一人で座っている自分の存在が、やけに浮いて感じられた。
眠れなかった。
ここに来てから、まともに眠れた日は数えるほどもなかった。
背中のソファが冷えていく。自分の体温が吸い込まれていく。
このまま誰にも気づかれずに、この場所から消えてしまうんじゃないかとさえ思った。
そんなときだった。
誰かの足音が聞こえた。
(…誰か、来た)
動揺を押し殺すように、ブラッドリーは息を潜めた。
足音はゆっくりと、ホールの中心を通り過ぎる。
暗がりの中でも、彼はその後ろ姿を見つけた。
ビリーだった。
薄暗いランプの下でも、それとわかった。
静かな足取り。沈黙の気配。
遠くに感じていた彼が、ほんの数メートル先を歩いていた。
ブラッドリーの口が、自然に開いた。
「……ビリー」
かすれた声だった。
声帯が思い出したように震えた。
けれど、その瞬間。
「ビリー!」
はじけるような声が、反対側の廊下から響いた。
男の子の声。明るくて、強くてーー
一瞬でこの場の空気にそぐわない、鮮やかな声だった。
足音が近づく。
階段の上から、制服の裾が揺れるのが見えた。
黒色の髪、ルーズに着崩したシルエット。
明るい色の目と、軽くはねた毛先。
「…ブロンディ…」
ビリーの足が止まる。
そしてーー振り返る。
声をかけた彼の方へ、なんの迷いもなく、歩いていく。
ブラッドリーは、もう一度口を開こうとした。
けれど何も出なかった。
出そうになった言葉が、自分でもなんだったのか、もう思い出せなかった。
(……届かない)
本当に、そう思った。
この場所で、初めて自分から出した声が、誰にも届かなかった。
この場所で、最後にかけようとした声が、別の誰かの声に飲まれた。
ホールには、再び沈黙が戻っていた。
そしてその静けさは、今までで一番冷たく、重たかった。
*
シルヴェリア寮の渡り廊下。
昼でも薄暗い通路を歩きながら、ジェフリーは指先で、ポケットの中の石を転がしていた。
水音が、遠くから聞こえる。
ノクタリウム寮のほうだ。ここからは見えないけれど、あの冷たい階層が、確かにそこにある。
数日前から、一人の生徒の姿が見えなくなった。
同じ学年じゃない。名前も、正直はっきりとは覚えていない。
ただ、彼がセレスタリア寮から、ノクタリウム寮に“沈んだ”奴だということだけは、噂で知った。
「ああ、あいつ、もうやめたんじゃない?」
「“沈んで”、戻ってこなかったんだろ?」
そう言って笑う声を、何度か聞いた。
本当に辞めたのか。
それとも、ただ誰も見ていないだけなのか。
はっきりしたことは、誰も言わなかった。
教師も、生徒も。
けれど、ジェフリーは知っていた。
ノクタリウム寮のホールでーー夜遅くに、一人で座っていた少年のことを。
あれが、限界だったのかもしれない。
「あそこに自分から行くやつなんて、そもそもまともじゃないんだよな」
誰かがそう言っていた。
ジェフリーは、その言葉を否定できなかった。
彼自身も、そう思っていたからだ。
最初にその名を聞いた時から、どこかおかしいとは思っていた。
転寮したあと、ノクタリウム寮の階段上で見かけた顔ーー
焦点があっていなかった。声をかけようとして、やめた。
あのとき話しかけていれば、と、今になって思う。
でも、多分その時も思っていた。
(俺が声をかけたところで、何が変わる?)
何も変わらなかったかもしれない。
けれど、彼が“誰にも届かない声”を出す前にーー
誰かが、ただ隣にいてくれるだけで、もう少しだけ違っていたかもしれない。
でも、俺は行かなかった。
だから今さら、彼の名を探す資格も、ない。
ジェフリーは空を見上げた。
水の気配を含んだ風が、淡く揺れて通り過ぎる。
その中に、小さく誰かの呼ぶ声が、まだ残っているような気がしてーー
彼は何も言わず、静かにその場を離れた。
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