第5話 なぜ手配士になったのか(2)

手配士として働き始めた頃、私はまだ戸惑っていた。


何を決めればいいのか。

何を見なければならないのか。

何が正しく、何が間違いなのか。

誰も教えてはくれない。


ただ、手元の書類と帳簿だけが、淡々と私を待っていた。


先輩は言った。


「手配は、目に見えるものだけではない」


私は理解できなかった。

その言葉の意味は、私の能力のなさと同じくらい遠く、霧に包まれていた。

だから、私は日々、目の前の書面に印を押すことだけを繰り返した。

押すべき場所に押し、順番に従い、番号を確認する。

ただ、それだけ。


初めて「未登録案件」が回ってきたのも、その頃だった。


書類には、何も記されていなかった。

空白の欄が広がるだけで、どこにも意味はなかった。

それでも、先輩は私に押印を求めた。


「判断はしなくていい。形式に従うだけだ」


押印した瞬間、世界が微かにずれた気がした。

空気がわずかに重くなり、目の端に見えない影が揺れた。

誰も、気づいてはいない。


だが、私の胸の奥だけに、確かに違和感が残った。

それは、ただの空白でも、ただの押印でもなかった。

世界の秩序が、静かに、しかし確実に変化する瞬間だった。


その後も、同じような案件は少しずつ増えていった。

未登録、理由不明、空白。

誰も疑問を口にしない。


私も、声にすることはなかった。

誰も、問いかけることも、答えを求めることもない。

ただ、形式に従い、印を押す。

それだけで、流れは続く。


手配士の仕事は、静かに世界を変えていく。

悪意も、意図も、ほとんど必要ない。

ただ形式に従うだけで、結果は誰かを救い、誰かを壊す。

紙の上の記号が、現実の一部を微かに動かす。

誰にも気づかれず、しかし確実に。


ある日、先輩が小さく呟いた。


「私たちは、世界の歪みを管理しているだけだ」


私は理解できなかった。

言葉の意味はまだ遠く、届かない。


しかし、胸の奥がざわついた。

何かがひっかかり、冷たい感覚が背筋に走った。

目に見える世界は変わらないのに、確かに変わっている。


それ以来、手配士としての日々は、奇妙な安定と不穏の間で揺れた。


庁舎の机の位置が、昨日と微妙に違う。

回る案件の順番が、些細に変化している。

増え続ける未登録案件が、書類の山に紛れ込んでいる。


すべてが、わずかに狂っている。

だが、誰もそのことを気にしない。

誰も疑問を抱かない。

誰も止めない。


私はただ、形式通りに押印し続ける。


年月を経ても、慣れない感覚が残る。

書類を閉じ、帳簿を整えるとき、胸の奥に小さな違和感がくすぶる。

その違和感は、目の前の秩序が壊れつつあることの証明のようでもあった。


それでも、日常は続く。

人々は帰り、街は穏やかに見える。

だが、空気の端で、世界の片隅が微かに揺れている。


気づかないうちに、世界は私たちの判断の上に成り立っていた。

だが、その判断は、誰のものでもなかった。

紙の上の印、形式に従った指先の動きだけが、確かに秩序を維持していた。


それは静かで、冷たい力だった。

恐怖ではない。

しかし、確実に、不穏さを孕んでいた。


私は今日も、形式に従い、印を押す。

世界は微かに、しかし確実に揺れる。

その揺れに目を向ける者はいない。


だが、私は知っている。

誰も知らない秩序を、私だけが見ている。


そして、少しだけ胸の奥に、居心地の悪い予感が残った。

何が起きるわけでもない。


しかし、何かが確実に、静かに、変化している。

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